1-6. 木漏れ日の下で
土煙がようやく引いた。枝葉の隙間から木漏れ日が差し二人を照らした。さっきまでの薄暗さが嘘のようだ。
カイウスは地に横たわったまま、目の前の少女を見上げていた。
彼女は自分より頭二つは背が高く、手足もすらりと長い。服越しにも健康的で女性らしい豊かな体つきが分かった。
(……でっか)
思わずそんな感想が浮かぶほど彼女の存在感は際立っていた。なかでも目を引くのは、腰まで流れる深紅の髪だ。森の緑の中で、そこだけ燃えているように鮮やかだった。
少女は一瞬ためらい、小さな歩幅で近づいてくる。どう声をかければいいのか分からない——そんな素朴な戸惑いが、足取りに表れていた。
「……あの、大丈夫ですか? お怪我、痛くないですか?」
水音のように澄んだ声は、こちらを気遣うように柔らかい。カイウスが返事をするまで、わずかに間が空いた。
「……あ、ああ。大丈夫だ、ありがとうな」
折れた枝の向こうに剣が落ちている。カイウスは地を這うようにして近づき、左手で柄を掴んだ。切っ先を地面に突き立て、杖代わりにして立ち上がる。全身が鈍く軋み、呻きが漏れた。
それでも頭から離れないのは、先ほどの光景だった。
——あの巨狼を、この少女が、たった一撃の拳打で退けた。
少女は前髪を指で払って、小さく息を吐く。赤い瞳がカイウスの顔をうかがっていた。そこに、かすかな怯えが見える。
「名前を聞いてもいいかな?」
「あっ……」
少女は目を伏せた。少し迷い、それから意を決したようにカイウスを見返す。
「……リア。リア・フリーディス、といいます」
やや緊張した声。だがカイウスを恐れているわけではなさそうだ。どう振る舞えばいいのか分からず困っているように見える。
ようやく視線が合う。凛とした目元に年相応の幼さが残る顔立ち。日に焼けた頬には赤みが差し、野花を思わせる素朴な可憐さがあった。
「リアか。いい名前だな。助けてくれてありがとう、命拾いしたよ」
「いえ。……その、間に合ってよかったです」
「よかった、どころの騒ぎじゃないよ。もし君が来てくれなかったら、俺はシカ肉の煮込みごとあの化け物の腹の中だった」
リアは目を丸くした。冗談だと分かるまで少し時間がかかったらしい。笑う代わりにおずおずと尋ねてくる。
「……あの……わたしのこと、怖くはないんですか?」
「え? 怖い?」
「だって……その、さっきのこと、とか……」
「あぁ、あの化け物を素手で殴り飛ばしたこと?」
「……はい」
リアの声がしぼむ。胸元で重ねた指が、落ち着かずに絡んだ。
「助けてくれた恩人を怖がる理由なんてないさ。まぁ、あの馬鹿でかい狼には度肝を抜かれたけどな」
「……っ」
リアは瞬きもせずにカイウスを見つめていた。強張っていた指がゆっくりほどける。
「改めて礼を言わせてくれ。俺はカイウス。カイウス・ヴァンデルだ。流れの傭兵をやっている。近くのノルヴィア村の依頼で、この森の異変を調べていたんだ。まさか、あんな化け物に出くわすとは思わなかったが」
「……カイウス、さん……」
リアがその名をそっと唇にのせる。響きを確かめるような呟きだった。
「カイウス、さん……っ」
二度目は、少しだけ嬉しそうに聞こえた。彼女の声で呼ばれる自分の名は思いのほか馴染んでいた。
「ところでリアは、どうしてこんな森の奥にいるんだ? 見たところ狩人ってわけでもなさそうだけど」
辺りに山菜はいくつか見える。だが、少女がひとりで入るには深すぎる場所だ。
「その……この近くに家があるんです。いまは、一人で暮らしていて」
「えっ? 家が、こんな森の奥に? 危なくないのか」
「……慣れてるんです。ずっと、ここで暮らしてるので」
「……なるほど。まぁ、そういうこともあるか」
答えに嘘はなさそうだ。ただ、言葉の合間にわずかなためらいがあった。
カイウスはそれ以上聞かなかった。リアは見知らぬ自分を助けるため、危険へ飛び込んできた。カイウスにとってはそれだけで十分だった。話したくない事情まで無理に聞き出す気はない。
ふと会話が途切れた。カイウスは特に気に留めなかったがリアは違ったらしい。何か言いたげに顔を上げては、また俯く。それを二度繰り返し、ぎゅっと拳を握った。
「あ、あの……!」
「ん?」
「も、もしよかったら……う、うちに来ませんか?!」
思いのほか声が大きくなったのか、リアの肩がびくりと跳ねた。
「そ、その……お怪我もされていますし! わたし、薬草のことも少し分かるので、簡単な手当てもできます。それと、もし……ご、ご飯とかも、食べていかれるなら……」
言葉はだんだん小さくなっていく。けれど期待の色は隠せていなかった。誘うだけでも、かなり勇気を振り絞ったらしい。
「ありがとう。そしたらお言葉に甘えようかな。実をもう脚が棒でさ。今にも倒れそうなんだよ」
カイウスはわざとらしく脚をぷるぷると震わせてみせた。
リアがまた目を丸くした。それから堪えきれないように小さく笑った。出会ってから初めて見る、気取らない笑顔だった。
その直後、カイウスの膝から力が抜けた。今度は演技ではない。
「えっ! だ、大丈夫ですか?」
「……悪い、少し肩を貸してくれると助かる」
「も、もちろんです。ちょっと失礼しますね」
リアが慌てて腕を伸ばし、カイウスの身体を支える。
「ゆっくり行きましょう。こっちです」
彼女が指した先には、森の奥へ続く獣道があった。木漏れ日が、柔らかな光を道に落としている。
カイウスは右肩をかばいながら、左手で剣を鞘に収めた。それからリアの肩に腕を回し、二人で歩き出す。
どこか遠くで一羽の小鳥が囀った。
足裏に触れる草の感触が、今は少しだけ心地よかった。




