1-7. あかいかみ、あかいけもの
カイウスを支えるリアの足取りは地図をなぞるように正確だった。
根を避け、分かれ道を選び、彼の歩調に合わせてゆっくり進む。彼女がこの森にどれほど馴染んでいるか、隣を歩くだけで伝わってきた。
やがて木立が途切れ、小さな空地に出た。
森に溶け込むように小屋が建っている。かつては伐木小屋だったのだろう。傾いた屋根には苔が広がり、壁板にはあちこち亀裂が走っていた。
でも荒れ果ててはいない。戸口には薪がきちんと積まれ、窓辺の鉢では季節の花も揺れている。脇の畑にも手が入っていた。
脇に立つ案山子だけは少し変わっていた。木片を組んだ身体に、藁を詰めた麻袋の頭。炭で描かれた顔は満面の笑みを浮かべている。不格好だがどこか愛嬌がある。
「……着きました。ここです」
リアが足を止め小屋を指した。カイウスを支えたまま不安そうに顔を窺う。
「ご、ごめんなさい。お誘いしておいて、あまり綺麗な家じゃなくて……」
「いや、十分すぎるよ。休める場所を貸してもらえるだけありがたいさ」
「……ほんとですか?」
「ああ」
念を押すような声に頷くと、リアはほっと息をついた。
「よかった……」
小さく呟いて、木戸を開ける。
低い天井に、わずかに軋む床。壁際には石造りの炉と木棚、藁を詰めた寝台。梁には乾燥させた薬草が吊るされ、食卓には手作りらしい小物が並んでいた。
外から想像したより、ずっと温かな部屋だった。
「あ、あのっ! まずは傷を見せてください!」
リアはカイウスを腰掛けへ座らせると、傷口を覆う革鎧を慎重に緩めた。ぬるま湯で傷の汚れを洗い、潰した薬草を当ててから、清潔な布をしっかりと巻いていく。
話すときのたどたどしさが嘘のように、その手つきには迷いがなかった。
「……よし。これでひとまず大丈夫だと思います」
「助かったよ。それにしても随分と手慣れてるんだな」
「祖父に教わったんです。森では怪我をしても自分で手当てしないといけませんし。……あっ、お茶も淹れますね」
「ありがとう。何から何まですまないな」
「い、いえ!」
リアは勢いよく首を振り、炉へ向かった。鍋を火にかけ薬草を手際よく量る。乾いた葉がさらさらと音を立てた。
「……どうぞ。た、大したものじゃないですけど……」
差し出された木椀から湯気が立つ。カイウスが鼻を近づけると、薬草の香りがふわりと広がった。
「……ところでリアは、ずっとここに一人で暮らしてるのか?」
薬草を片づけていた手が止まる。
「はい。十二のときからなので、もう六年になります。その前は祖父と二人で暮らしていました。祖父が亡くなってからは、ずっと一人です」
「六年もか……その、寂しくはないのか? 村で暮らそうとは思わないのか?」
「ご心配ありがとうございます。でも、わたしは大丈夫です。一人きりの暮らしには、もう慣れてますから」
リアは視線を落とした。
答えは早かったが、先ほどカイウスを家へ招いたときの嬉しそうな顔を思い出すと、言葉どおりに受け取るのは難しかった。
「……お祖父さんは、どんな人だったんだ?」
リアの頬が、かすかに緩んだ。
「優しい人でした。少し頑固でしたけど、いつもわたしの側にいてくれて……森のことも、薬草のことも、全部教えてくれました」
声に、懐かしむような温かさが戻っていた。
「わたしにとっては、かけがえのない、とても大切な人です」
祖父を語るリアの表情が和らぐ。カイウスはその顔を見て、次の質問を飲み込んだ。
ぱち、と薪が弾けた。窓から差す斜陽にも、夜の色が混じり始めている。
「……質問ばかりですまない。もう一つだけ、聞いてもいいか?」
「……はい、なんでしょうか」
リアの表情がまた少し固くなる。
「勘違いはしないでくれ。怖がってるわけじゃないんだ。ただ……さっきの狼。君はあの巨体を素手で殴り飛ばしてた。それも、頬をへこませるほどの力で」
リアは炉火を見つめたまま、動かなかった。
「君は俺を助けてくれた。それに、こうして休む場所まで貸してくれてる。心から感謝してるよ。だけど……あの力は、どう考えても普通じゃない」
炎が揺れ、リアの髪を照らし出す。
——赤い髪。人の域を超えた力。そして、六年前から村を離れて森で暮らす少女。
村外れで見た祈りの大樹が、カイウスの脳裏に浮かぶ。不気味に裂けた、あの巨木。
オルドは言っていた。あれは、一匹の〝赤いケモノ〟の仕業だと。
「……赤獣って言葉は、聞いたことあるか?」
リアの肩が、わずかに強張った。
「……あります。子どもの頃、耳にしました」
「どんなふうに?」
「村を恐れさせた、赤い化け物。トリィヤ様の御神体を裂いて、村に飢饉をもたらした……二度と招いてはならない、ノルヴィアの厄災です」
答えによどみはない。けれど声は平板で、まるで何度も自分に言い聞かせてきた言葉をそのままなぞっているようだった。
「……君が、その赤獣なのか?」
リアの唇がわずかに開く。声は出なかった。一度だけカイウスを見て、すぐに目を伏せる。膝の上で重ねた指がきゅっと絡んだ。
長い沈黙のあと、彼女は逃げるように俯いた。
「……はい。そう呼ばれています。六年前……祈りの大樹を裂いてしまった、あの晩からずっと」
言い終える前に、赤い瞳が潤む。
「わ、わたし、本当に悪気はなかったんです。でも……わたしのせいで、トリィヤ様がお怒りになられて……あれから村が不作になって、きっと、たくさんの人を苦しめました。だから……いまさら、どんな顔で村に行けばいいのか……わたし、も、もう、分からなくて……!」
最後は嗚咽に呑まれた。
カイウスは黙って聞いていた。
思えば、出会ったときからリアはいつも何かに怯えていた。名を尋ねたときも、家へ誘ったときも。
最初は見知らぬ男を警戒しているのだと思っていた。けれど、そうではない。彼女が恐れていたのは、正体を知られ、せっかく生まれた人との繋がりを失うことだったのだ。
カイウスは椅子を引き寄せ、リアの前に座り直した。震える肩へ手を伸ばしかけ、触れる寸前で止める。いまはそれすら怖がらせるかもしれない。
代わりに身を屈め、伏せられた顔を覗き込んだ。
「……分かった。言いたくないこともあるだろうし、これ以上は聞かないよ。でも、一つだけ言わせてくれ」
リアがおずおずと顔を上げた。涙に濡れた赤い瞳が、不安そうにカイウスを見つめる。
「俺は、今のリアを信じるよ」
「……今の、わたしを……?」
「ああ」
カイウスは頷いた。
「会ったばかりだけど、君が理由もなく悪いことをする人にはどうしても見えない。きっと何か事情があったんだろう。話したくなければ、話さなくていい」
少し間を置いて続ける。
「でも忘れないでほしい。少なくとも俺にとって、君は村の厄災でも赤獣でもなんでもない。命を救ってくれた恩人なんだ」
カイウスはさらりと付け加える。
「……それにその綺麗な赤い髪も、リアの魅力のひとつだと思うけどな」
リアの顔がくしゃりと歪んだ。パッと俯くと、垂れた髪の隙間から涙が膝へ落ちる。
カイウスは何も言わなかった。涙にも触れず、わざと視線を外して木椀を手に取る。
「おぉ……これ美味いな。薬草茶って正直あまり得意じゃないんだけど、これなら何杯でもいけそうだ」
「……祖父が、蜂蜜を少し入れたのが好きで。甘い方が疲れがよく取れるって、教えてくれたんです」
「へえ。いいこと教えてもらったな」
「はい。祖父もよく褒めてくれたんです。『リアの淹れる薬草茶は格別だ』って。数少ない、わたしの自慢なんです」
涙を拭ったリアは少し鼻声のまま笑った。
窓の外では、森がゆっくり夜に沈んでいく。森小屋の中で、二人分の穏やかな時間が流れていた。




