1-4. 初めましてのように
森に足を踏み入れて最初に気付いたのは、音がないことだった。
夏の森は本来うるさいものだ。虫が鳴き、鳥が囀り、風が葉を擦り合わせる。そうした雑多な生の気配が重なり森の音をつくる。
だがここでは何も聞こえない。世界がひとつ薄まったような奇妙な感覚があった。
カイウスは剣を抜き、苔むした獣道を進む。正午を過ぎ陽は高いはずなのに、枝葉に遮られて森の中は薄暗い。風も届かず、湿気が肌にまとわりつく。背を伝う汗が鎧の下に不快なぬめりを残した。
二時間ほど歩くと、木々が途切れた。
いや、途切れたのではない。何かに薙ぎ払われ、若木も古木も見境なく倒れていた。
地面には赤黒い染みが広がっている。踏み込んだ靴裏が湿った。鼻を刺す鉄錆びの臭い。血だ。
何かがここで殺されている。だが、死骸は見当たらない。
(……骨まで喰ったのか?)
足元に、大きな窪みがあった。オルドの話にあった足跡だろう。膝を折ればカイウスでも収まりそうだ。これほど深く地面を沈める相手が、ただの獣とは思えなかった。
「……確かに普通じゃないな」
呟いたとき、肺の奥がすっと冷えた。
カイウスは剣を構え、ゆっくり周囲を見回す。特に異常はない。それでも、何度も死地をくぐり抜けてきた勘が告げていた。
——見られている。
耳鳴りを誘う静寂。風もない。なのに頭上の枝葉がざわりと揺れた。
次の瞬間、右手の木々が弾け飛んだ。幹がへし折れ、木片が矢のように襲いかかる。
「っ!」
考えるより先に身体が動いた。半身を引いて剣を立て、飛来する木片を弾く。
乾いた剣音が、開戦を告げた。
「グルゥゥウ……」
地響きとともに、木々の奥から巨大な影が現れる。
狼だった。
否。狼と呼び収めていい大きさではない。
刃のように逆立つ灰銀の毛並み。岩塊めいた四肢。血のように赤い双眸。四つ足で立っているのに、カイウスが見上げるほどの巨体。開いた顎には、人の腕ほどもある牙が並んでいる。
「な……なんだ、こいつは」
カイウスは剣を握り直し、相手の動きを探る。
視線の置き方。重心の移し方。間合いの詰め方。どれも野生の獣とは思えないほど隙がない。
ただ猛獣じゃない。数え切れぬ殺しを重ねた戦士の動きだ。
巨狼が低く唸り、前脚で地面を掻く。
次の瞬きの内に、巨体はもう動いていた。
灰銀の巨体が音もなく迫る。巨体に似合わぬ速さに、カイウスの反応が一拍遅れてしまった。牙はもう、喉元に届く寸前だった。
「っ、くそっ!」
カイウスは膝を抜いて身を沈めた。すぐ頭上で牙が噛み合う。
そのまま軸足を捻り、身体の回転に乗せて剣を振る。刃が巨狼の左前脚を裂いた。
浅い。しかし手応えはあった。灰銀の毛の奥から、赤い血がにじむ。
しかし巨狼は怯まない。鼻先を鳴らして、自分の血の臭いを確かめただけ。
「……ガルァ!」
次の踏み込みは、さっきより速かった。
爪がくる。右。カイウスは身を引いて躱す。
牙がくる。上。屈んで避けたが、紙一重。
また爪がくる。今度は左。跳んで避ける。着地が乱れた。
(……こいつ!)
攻撃を重ねるたび、巨狼の動きが変わっていく。カイウスの避け方を見て、次の一撃を修正しているのだ。
(……見誤った)
こいつは戦士じゃない。命を懸けて鎬を削り合うつもりなど、初めからないのだ。
相手をどう追い詰め、逃げ道を塞ぎ、仕留めるか。ただ殺生を愉しむことだけを考えている。
これは戦いですらない。狩りだ。そして今日の獲物は、カイウス自身だった。
爪が来る。右、いや左。遅れた、躱せない。弾く。腕が痺れた。
牙が来る。さっきより低い。辛うじて躱す。体勢が崩れた。
爪が来る。また右——速い。
ザシュッ!!
「……っ!」
ついに肩口を抉られた。革鎧ごと肉が裂け、血が飛び散る。剣を握っている右腕から、感覚が遠のいていった。
(凌ぎきれない……!)
勝てない。そう判断した途端、頭の中が妙に冴えた。
(そもそも討伐が目的じゃないんだ。異変の正体は分かった。ならやるべきことは一つ……!)
生きて、帰る。
カイウスは剣を手放し、近くの木へ走った。幹を蹴り左手で枝を掴んで身体を引き上げる。右腕は使いものにならない。庇いながら、枝から枝へ移った。
「出し抜くしかない……どこかに隙を——」
ドグォンッ!
木が、激しく揺れた。
巨狼が幹に体当たりしていた。太い幹が大きくしなり、次の瞬間、乾いた音を立てて傾き始めた。
「なっ……」
足場が崩れた。カイウスの身体は枝ごと宙へ放り出され、背中から地面に叩きつけられる。
「がぁ!」
肺から空気が押し出され、視界が白く弾けた。
剣を拾わなければ。しかし、どこへ放ったのかすら思い出せない。身体も、頭も、もうろくに動かなかった。
「グルルルゥ……」
血の臭いを含んだ吐息が顔にかかった。
倒れた場所は、巨狼の目の前だった。牙がゆっくりと迫る。
逃げ場は、ない。
武器も、ない。
動くことも、できない。
「……あぁ、クソ。ここまでか……!」
諦めが胸に広がりかけた、そのときだった。
突風が森を揺らした。
枝葉が大きく開き、頭上から一筋の陽光が差し込む。仰向けのカイウスの目に、それは映った。
赤い。最初に分かったのはそれだけだった。
圧倒的な赤が真昼の空を裂き、まっすぐこちらへ落ちてくる。それは天を翔ける流星のようにも思えた。
(……何だ、あれは)
考える間もない。赤い影は瞬く間に迫る。
ドオォォンッ!!
轟音とともに巨狼との間へ降り立った。爆風が土煙を巻き上げる。
カイウスは腕で顔をかばった。巨狼もたまらず後ろへ飛び退く。
「どいてぇええええぇっ!!」
土煙の向こうから、少女の声が響いた。
風が煙を割る。赤髪がふわりと広がり、一本一本が煌めいた。
その影が右足を深く踏み込み、腰をひねる。肩から腕へ、全身の力が拳に集まっていく。
バァンッ!!
拳が巨狼の顎を撃ち抜いた。火花が散り、破裂音が森をつんざく。
巨狼の体が弾かれる——というより、爆ぜ飛んだ。
木々を薙ぎ倒し、地面を跳ね、なおも勢いは止まらない。前脚が土を掻き、数本の木を巻き込んで、ようやく動きを止めた。
巨狼が身を震わせた。砕けた頬骨が肉を突き破り、顎から赤黒い血が滴る。
先ほどまでの殺気と余裕は消え、赤い双眸には代わりに怯えが滲んでいた。自分を圧倒した相手を前に、初めて死を悟ったようだった。
「グギュゥ……」
巨狼はよろめきながら立ち上がり、一歩、また一歩と後ずさる。やがて身を翻し、傷ついた身体を引きずって森の奥へ消えていった。
カイウスはその後ろ姿を呆然と見送った。
乱れた呼吸と、耳の奥で鳴る鼓動。何が起きたのかは、まだ頭が追いつかない。
それでも、二つだけ分かった。
まず一つ。自分が、どうにか生き延びられたこと。
そして、もう一つ。自分を救ったのは、目の前に立つ少女だということ。
長身の背を覆う、燃えるような赤い髪。
少女がちらりと振り返る。こちらを窺うようなその瞳もまた、鮮やかなほど赤い。
その双眸は、カイウスが知るどの戦士の目よりも優しかった。




