1-2. 平穏な村にて
村道の土はよく踏み固められ、雑草ひとつ見当たらない。両脇には草葺き屋根の家々。開け放たれた窓からは夕餉の匂いが流れ出す。
カイウスは鼻をひくつかせた。
香草と根菜の煮込みだろう。玉葱と芋の甘い匂いがたまらない。奥にはかすかな野趣も混じっていた。それがまた食欲を唆る。
(……これ、ウサギかな)
これ以上嗅いでいると、ますます腹が減りそうだ。
広場に出ると黒ずんだ木造の建物が目に入った。軒下の木看板には『風の壺亭』と彫られている。
カイウスが押し開けるとギィと扉が軋む。店内の賑わいがどっと耳に流れ込んできた。壁には使い込まれた農具が吊るされ、農夫たちはジョッキを打ち鳴らしている。旅人らしい客もその輪に混じっていた。
「おっ。結構好きな雰囲気だぞ」
カイウスは足取りも軽くカウンターへ向かう。
「よう、見ない顔だな。何にするんだ?」
髭面の中年男が声を掛けてきた。太い腕に樽のような胴回り。いかにもこの店を切り盛りしていそうな男だ。
「樽を開けたばかりのエールを一杯。それとパンに、何か温かいものを。ここでしか食えないやつがいいな」
「だったらシカ肉の煮込みで決まりだな。臭みを抜いて旨味だけを残した自慢の一品だぜ」
「そうだな。それで頼むよ」
ほどなくして琥珀色のエールと湯気を立てる煮込み、それに焼きたてのパンが運ばれてきた。
「ゆっくりしてけよ」
「ありがとな。よし、いただくか」
匙を入れると鹿肉はほろりと崩れた。口に運べば肉の旨みが舌いっぱいに広がる。温かな煮汁が長旅で疲れた体にじんわりと染みていった。
「……うん。これは当たりだな」
行く先々でこんな一皿に巡り会えればいいのに。そんなことを思った矢先だった。
「てめぇ、うちの畦を削って畑を広げただろうが!」
「違う! あれは元々、そっちの爺さんが!」
店の奥で農夫二人が胸ぐらを掴み合っていた。笑い声もぴたりと止まり、周りの会話もどんどんと細くなっていく。
「あいつら……また始めやがったか」
店主が眉を顰め、うんざりしたように息を吐いた。どうやらあの二人の喧嘩はいつものことらしい。
カイウスは頬杖をつき煮込みに目を戻した。正直余計な面倒事に首を突っ込みたくはない。せっかくの料理が冷めてしまう。かといって、怒鳴り声を聞きながら食べ続けるのも気が進まなかった。
「そもそも境界石を動かしたのもてめぇだろ!?」
「そっちこそ村の掟を——!」
二人の怒鳴り合いは、ますます激しくなっていく。
(……仕方ないな)
カイウスは匙を置いて席を立ち、卓の間を抜けて二人のあいだへ割って入った。双方の手首を掴み、外へと軽く捻る。力んだ指がほどけ、襟から手が離れた。
そのまま胸元を押し左右へ引き離す。農夫たちは一歩ずつ後ずさった。何が起きたのか測りかねたように目を丸くし、カイウスを見ている。
「……やるならせめて外でやってくれ。せっかくの飯が不味くなるだろ」
カイウスは灰色の目で二人を見据えた。別に怒ってもないし、声を荒らげたつもりもない。
それでも二人の顔が強張り、さっきまでの勢いが消えてゆく。身のこなしだけで、ただの旅人ではないのは伝わったらしい。
「……す、すまん」
「わ、悪かったよ、兄ちゃん……」
気まずそうに目を逸らし、二人は席へ戻った。
客たちが顔を見合わせた。やがて誰かがジョッキを掲げ乾杯の声が上がる。店に笑い声が戻ってきた。店主もカイウスと目が合うと親指を立ててみせる。「よくやった」とでも言いたげだ。
カイウスも何事もなかったようにカウンターへと戻る。少し冷めた煮込みを口に運び、パンをちぎる。噛むたびに小麦の香ばしさが鼻へ抜けた。ヴォルトの言っていた通りだ。
(うん。飯も美味いし、これにて一件落着だな)
これくらいのいざこざなら、カイウスには慣れたものだった。
食事を続けていると、隅の卓にいた青年がこちらへやってきた。栗色の短髪に、日に焼けた腕。農夫だろうか。仲間たちの輪には加わらず、先ほども喧嘩を止めるカイウスをちらちらと見ていた。
「なぁ、あんた。ちょっといいか」
カイウスはジョッキを置き、顔を上げた。
「さっきの手際、見事だったよ。引き離し方もそうだけど……あんた、ただの旅人じゃないな」
「そう見えたか。見せ物のつもりはなかったんだがな」
短く返しながら青年が近づいてきたときの様子を思い返す。
近づく足取りに迷いはなかったし、手のひらも開いていた。腕試しを仕掛けに来たわけではなさそうだ。
かといって野次馬とも違う。興味本位で声をかけたにしては青年の目は真剣すぎた。
「実を言えば、あんたみたいな人をずっと探してたんだ。よければ、少し話を聞いてもらえないか?」
傭兵をしていれば、借金の取り立てや報復の手伝い、私怨の始末を持ちかけられることもある。そうした厄介事を小銭欲しさに引き受ける輩も少なくはない。
だがこの青年からはそうした後ろ暗さは感じられない。それが妙に気にかかる。
「……内容にもよるかな」
青年はまっすぐカイウスを見返した。
「俺はエルン。エルン・ヴァッツだ」
エルンは周囲をうかがい、声を落とした。
「詳しい話はここじゃできない。この村で起きてる異変を止めるために、力を貸してほしいんだ。関心があるなら、村長のオルドさんの家まで来てくれないか」
店内では先ほどの騒ぎも忘れられたようだ。農夫たちは杯を回し声を上げて笑っている。今夜は飲み、酔い、眠り、そして朝になれば何事もなかったようにまた畑へ出る。そんな暮らしが続くと疑いもしていないように見えた。
だが、このエルンだけは違った。明日までは待てない。そう言わんばかりに強張った顔でカイウスを見つめていた。
——平穏そうな場所ほど、火種は燻りやすいもんだぞ。
道中でヴォルトに言った言葉が脳裏をよぎる。
(どうやら当たりだったかな)
カイウスはエールを一息に飲み干し、残った煮込みも掻き込んだ。木椀を空にして手の甲で口元を拭う。
「よし、案内してくれ」
立ち上がりエルンに笑いかけた。
「見ての通り、ちょうどいま手が空いたところなんだ」




