流れ込む感情
僕たちは百目さんと瞬くんにお礼を言って、写真屋を後にした。
再び、商店街を歩き始める。
暁は相変わらず、通りのあちらこちらへ興味深そうに目を向けていた。
ほんの数日前まで。
この子は、言葉も名前も知らなかった。
それが今は。
街を見て笑って。
知らないものを見つければ、自分から尋ねる。
世界を知ることを、楽しんでいる。
――その時だった。
暁の足が、突然止まった。
「……暁?」
返事がない。
さっきまで楽しそうに周りを見ていた顔から、笑みが消えている。
「どうしたの?」
暁は答えず、自分の胸元へ手を当てた。
「……くる」
「え?」
「いっぱい……くる」
その声は小さく震えていた。
局長の表情が変わる。
「暁?」
僕たちのすぐ近くを、人が通り過ぎていく。
「もう、本当に嫌になる……」
買い物袋を持った女性が、小さく息を吐いた。
「今日も残業かよ……」
携帯電話を見ながら歩く男性が、疲れた顔で呟く。
少し離れた場所では、子どもを連れた母親が何度も時計を確認していた。
「急がないと……間に合わない」
誰も、怒鳴っているわけではない。
誰かを傷つけようとしているわけでもない。
ただ。
疲れていたり。
焦っていたり。
不安だったり。
人が普通に生きているだけで生まれる、小さな感情。
「……いや」
暁が呟いた。
「かなしい……こわい……いたい」
胸元を押さえる指に力が入る。
「暁」
局長がすぐにしゃがみ込んだ。
「僕を見て」
けれど暁は局長を見ることができない。
「……いっぱい」
「うん」
「みんな……いっぱい、ある」
暁の周囲に張られていた結界が、ほんのわずかに揺れた。
「局長……」
「ああ」
局長が暁へ手を伸ばす。
その瞬間――。
空気が、少しだけ重くなった。
「……っ」
少し離れた場所にいたサトリさんが、胸元を押さえる。
「サトリさん?」
「大丈夫です。ただ……少し、妖気の流れが重くなりました」
僕は暁を見る。
黒い煙が出ているわけではない。
姿が変わったわけでもない。
けれど。
暁の中にある妖気が、さっきまでよりわずかに強くなっている。
「……取り込んでる」
「え?」
「周りの人の感情を。結界で抑えてはいるけど……」
局長が、暁の周囲に揺れる結界へ目を向ける。
「でも、完全に遮ることはできない」
「じゃあ……」
「おそらく、ここへ来るまでにも少しずつ取り込んでいたんだ」
局長の表情が険しくなる。
「人の多い場所に来て、一気に流れ込む量が増えたんだと思う」
「……」
局長は暁を抱き上げた。
「……せお」
暁が局長の服を掴む。
「くるしい」
「うん。大丈夫だよ。すぐここを離れよう」
局長は暁を胸元へ抱き寄せた。
「ここからなら、白澤さんの診療所が近い」
僕たちは商店街の通りを離れ、近くの細い路地へ入った。
人の声が少し遠ざかる。
それでも暁は、しばらく局長の胸元に顔を埋めたままだった。
「……まだ痛い?」
僕が尋ねる。
「……うん。でも、さっきよりちょっと」
「そう」
局長は暁の背中をゆっくり撫でる。
少しずつ。
暁の周囲を漂っていた妖気が落ち着いていく。
人通りの多い商店街から離れたことで、流れ込んでくる感情も減ったのだろう。
さっきまで小さく震えていた暁の身体も、少しずつ力が抜けていった。
「このまま白澤さんのところへ行きましょう」
僕が言うと、局長も頷いた。
「うん。念のため診てもらった方がいいね」
僕たちは、そのまま診療所へ向かうことにした。
局長は暁を抱いたまま歩いている。
暁も降りようとはせず、局長の服を掴んで、その胸元に顔を寄せていた。
少し離れたところを、サトリさんが歩いている。
「サトリさんは、大丈夫ですか?」
「はい。さっきよりはずっと楽です」
そう答えて、サトリさんは小さく笑った。
「妖気の流れも戻ってきています。でも……」
サトリさんの視線が、暁へ向かう。
「さっきは、はっきり分かりました。暁ちゃんの妖気が急に強くなったのが」
「……やっぱり」
僕は暁を見る。
今はもう、結界もほとんど揺れていない。
けれど、あの瞬間に感じた重い空気が頭から離れなかった。
たったあれだけの時間で。
暁の力は、はっきりと強くなっていた
「……りょうじ」
「ん?」
局長の腕の中から、暁が僕を見る。
「みんな……ずっと、あれあるの?」
「あれ?」
「かなしい。こわい。いやなの」
僕は返事に詰まった。
さっき商店街で感じたものを言っているのだろう。
「……そうだね」
代わりに局長が静かに答える。
「人は、楽しいことだけを感じて生きているわけじゃないからね」
「……ずっと?」
「ずっと同じ気持ちではないよ」
局長は暁の背中を撫でながら続ける。
「悲しい時もあるし、怖い時もある。でも、嬉しい時も、楽しい時もある」
「……そっか」
暁はそれ以上何も言わなかった。
ただ、何かを考えるように局長の胸元へ顔を戻す。
しばらく歩くと、見慣れた木造の建物が見えてきた。
「あった。白澤さんの診療所だよ」
僕がそう言うと、暁がわずかに顔を上げる。
「……はくたく?」
「うん。白澤さんに診てもらおう」
「……うん」
小さな返事だった。
いつもなら「はくたく」と聞くだけで少し嬉しそうにするのに、今日はまだ元気がない。
僕は診療所の扉へ手をかけた。
「白澤さん、いますか?」
扉を開けると、薬草と紙の匂いがふわりと鼻を掠めた。
「いるよ。そんな大声を出さんでも聞こえている」
奥から、いつものぶっきらぼうな声が返ってくる。
やがて白澤さんが姿を見せ――。
局長の腕の中にいる暁を見るなり、その表情が変わった。
「……何があった」




