1-25. その旅路に、まだ名前はない
雨夜の死闘から、はや三週間が過ぎた。
ノルヴィアはまだ微睡みの中にいた。道端の草を濡らす朝露が、昇り始めたばかりの陽の光を細かく弾いている。
白い息を吐く馬の傍らで、カイウスは馬具のバックルを一つずつ確かめていた。
革帯を引くたびに金具が触れ合い、硬い音を妙に大きく響かせた。
「まったく、商売繁盛も考えものだ。どう考えても積みすぎだよな、これ」
ヴォルトは荷台を見上げ、大きな腹を揺らして笑った。
「まあ、『ノルヴィアの英雄様』が護衛についてくれるから、どんだけ運んでも怖かないんだけどな!」
「やめてくれよ、おっちゃん……そういうの、本当に柄じゃないんだ」
「そうかい? だがなぁ、旦那。旦那の噂はもう村の外まで広がってるらしいぜ? 『巨悪を討った聖剣士』だの、『流星の如き高速剣』だの。どこぞの吟遊詩人が、ずいぶん景気よく歌ってるそうじゃないか」
「風の壺亭にいたアイツかな……詳しく教えろってしつこかったもんな。そうか、もう歌にまでなってるのか」
カイウスは顔を顰めたが、すぐに諦めたように腰へ手を当てる。
「まあ、名前が売れるのは悪いことでもないか。依頼が増えるのは助かるしな」
「その意気だぜ、旦那!」
ヴォルトは笑いながら荷台の幌を確かめ、御者台へ上がった。
準備は全て整った。あとは、この村を出るだけだ。
「……でも、本当にいいのかい」
手綱を握ったヴォルトが、不意に声を落とした。
「あの子に何も言わず出ていっちまって。後悔しないか?」
暗い顔のヴォルトをよそに、カイウスはひょいと荷台へと飛び乗る。
「ああ、これでいい。わざわざ危険だらけの旅に巻き込むこともないさ。きっとこれが正解なんだよ。リアにとっても……俺にとっても」
「……ったく。旦那も頑固だねぇ」
ヴォルトはそれ以上何も言わなかった。
手綱を鳴らすと、馬がゆっくりと歩き出す。濡れた土に轍を刻みながら、荷馬車は眠る村を抜けていった。
***
「……旦那」
「ん?」
村門が見えはじめた頃、ヴォルトがカイウスに声を掛けた。
カイウスは荷台から身を乗り出し、前方を覗き込む。
門柱にもたれて、少女がひとり立っていた。
朝日を受けた長い赤髪がきらめいている。肩に掛けた旅袋は、彼女の背丈には不釣り合いなほど小さかった。
「……え?」
カイウスの身体がギクリと強張る。
「な、なんで……?」
御者台のヴォルトが露骨に顔を逸らす。
「……出発のことは、おっちゃん以外には教えてなかったはずだぞ」
「……」
「喋ったんだな」
「いやぁ、その……この村には英雄様が二人もいるわけだろ? どっちかだけに肩入れするってのは、公平じゃねぇと思ってだなぁ」
「喋ったんだな、おっちゃん」
「だ、だってよぉ! 黙って消えるってのは、いくらなんでもあんまりだろぉ!」
ヴォルトは慌てて手綱を引き「どうどう」と馬をなだめた。
馬の歩みがゆるみ、蹄音が次第に間遠になる。やがて荷馬車が止まった。
「俺は今後もこの村で商売しなきゃならねぇんだ。恨まれて出入り禁止にでもされたら困るだろぉ? ……責めるなら、軽めで頼むぜ?」
カイウスは長く息を吐くと荷台から降りた。気まずそうに頭を掻くと、リアの方へと歩み寄る。
彼女は何も言わず、ただカイウスを見つめていた。
その赤い瞳にはいつもの柔らかさがない。正面きって怒鳴られるより、よほど怖かった。
「……あ。カイウスさんじゃないですか」
そう言って、リアは口元だけでにこりと笑った。視線はカイウスを捉えて離さない。
「珍しいですね、こんな朝早くから。どちらへ行かれるんですか?」
「あ、ああ……少し路銀が心許なくてね」
カイウスは努めて軽い調子で答える。
「おっちゃんから、短い護衛の仕事を受けたんだ。十日もすれば帰ってくる。心配はいらないよ」
「へぇ。そうなんですね」
リアは肩の旅袋を掛け直した。
「お仕事なら、わたしも一緒に行っていいですよね? 荷物運びとか、きっとお役に立てますよ」
「い、いやぁ……ほんと、今回は大した仕事じゃないんだよ。それにリアは、村のみんなからも頼りにされてるだろ? エルンとの畑仕事だってあるし。気持ちだけ受け取っておくよ」
リアはしばらく笑顔のまま固まった。
やがて、作り物の笑みがすっと消える。
「……うそつき」
棘のある、小さな声だった。
「え……」
「本当はもう、戻ってこないんですよね」
リアが目を伏せる。
「何も言わずに、わたしを置いていくつもりだったんだ」
「そ、それは……」
「どうして何も言ってくれなかったんですか?」
声が震え始める。
「わたしの気持ちも聞かないで、一人で全部勝手に決めて……。置いていかれたと知ったら、わたしがどれだけ悲しむか、少しも考えなかったんですか?」
「……すまない」
辛うじて出たのは謝罪だった。
しかしリアはブンブンと首を横へ振る。
「謝らないでください。謝ってほしいわけじゃないんです」
目元の涙を乱暴に拭い、カイウスを睨みつける。
「でも、もう二度とこんなことしないでください。わたしのことを、わたしに何も聞かずに、一人で勝手に決めないで」
「……ああ」
「それから、ヴォルトさんも責めないであげて。わたしの恩人なんですから」
思わぬ助け舟に、御者台で小さくなっていたヴォルトがほっと胸を撫で下ろす。
「もし何も知らないまま、本当にお別れになっていたら……わたし、カイウスさんのこと、死ぬほど恨んでましたから」
カイウスは息を詰まらせる。
「恨む」という言葉とは裏腹に、その声に咎める響きはほとんどなかった。
リアが自分との別れを、それほどまでに悲しんでくれている。責められている最中だというのに、カイウスはどこか嬉しいとすら思ってしまった。
「カイウスさん」
「……ああ」
「わたしは優しいので、チャンスをあげますね」
リアは胸の前で両手を組むと、じっとカイウスを見下ろす。
「カイウスさん。わたしに何か、言いたいことはありませんか?」
「言いたいこと……」
「はい」
カイウスは必死に頭を巡らせる。
「……おはよう、リア」
「違います」
即答だった。
「そういうのは、今はいりません」
「じゃあ……朝日が綺麗だな、リア?」
「朝日は大抵綺麗です。カイウスさんが言ったんですよ? やり直し」
朝風が二人の間を通り抜けた。リアの赤髪が、焦れるようにふわりと揺れる。
「……もしかして、本当に分からないんですか? わたしが、カイウスさんに何て言ってほしいのか」
その声から怒りが消え、代わりに押し隠していた不安が語尾を震わせた。
分からないはずがなかった。
よく整えられた旅装に、何かを訴えるように潤んだ赤い瞳。
リアが何を願い、どんな覚悟でここに立っているのか。見れば、嫌でも分かった。
それでも、彼女が待っている言葉を口にはできなかった。
カイウスが歩むのは、戦いと隣り合わせの道だ。次も生きて帰れる保証などない。
いくら力が強いとは言え、リアは傷つかないわけではない。
自分についてきた彼女が、いつか取り返しのつかない傷を負うかもしれない。そんな未来が、何よりも怖かった。
「……わかってくれよ」
カイウスはようやく、本心を口にした。
「俺は傭兵だ。これからも争いは避けて通れない。今回みたいなことが、また起きるかもしれない」
「……分かってます」
「いや、リアは分かってないよ。巨狼以上の化け物に出くわしたらどうするんだ? もっと酷い目に遭うかもしれない。最悪、死ぬかもしれないんだぞ?」
「だから、分かってます」
リアは一歩も退かなかった。
「旅には危険がたくさんあるって知らないほど、子供じゃありません。カイウスさんの迷惑になるかもしれないって、何度も何度も悩みました。それに、カイウスさんがわたしのことを考えてくれて、置いていこうとしたことも、全部ちゃんと分かってます」
旅袋の紐をぎゅっと握る。
「それでもわたしは、ここへ来たんですよ?!」
声を張った拍子に涙が一粒、頬を伝った。
それを拭おうともせず、リアはカイウスへ一歩近づいた。
「わがままかもしれないって! カイウスさんの優しさを、無駄にするかもしれないって! たくさん、たくさん悩んで……それでも、ここにいるんです! わたしがそうしたかったから! そんなわたしの気持ちを、カイウスさんが否定しないでよ!」
カイウスは、何も言い返せなかった。
リアは恐怖も、不安も、全てを承知した上でここへ来てくれたのだ。自分よりもずっと若い心で何度も悩み、それでも最後は、彼女自身の意志で乗り越えきたのだ。自分が戸惑って越えられずにいる、この壁を。
だったら。
もう迷う理由はないんじゃないか?
一度は蓋をしたこの想いは、言葉にしてもいいのではないか?
例えこの先に何が待ち構えようとも。そんな彼女と歩むなら、きっとどんな旅路も悪くはない。
いまなら、確信を持ってそう思えた。
カイウスは深く息を吸うと、大きく頭を下げた。
「……すまなかった」
リアが目を見開く。
「危険から遠ざけるのが、一番リアのためになると思ったんだ。でもそれは……言い訳だった。俺はただ、怖かったんだ。リアがいつか、俺と来たことを後悔するんじゃないかって。そんな事になるぐらいなら、最初から一緒にいない方がいいって。だからリアの気持ちも聞こうともせず、黙って去ろうとした」
「カイウスさん……」
「でもほんと、リアの言う通りだ。リアの人生を決めるのは、俺じゃないよな。それに、未来のことなんて誰にも分からないんだ。なら……一歩踏み出したほうが、絶対いいに決まってる」
カイウスは顔を上げ、ゆっくりとリアへ手を差し出した。
「一緒に行こう、リア」
口にした途端、ひどく息がしやすくなった。
「目的地も、行くあてもない旅だ。危険なことだって、たくさんあるだろう。だけどリアと俺なら、きっと楽しい旅になる」
その言葉に、リアの顔がぱっと花開いた。小さく飛び跳ねると、彼の手をしっかりと握った。
「はいっ! 喜んでっ!」
これ以上は待ちきれないとばかりにカイウスの隣へ並ぶと、嬉しそうに旅袋をぱんぱんと叩く。
「おじいちゃんにも、もう挨拶してきました。『しばらく留守にするけど、カイウスさんが一緒だから心配しないでね』って」
「……なんだよ。最初からそのつもりだったのか」
カイウスは呆れたように笑った。
「一人で全部決めるなんて。リアはずいぶん勝手な奴だな」
「ふふっ。それ、そっくりそのままお返ししますね」
リアもいたずらっぽく笑い返す。
「けど、本当に良かったのか?」
カイウスは背後の家々へ目を向ける。
「ノルヴィアは、ようやく取り戻したリアの居場所だったろうに」
リアも朝日に照らされだした村を振り返る。幼い頃から何一つ変わらない、ノルヴィアの朝の風景。
「いいんです。これが最後のお別れってわけじゃありませんから。わたしはいつか、ちゃんとここへ帰ってきます。みんながワクワクするような旅の話を、たくさん持ち帰って。それに」
カイウスとの距離を詰め、肩をぶつけるように寄り添ってきた。照れ隠しのような、さりげない仕草。
赤い髪が朝風にほどけ、カイウスの頬をそっとくすぐる。
「居場所って、きっといくつあってもいいんです。村も大好きだけど、いまは……わたしの心が、ここが良いって。そう言ってるんです」
照れくさそうに目尻を下げ、今度こそいつもの調子でそっと笑った。
***
村門をくぐった荷馬車は街道をゆっくりと進んでゆく。
その馬の歩みに合わせ、ノルヴィアの家並みが少しずつ遠ざかっていった。
「……この道を通るの、久しぶりだなぁ」
荷台から景色を眺めていたリアが、ぽつりと呟いた。
村の東部に広がる、なだらかな丘。その頂では、半分に裂けた祈りの大樹が朝日を浴びている。
「……おや」
丘の麓へ差しかかったとき、ヴォルトが不意に手綱を引いた。
荷馬車が止まり、カイウスも前方へと視線を投げる。
祈りの大樹の前に、ノルヴィアの村人たちが並んでいた。子供から老人まで、顔見知りになったほとんど全員が集まっている。
「……ずいぶん大げさな見送りだな」
カイウスが照れくさそうに呟く。ヴォルトがにやりと笑った。
「そりゃあ、『英雄様』二人の門出だからな。これくらいじゃなきゃ、足りねぇってさ」
誰かがひらりと手を振った。その動きは隣へ、さらにその隣へと伝わり、やがて全体へ波のように広がっていく。
「二人とも、気をつけてね!」
「ノルヴィアのこと、忘れるんじゃないよ!」
「また立ち寄れよ! もっと美味いもの、食わせてやるからな!」
「いつでも戻ってこいよ、待ってるからな!」
祝福と名残惜しさが入り混じる声が、朝風に乗って荷馬車を包む。
その中から、一際大きな声が響いた。
「おーい!! リアァーッ!!」
一番前で、エルンが声を張り上げていた。その隣では、ミラも飛び跳ねながら小さな手を懸命に振っている。
「寂しくなったら、いつでも帰ってこいよ! 俺たちはここで、待っててやるから!!」
そこからエルンの声が、震え始める。
「ここは……ノルヴィアは! ずっと、たった一つの! お前の、故郷なんだからな!!」
身を乗り出していたリアは、下唇をきゅっと噛んだ。こみ上げる涙をこらえようと、両手で口元を覆う。
視界が涙で滲んでいく。声まで詰まってしまう前に、リアは荷台の上に立ち上がった。
「ありがとう、エルちゃんっ! みんなっ!」
涙をこぼしながら、リアは笑った。
胸いっぱいに息を吸い込み、朝空へ向かって叫んだ。
「みんなも、どうかお元気で! いってきます!」
一瞬、辺りが静まり返った。
「いってらっしゃい、リア!」
「元気でな、赤い英雄!」
「絶対に帰ってこいよ、リア! 土産話、楽しみにしてるからな!」
大きな歓声が湧き起こった。
誰もが笑い、泣きながら、彼女の名を呼んでいる。
ヴォルトはしばらく馬をその場に留めていた。
村人たちの声が少し落ち着くと、ようやく手綱を引いた。車輪がコトリと音を立て、荷馬車が再び動き出す。
カイウスは振り返らず、まっすぐ街道の先を見つめていた。
村人たちの声に送り出されるように、晴れやかな笑みがその顔に浮かんでいた。
リアは立ったまま、何度も手を振った。
誰より高く、誰より大きく。村人たちの姿が小さくなって、やがて見えなくなっても振り続けた。
三人を乗せた荷馬車は朝日に向かってゆっくりと遠ざかり、逆光の中へ溶けるように消えていった。
***
見送りを終えた村人たちが戻った、丘の上。
祈りの大樹は、今日もノルヴィアを見守るようにそびえ立っている。
幹をたどるように視線を下ろすと、黒く変色した断面が見えてきた。
かつて赤獣に裂かれたと語られ、六年間、村の傷として残り続けたその場所から——小さな芽が、顔を出していた。
どこからともなく、風が吹く。
新芽はわずかにしなりながらも、折れず、朝陽を受け、空を仰ぎ、懸命にその身を伸ばそうとしている。
それは、幾つもの苦難を越えたノルヴィアにようやく芽吹いた、ひとつの祈りのようにも見えた。




