1-24. 野花の咲く場所
夕暮れの麦畑を抜けた先。北東の村外れにある小高い丘に、小さな共同墓地があった。
死者を祈りの大樹の見える丘に葬ることで、その魂を豊穣神トリィヤの御許へと送り還す。それもノルヴィアに伝わる習わしの一つだった。
墓標はどれも平石を立てただけの素朴なものだった。古いものは角が丸くなるほど風雨に削られている。
どの墓石にも新しい麦穂と野花が供えられ、大切に手入れされていることが伝わってきた。
その一角。とある墓の前で、リアは足を止めた。
カイウスの腕を支えながら、ゆっくりと腰を落とす。カイウスも痛みに顔を顰めつつ片膝をついた。
「……おじいちゃん。帰るのが遅くなってごめんね。もう六年も経っちゃったんだね」
リアは胸元から、小さな袋を取り出した。
アベルから譲り受けた薬袋だった。布は色褪せているが何度も縫い直された跡がある。この六年間、リアが片時も手放さず、大切に守ってきたものだった。
そっと墓前へ置くと、リアは目を閉じた。
「……今日はね、話したいことがあるの」
ぽつり、と呟く。
「わたし、おじいちゃんみたいに誰かを助けられる人になりたかったの。でも、傷付くのも、誰かを傷付けるのも怖くて……この六年間、誰とも触れ合わず、ずっと森の中に閉じこもってた。ウジウジして、結局何も出来ない自分が不甲斐なくて……毎日、ほんとうに、苦しくて……」
そこで言葉が途切れた。その唇が何度かためらうように動く。それでも逃げずに、ずっと隠してきた想いを口にした。
「……何度も思ったよ。わたしじゃなくて、おじいちゃんが生きていたらよかったのに、って」
リアはゆっくり顔を上げると、穏やかに笑った。
「でもね、おじいちゃん。あの夜に言ってくれたこと、覚えてる? いつか必ず、わたしの手を取ってくれる人が来てくれるって。だから諦めちゃいけないって、そう言ってくれたよね……今日はね、紹介したい人がいるの」
そこでリアはそっと隣に振り向いた。
「……カイウスさん。この人が、わたしの手を、取ってくれた人だよ」
カイウスは手にしていた麦穂の束を墓前に供えた。
死者に今年の実りを手向ける。それがノルヴィアにおける弔いの所作だと、ここにくる前にエルンから教わっていた。
「……はじめまして、アベルさん」
珍しく少し緊張した面持ちで、墓標へ頭を下げた。
「リアから、あなたのことは聞いています。優しくて、強くて……何があっても誠実さを失わない人だったと」
隣のリアを見る。
「俺は森で、リアに命を救われました。自分より先に誰かのことを考えて、その人のために立ち上がれる。そんなリアの強さを、心から尊敬しています」
カイウスは再び墓標へと向き直った。
「そんな彼女の優しさも、きっとあなたから受け継いだものなんでしょう。だから……変な話ですけど、俺はあなたのことも尊敬しています。アベルさん」
取り繕わない、カイウスらしい言葉だった。その隣でリアが胸元に手を添える。
「おじいちゃん。わたしね、カイウスさんに助けてもらって……村のみんなとも、仲直りできたよ。またノルヴィアに、帰ってこられたの」
報告をするうち、その声は少しずつ弾んでいった。
「まだできないことばかりだけど、少しずつ誰かの役にも立てるようになったんだよ。だからね……だから、もう心配しなくても大丈夫だよ。わたし、ちゃんと前に進めてるから」
リアは墓標の石肌に、そっと触れた。
「だから……これからは、安心して見守っててね」
さらさらと麦穂を揺らす風が、夕陽を受けたリアの赤髪を優しく撫でていく。
それが言葉のない返事のように思えて、リアの目に涙が浮かんだ。
「……うん。ありがとう、おじいちゃん」
薬袋を拾い上げると、そっと胸へ抱き寄せる。
カイウスへと振り返った顔には、長く抱えていたものをようやく下ろしたような安堵が浮かんでいた。
「やっと伝えられました。カイウスさん、付き合ってくれてありがとうございました」
「いや。俺もアベルさんにちゃんと挨拶ができてよかったよ」
そう言うと、墓標へもう一度目を向ける。
「今度来る時は、アベルさんの好きだったものでも持ってこようか」
「あ、それいいですね。薬草茶、淹れてあげようかな」
「蜂蜜入りのアレか。そうしよう。久しぶりに孫娘が淹れてくれるんだ。アベルさんは、さぞ喜ぶだろうな」
それから二人はしばらく言葉を交わさず、稜線の向こうへ沈む夕日を眺めていた。
丘を渡る風が、少しずつ冷たさを増していく。カイウスが肩をすくめた。
「……そろそろ戻ろうか。夜は冷えそうだ」
「はいっ」
リアはカイウスの腕を取り、自分の肩へ回し直した。
遠くの村では、夕餉の温もりが一つ、また一つと灯り始めていた。
***
二人がエルンの家へ戻る頃には、空はすっかり夜の色へ変わっていた。
扉を開けた途端、なんとも食欲を唆る匂いに包まれる。
「あら、おかえりなさい。リアちゃん、カイウスさん」
台所からエレノアが笑顔を覗かせた。
「ちょうど今、焼き上がったところよ」
腕に抱えた籠には、湯気を立てるパンが山のように積まれている。生地に練り込まれた香草の匂いが、焼けた麦の香ばしさとともに鼻をくすぐる。
「あっ……!」
リアの顔が、ぱぁっと明るくなる。
「エレノアさんの香草パンだっ!!」
「そうよー。リアちゃん、昔から好きだったでしょう?」
「はい! 大好きです!」
「今日は豊穣祭だから、ちょっと張り切りすぎちゃってね。たくさんあるから、遠慮しないで食べてちょうだいね」
整えられた食卓の上には、ヤギ乳の焼きチーズに根菜のスープ、鶏肉のローストも並べられていた。
どれも手間を惜しまず作られた、ノルヴィアで長く愛されてきた家庭料理だった。
「母さんの香草パン、リアは本当に大好きだったもんなぁ」
すでに席へ着いていたエルンが、面白そうに身を乗り出す。
「そうだ、聞いてくださいよカイウスさん。昔リアが、母さんとパン屋に行ったとき——」
「エ、エルちゃん!? それは話しちゃ駄目! わたし、怒るよ!」
リアが慌てて遮り、籠からパンを一つ取った。ちぎったパンを大きく口へ押し込む。
「お、おい……そんなに詰め込むと、喉に詰まらせるぞ」
エルンの心配もよそに、リアは頬を膨らませたまま何度も噛む。やがて、その目がゆっくり細められた。
「……あぁ、変わってない」
口の中のものを呑み込み、懐かしさに浸るように呟く。
「あの頃とまったくおんなじ味だ……すっごく美味しいです」
「本当? それはよかった」
エレノアが嬉しそうに笑った。
カイウスも一つ手に取り、もちもちしたパンをちぎる。口へ運ぶと、麦の甘みと香草の風味がぶわりと舌の上へ広がった。
「……本当だ。ウマいな」
「あら、カイウスさんまで」
「口当たりもいいし、風味もちょうどいいよ。風の壺亭にも負けてないんじゃないか?」
「まあ! 旅慣れた方にそう言ってもらえると、ちょっと嬉しいわねぇ」
エレノアが頬へ手を当て、満更でもなさそうに笑う。
「もっと褒めてやってくださいよ、カイウスさん。母さん、パンだけは村一番だって自信があるんです」
「『パンだけ』は余計でしょう、エルン」
「なんだよ、怒られちゃったよ」
エルンがわざとらしく首をすくめると、リアがほどけた顔で言う。
「エルちゃん、なんか嬉しそうだねぇ。エレノアさんのこと大好きだもんねぇ。良かったねぇ」
「なっ?! 何言いだすんだよリア!」
今度はエルンが顔を赤くする。リアは、してやったりと目を細めた。
六年の空白など感じさせない、幼馴染同士のやり取りだった。
カイウスはパンを口に運びながら、その笑顔を見つめていた。
(リアも、こんな顔をするんだな)
すっかり気を許した、無防備な笑顔。
森で出会ったばかりの彼女は、笑うことなんて滅多に無かった。いつも何かに怯え、相手の顔色を窺い、何気ない言葉にもビクリと身を竦ませていた。
でも今は違う。懐かしい友人たちに囲まれて、こんなにも屈託のない笑顔を取り戻している。
「カイウスさん、もう一つ食べますか?」
「ん? ああ、もらおうかな」
リアが籠を差し出してくる。パンへ伸ばしたカイウスの指先が、彼女の指に触れた。
リアは一瞬きょとんとした後、幸せそうに微笑む。
「……カイウスさん。こういうの、夢みたいですね」
「香草パンが好きなだけ食べられることがか?」
「ち、が、い、ま、すっ」
リアが拗ねたように頬を膨らませる。
「こっちのことですよ」
そう言って、部屋の中を見渡した。
湯気の立つ食卓。
エルンとエレノアの笑い声。
暖房が照らす、温かな部屋。
「こうやって、みんなで一緒にご飯を食べることです」
リアは口元へパンを寄せ、少し照れたように笑う。
「わたし、カイウスさんと二人で食べるご飯も好きですよ? でも、みんなで食べるご飯も……同じくらい、美味しいですね」
カイウスは答えず、ただリアの顔を見つめていた。
エルンの昔話に慌て、エレノアの料理に目を輝かせ、懐かしい思い出に頬を緩める。
ここには、リアの大切な思い出が溢れている。彼女がようやく見つけた、心から安らげる食卓なのだ。
(……そう、だよな)
リアはもう一人ではない。
自分がいなくても、彼女を支えてくれる人たちが、この村には沢山いる。アベルから受け継いだ優しさを失わず、誰かと一緒に笑い、誰かに必要とされて生きていける。
(ここでならリアはきっと、幸せになれるんだよな)
自分と旅を続ければ、またいつ危険に巻き込まれるか分からない。護衛が中心とは言え、傭兵の行く先に平穏などない。
リアは強い。けれど傷つかないわけではない。
彼女はもう、十分に傷ついてきた。六年も一人で苦しみ、ようやく帰る場所を取り戻したのだ。これ以上、自分の旅に巻き込んで、あんな血を流させたくはない。
だとしたら、自分の役目はもう終わったのだろう。
いつか、またどこかで。
今生の別れではない。旅の途中でノルヴィアへ立ち寄れば、また会える。その時はこうして同じ卓を囲み、思い出話に花を咲かしながら、リアをからかってやればいい。
行くあてのない旅に、立ち寄りたいと思える場所が一つできた。それだけで十分じゃないか。
何も言わずに去ろう。
別れを告げれば、リアはきっと悲しむ。この笑顔をわざわざ曇らせるくらいなら、黙っていなくなった方がいい。
(それがいい。それが一番、良いに決まってる)
胸の奥がチクリと痛んだ。
折れた肋骨のせいではない。その理由については、考えないことにした。
「……カイウスさん?」
呼ばれて顔を上げる。リアが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかしましたか? 難しそうな顔をして」
「……いや。何でもないよ。パン、ありがとうな」
カイウスは差し出された籠からパンを受け取る。
エルンの冗談に、また食卓に笑い声が弾けた。その輪の中で、カイウスだけが少し遅れて笑った。




