1-3. 森の異変
風の壺亭を出ると、酒場の喧噪はすぐ背後に遠のいていった。辺りはもうすっかり暗くなっている。
先を行くエルンは何度も肩を揺らす。何か言いかけては飲み込んでいた。カイウスは急かさなかった。どうせ村長の家に着けば話すだろうし、この沈黙だけで内容が軽くないことは伝わってきた。
道の先に、古びた屋敷が見えてきた。
村の家にしては大きく、造りも重厚だ。漆喰の外壁を太い梁が縁取り、柱には細かな彫刻まで施されている。木材にも節の少ない良材が使われていた。
エルンが控えめに鉄環を鳴らした。
「村長、夜分にすみません。例の件で話をしてほしい人がいて」
立て付けの悪い扉が軋みながら開いた。
現れたのは、白髪の混じる初老の男だった。がっしりした体格に鋭い目つき。村長というより貫禄のある農夫といった方がしっくりくる。
男の目がカイウスの頭からブーツまでをなぞる。値踏みされている。
カイウスは特に取り繕わず、黙って見返した。ほつれたマントに、泥の跳ねた脚衣。長旅の垢はそのままだ。
男の目が、背負った剣で止まる。身なりには無神経なカイウスだが剣の手入れだけは欠かさない。鋭かった目つきがわずかに和らぐ。手当たり次第に人を襲う荒くれではないと見たのだろう。
「……なるほど。相応の人物とお見受けする」
カイウスは軽く頭を下げた。
「カイウス・ヴァンデルと申します。傭兵です。主に護衛や随行任務を。ノルヴィアにも今日の夕方、行商人の護衛で来ました」
「村長、この人すごかったんです! さっき風の壺亭で喧嘩があったんですけど、すっと間に入って、二人をまるで子どもみたいに引き離したんですよ!」
興奮するエルンを、男は節くれだった掌で制した。
「カイウス殿か。私はオルド・グレイヴ。ノルヴィアの村長を務めている」
オルドは一拍置き、扉を開けたまま身を引いた。
「どうぞ中へ。立ち話で済む話ではありますまい」
***
応接間には、年季の入った長卓と背もたれ付きの椅子が置かれていた。壁棚には分厚い帳簿と村の見取り図が整然と並び、部屋の隅には木彫りの像が祀られている。
どこにも乱れがない。部屋の整い方からオルドの几帳面さがうかがえる。
カイウスとエルンが腰を下ろすと、オルドも向かいの椅子に座った。
「まずはご足労いただき感謝する、カイウス殿。本来なら世間話の一つでもしたいのだが、状況も差し迫っている。さっそく本題に入りたい」
挨拶はそれだけだった。部屋がしんと静まり返る。
「……村の北西に森がある。元々、人を襲うような獣は棲みついておらん。いるのはリスやウサギ、シカくらいでな。猟師にとっては安全な狩場だった。だが、ひと月ほど前から動物の死骸が見つかるようになった」
オルドは腕を組み、小さく唸った。
「しかも、どれも普通の死に方ではない。喰いちぎられ、潰され、裂かれている。目を背けたくなるような惨状だ」
「獣害、ということですか?」
カイウスが尋ねるとオルドは首を横に振った。
「いや。それだけでは説明がつかない。問題は現場に残された痕跡だ、カイウス殿」
オルドは一度言葉を切った。声が低く沈む。
「死体の周囲では、大木が何本も根こそぎ倒されていた。血まみれの地面には、大人一人が横たわれるほどの足跡も残っておる。正体を見た者は誰もいない。だが調査に入った狩人たちは皆、口を揃えてこう言うのだ。『とても敵う相手ではない』と」
その言葉に重なるように、鎧戸がぎしりと軋んだ。
「……それで、私に何を?」
「調査を依頼したい。異変の正体を突き止めていただけないか」
討伐ではなく、調査。オルドがそう頼むのは、カイウスですら手に余る事態だと考えているからだろう。
「近隣都市へはすでに一度使いを出した。だが人への被害もなく、正体も分からぬままでは、兵を動かせぬと言われてな。せめて脅威の正体を掴み、派兵を求めるだけの証拠が欲しいのだ」
オルドが、ぐいと身を乗り出す。
「腕の立つ旅人が来たのも、何かの巡り合わせだろう。どうかそのお力を貸して頂けないか」
「……なるほど。報酬は?」
「エルン。例の袋を」
エルンが麻袋を卓へ置く。ずしりと沈んだ袋の中で、アルジェ銀貨とフェル銅貨が重く鳴った。
その膨らみはヴォルトの護衛報酬とは比べものにならなかった。調査依頼にしては明らかに破格だ。いくらノルヴィアが豊かな村とは言え、簡単に用意できる額ではないはずだった。
「支度金として前払いも可能だ。ただ……おそらく命を懸けていただく任務になる。これまでにも腕の立ちそうな旅人へ声を掛けたが、皆に断られた。カイウス殿に断られたら、もう……」
世間では傭兵はならず者と見られがちだ。実際、金のためなら略奪も殺しもためらわない者もいる。
カイウスはそういう連中と同じにはなりたくなかった。どうせ危険を冒すなら、誰かを泣かせる仕事より、誰かに感謝される仕事がいい。割に合わない護衛ばかり引き受けてきたのもそのためだ。
森の異変を放っておけば、次は村人が襲われるかもしれない。カイウスにとって迷う理由はそれほどなかった。
「分かりました。引き受けましょう」
カイウスの返事は、あまりにあっさりしていた。
「……よ、よいのか? 命の保証もないのだぞ?」
「ええ。人より獣を相手にする方が、幾分か気は楽なので」
「お、おお……」
オルドの分厚い肩から、すとんと力が抜けた。ぎこちなく持ち上がった頬はどこか不慣れで不恰好だ。
このひと月、笑う余裕すらなかったのだろう。
だが、その笑みはすぐに消えた。オルドは一度口を閉ざすと、何かを言い出しかねるように視線を落とす。
「……一つ、忠告をさせてほしい。今回の異変……“セキジュウ”の奴が、関わっているやもしれん」
「……失礼。その“セキジュウ”とは?」
聞き慣れない名にカイウスは眉を顰めた。オルドは答える前に唇を固く結ぶ。
「カイウス殿も道中、目にされたであろう。村外れの丘にある御神木——祈りの大樹を」
あの木か。
道すがら見た、幹の裂けた巨木。枯れ果てた骸のような姿が脳裏に蘇る。
ヴォルトもああなった理由は知らないと言っていた。カイウスも落雷にでも遭ったのだろうと考えたきり、あまり深くは気に留めていなかった。
「ええ。ずいぶん痛ましい有りさまでした」
「旅の方には笑われるやもしれぬ。だがこのノルヴィアは、古くから豊穣神トリィヤ様の御加護を受けて栄えてきたのだ」
オルドの視線が部屋の隅へ向いた。カイウスもその先を追う。木彫りの像が置かれていた。豊穣神の神像だろう。手にした麦穂は細かく彫られているのに、顔だけは奇妙にのっぺりとしていた。
「だから、種を蒔く日も、刈り入れの日も、子が生まれた日も。村人はトリィヤ様への感謝を忘れず、御神体であるあの大樹へ祈りを捧げてきたものだ」
オルドは苦しげに息を吐いた。唇の端がわずかに歪む。
「それが、六年前だ。村の命とも言えるあの大樹を、赤い獣……“赤獣”が引き裂いたのだ。奴が持つ、尋常ならぬ怪力でな」
そこで一度、言葉を切った。
「あの日、村中の者が泣きながら祈った。『どうか怒りを鎮めてください』と。だが願いは届かなかった。芽吹くはずの麦は痩せ細り、実りは半分にも届かず——未曾有の飢饉が、始まった」
卓に置かれた拳がぎゅっと握り込まれる。
「あれは紛れもなく、トリィヤ様の怒り……天罰だったのだ! 罪もない多くの者が飢えに苦しみ、命を落とした! ヤツは、赤獣は! このノルヴィアに二度と招いてはならぬ、忌むべき災いなのだ!」
オルドは目を見開き、荒い息を吐いていた。怒りと憎しみがその顔にありありと浮かんでいる。
だが、カイウスの意識は別のところへ引かれていた。
祈りの大樹。あの巨木は決して人の力でどうにかできる大きさではなかった。あれを、たった一匹の獣が裂いたというのか。
背筋に冷たいものが走る。あり得ないと思いながらも、頭の中には次々と獣の姿が浮かんだ。
剣のような爪を持つ熊。
家屋を押し潰す角鹿。
すべてを蹂躙する虎。
どれも、体毛は血を浴びたように赤かった。
「……その赤獣とやらが今も森にいて、動物を食い荒らしている。そう仰りたいのでしょうか?」
「確証はない。村から追い払われた恨みから復讐に出たのかもしれん」
そこでふとオルドの言葉が鈍った。
「だが現場には獣の足跡が残っていた。奴ならそんなものは“残らない”。だから違うとは思うのだが……」
「大人一人が収まるほどの足跡、でしたよね?」
カイウスは首を傾げた。
「赤獣は大樹を裂くほどの怪力の持ち主なら、体も相当大きいはずです。むしろ、その足跡こそ赤獣のものと考える方が自然では?」
オルドが、はっと息を詰めた。そして気まずそうに目を伏せる。
「……オルド殿。赤獣の実物をご覧になったことは?」
カイウスは問いを重ねる。
「種別や大きさ、身体の特徴。些細なことでも構いません。熊か虎かでは、戦い方も随分変わりますから」
「そ、それは……」
それだけ言って、オルドは黙り込んだ。眉間の皺がぐぐっと深くなる。隣のエルンも黙ったまま、ただ拳を握りしめていた。
(……なんだ?)
ここに至るまで、二人から密事の気配は全くなかった。純粋に村を思っての依頼。だからこそカイウスも引き受けた。
それが赤獣の話が出た途端、二人の様子が変わった。明らかに何かを伏せている。
知られたくない何かがある。その疑念は、もう拭えなかった。
だが問い詰めるのはまだ早い。材料もないのだ、無理に問い攻めれば二人との関係に亀裂が入る。
(まずは現場だ。情報が足りないなら自分で拾えばいい)
カイウスは立ち上がった。
「いずれにせよ、ご依頼は承りました。経過は適宜ご報告します。吉報をお待ちください、オルド殿」
「あ、あぁ……よろしく頼みますぞ、カイウス殿」
一礼して扉へ向かいかけ、カイウスは取っ手に手を掛けたところで振り返った。
「……失礼。一つだけ、よろしいでしょうか」
「な、何でしょう?」
オルドとエルンの背筋が、そろってピンと伸びる。
「前金を、少しだけ頂けますか。風の壺亭の煮込み、さっきは味わう暇もなくかき込んでしまったもので」
カイウスは後ろ髪を掻き、苦笑した。




