1-1. 傭兵と小麦の海
南方の宿場町を発ってからどれほど経っただろうか。荷馬車は相変わらずガタガタと揺れながら街道を進んでいる。
木箱が所狭しと積まれた荷台。その隙間にカイウス•ヴァンデルは片膝を立てて座っていた。
色褪せた革鎧に、雨風を凌ぐだけの苔色のマント。肩口まで伸びた黒髪は麻紐でひとまとめにしただけ。鏡を見る機会は少ないが、洒落っ気のない格好をしている自覚はあった。
側板に預けた両手剣が車輪の揺れにカチャリと鳴った。その音に引かれるようにカイウスは顔を上げる。
「……おお」
灰色の瞳に、金色の麦畑が映り込んだ。
風が吹くたびにさざめく麦穂。それは波となり遥かな丘陵まで続いていた。晩夏の陽光に煌めくその眺めに、カイウスは一度だけ見た大海原を思い出す。
「しかし旦那。よくこんな遠くまで付き合ってくれたもんだなぁ。まぁ俺としてはありがたいがよ」
御者台から声が飛ぶ。振り向けば丸顔の中年商人が人懐っこく笑っていた。この荷馬車の持ち主であり、カイウスの雇い主。名をヴォルトと言う。
「ノルヴィアか。来るのはこれが初めてだな」
「そりゃあ僻地だからな。自然は豊かだし、良いとこではあるんだぜ?」
「夏の割に涼しいしな。骨を休めるにも良さそうだ」
「だろ? でも俺みたいな商人でもなきゃ、なかなか足を運ぶ機会もないか」
事前に聞いた話では、ノルヴィアはアルヴェイン辺境伯領の北東にある山間の小さな農村だ。北から西にかけては霊峰ティルヴァンに連なる山脈が聳え、山越えで辿り着くのは難しい。
だから南へ迂回するしかない。荷馬車を通せるまともな道は、いま轍を刻んでいるこの街道だけだった。
「しかし傭兵の旦那が来なかったってことは、ここはそれだけ平和だってことなのかねぇ」
「なんだよおっちゃん。分かってないなぁ」
カイウスは溜め息をつき、したり顔を作る。
「平穏そうな場所ほど、火種は燻りやすいもんだぞ。見た目は平々凡々な農村でも実は盗賊団の属村だった、なんてのも珍しい話じゃないだろう?」
「お、おいおい。なんだよ急に。あんま怖いこと言うなって……」
「というか、だから俺を雇ったんじゃないのか?」
「お、俺が警戒してるのは道中の野盗や獣だけさ。ノルヴィアの連中はいい奴ばかりだぜ? 知り合いが住んでてな。数年前から交易してるんだ」
「へぇ。何が一番売れるんだ?」
ヴォルトが肩越しに親指でとある木箱を指した。カイウスはすんと鼻を利かせてみる。胡椒の香りだ。
「この黒い粒ひとつで芋粥が祝宴の一皿に化けるんだ。ノルヴィアじゃ採れねぇからな。みんな首を長くして、行商が来るのを待ってんのよ」
「で、帰りはノルヴィアの産品をしこたま積んで帰るってわけか」
「そういうこと! 小麦と香草がとにかく上物でなぁ。保存もきくから、遠くの都市に持ってけばそりゃあ飛ぶように売れるのよ」
「なるほどな。しかし随分儲かってそうだな、おっちゃん」
「へへへ。おかげさまでな」
鞭が鳴ると馬が短く嘶いた。車輪が石を噛み、積荷がガタンと揺れる。隣の木箱から果物がひとつ転がり出した。
「っと」
荷台の縁から落ちる寸前に片手で受け止めてやる。橙色の丸い果物、オランだ。ノルヴィアでは育たないからとヴォルトが出立前に市場で買い込んでいた。カイウスの好物でもある。嗅ぎ慣れた、柑橘の爽やかな香り。思わず齧り付きたくなってしまう。
「だったらパンも美味いのかな」
「おうよ! そこらの固ったい黒パンとは訳が違うぞ。白くてふっくら香ばしい! 焼きたてなんか特に最高だぞ。旦那にも食わせてやりてぇぜ」
「……へぇ」
焼きたてのパンが脳裏に浮かんだ。割った瞬間に立ちのぼる湯気。ふわりと広がる芳醇な香り。噛むほどに引き立つ小麦の甘み。
ぐぅ。腹の虫が正直に鳴いた。そういえば朝のスープから何も食べていない。
「……それは楽しみだ。早く着かないかな」
腹が背にくっつきやしないか。そんな馬鹿げた心配をする程度にはまだ少し余裕があった。
***
陽が傾き、空も茜色に染まり始めた。
麦畑の向こうのなだらかな丘の上。低く均一なその景色に、黒い影がぽつんと突き出していた。遠目には崩れかけた塔のように見える。
カイウスは目を凝らした。荷馬車が近づくにつれ、幾本もの枝が伸びているのが分かってくる。
塔ではない。一本の巨木だ。これが途轍もなく大きい。木の頂は遥か高く、夕空に霞んでいる。ティルヴァン山脈一帯は有数の林業地帯で、大木も珍しくないとは聞いていた。なるほど、噂通りの大きさだ。
しかしその木は、幹の中ほどから縦に裂け半分になっていた。腐肉のように黒ずんだ断面と、そこにこびり付いた血痕のような樹液。
「……なんだあれ。ずいぶん不気味な木だな」
「ああ。やっぱり気になっちまうよな」
ヴォルトが手綱を握ったまま頷いた。
「あれは祈りの大樹だな。昔からノルヴィアを見守ってきた御神木で、豊作の象徴なんだとよ」
「豊作の象徴? あれが? 見るからに枯れ死んでるぞ」
「ああ。だけどノルヴィアの人々は、今でもあの木に祈ってるのさ。どうしてああなったのかは俺も知らねぇけどな。村の慣習なんだ。もう暮らしの一部になってるんだろうよ」
「へぇ……」
何があればあんな大木が裂けるのだろう。これまで傭兵として各地を渡り歩いたが、こんな光景は見たことがない。
これを豊作の象徴とするのも無理がある。けれど辺境の村には土着の信仰や慣習が残っているものだ。ノルヴィアもそうなのだろう。痛々しい姿でも、村人たちにとっては心の支えなのかもしれない。
木から視線を戻す。道の先では、農夫が荷車に麦束を積んでいた。刈り入れの済んだ畑では灰褐色の牛が鋤を曳き、遠くから雌鶏や豚の鳴き声が届く。
石壁の集落が見えてきた。質素な村門をくぐると、どこからともなく子どもたちの笑い声が聞こえてくる。家の軒先では雀が跳ねていた。遠くでは鐘が鳴る。夕刻を知らせているのだろう。
カイウスは荷台から降り、村の空気をひと息吸い込んだ。初めて踏む土地では、まず匂いを読む。それが彼の流儀だった。
あれは春先だったか。ふらりと寄った宿で酒を飲んでいると、場違いな火薬の臭いに気づいた。出どころを探って裏手へ回ると、宿の物置に火薬樽が運び込まれていた。戦場帰りの傭兵崩れが騒ぎを起こし、その隙に厩の荷馬車を奪うつもりだったらしい。
裏手が轟音とともに吹き飛んだのはカイウスが商人たちと馬を表へ逃がした直後だった。そのとき助けた商人の一人がこのヴォルトだ。あの夜の縁が今回の仕事にも繋がっている。
さて、この村はどうだろう。
最初に鼻をついたのは、濃い麦の匂い。次いで牛糞のむっとする臭いも混じる。農村なら別に珍しくもない。
特に妙な臭いはなさそうだ。少なくとも、今のところは。
「やっと着いたな。ノルヴィアへようこそ、旦那!」
ヴォルトが御者台から降り、馬のたてがみを撫でる。
「いやー、ほんと助かったぜ。おかげで何事もなく着けた。報酬は少し色を付けとくから、今夜はゆっくり休んでくれよな」
とん、と麻袋が手渡された。カイウスが紐を解くと取り決めより多いアルジェ銀貨が顔を覗かせた。夕飯で少し羽目を外すには十分な額だ。
「ありがとな、おっちゃん。助かるよ」
そう言って袋を懐にしまう。
「ところで、他に護衛を欲しがってる商人とか知らないか? 次の仕事を早めに探しときたくてさ」
「うーん……悪いが、今は心当たりがねぇな」
ヴォルトはしばらく顎髭を撫でていたが、ふと人差し指を立てた。
「ああ、だったら風の壺亭に行ってみな。この先の広場にある酒場だ。村の連中が集まるから、仕事の話も拾えるかもしれねぇ」
「風の壺亭か。分かった、行ってみるよ」
「おう。またよろしく頼むぜ、旦那!」
片手を上げて別れると、カイウスは懐をぽんと叩く。布越しに硬貨の重みが返ってきた。財布に余裕がある日はそれだけで気分がいい。
よし決めた。今夜は胃袋に恩でも売ってやろう。
——ぐぅ。
「……そうだよな。早く行くか」
腹をさすり、カイウスは苦笑する。夕煙がゆらゆらと立つ、村の中心へと歩き出した。




