1-23. 変わる日常、変わらぬ想い
巨狼の襲撃から数日が過ぎた。
本日のノルヴィアは、雲一つない快晴。
豊穣祭が、ようやく始まった。村中が待ちわびた祝祭の空気に満ちている。
丘の畑で育った紫の珠——タオラと呼ばれる果実が、房ごと大樽へと放り込まれていく。
女たちは裾をたくし上げると、裸足でその上へ飛び乗った。足裏で踏むたび、ぷちん、ぷちんと実が弾ける。溢れた果汁が、樽の注ぎ口から陶器の壺へとろとろと流れ落ちていった。
秋を呼び込む木笛が軽快な調べを奏で、花冠をつけた子供たちが広場狭しと駆け回る。
中央に据えられた大鍋では旬の野菜がぐつぐつ煮込まれ、風の壺亭が振る舞う焼きたてのパンとともに、香ばしい匂いを村中へ届けていた。
「うう……よいしょおおお!」
「わあぁ! リアお姉ちゃん、すごーい!」
「嘘だろ……?! リアのやつ、一体いくつの麦袋を持てるんだ!?」
「リアちゃん、悪いけどこっちの木材もお願いできないかしら! 男どもが頼りなくって!」
「ちょ、ちょっと! 抜け駆けはずるい! リアちゃん、次はこっちの荷車をお願い!」
「分かりました! これを運び終わったら、すぐ行きますね!」
飛び交う声に、カイウスは足を止めた。
視線の先、人垣の中心にいるのはリアだった。
片腕に麦袋四つを抱え、反対の肩には長い木材を担いでいる。それでも涼しい顔をして、頼み事をされるたび嬉しそうに返事をしていた。
「あっ!」
足元で子供が転んだ。リアは麦袋をひょいと木材の上に乗せると、器用に屈みその身体をそっと抱き起こす。
「大丈夫? 怪我してない?」
「へいき! ありがと、リアお姉ちゃん! ねぇねぇ、次はあっち行ってみようよ!」
「よかったぁ。うん、いこいこ!」
腰にしがみついたミラを先頭に、子供たちが列になってリアの後を追っていく。
「すっかり人気者ですね、リア」
隣でカイウスに肩を貸しているエルンが、眩しそうに目を細めた。
「ああ。もともと人懐っこい性格だからな。ああやって人に囲まれてるのが、よく似合うよ」
カイウスの口元にも、自然と笑みが浮かぶ。
ほんの数日前まで赤獣と恐れられていた少女が、今では村中から頼りにされている。
明るく素直で、放っておけば誰かのために走り回っている。カイウスがよく知る、いつも通りのリアだった。
「っ……」
不意に疼いた脇腹に笑みが歪む。
「だから無茶だって言ったじゃないですか。まだ痛むんでしょう? 肋骨だけじゃなくて、全身ひどい怪我なんですから」
すぐに気づいたエルンが、呆れ半分、心配半分の声を漏らす。
「痛いか痛くないかで言えば、もちろん痛いさ。でも今日は祭りだからな。寝台で寝たきりなんて、もったいないだろ」
包帯で固定した脇腹は、いくらか回復し始めている。しかしまだ一人で歩ける状態ではとてもなかった。
折れた肋骨を庇えば、身体はどうしても前へ傾く。不自然な姿勢で一歩進むたび、腰や脚にも鈍い痛みが走った。
「まあ、気持ちは分かりますけどね。こんなふうに村全体が心から笑ってるのは、本当に久しぶりですから」
「そうか。それなら、文字どおり骨を折った甲斐があったな」
反応に迷う冗談にエルンが困ったように笑った、そのとき。
リアが広場の端にいる二人を見つけた。その顔から満面の笑みがすっと消える。
抱えていた荷物を近くの男たちへと預ける。受け取った男たちはその重さに耐えきれず、揃って尻餅をついた。
リアが子供たちを引き連れたまま、ずんずんと歩み寄ってくる。
「カイウスさん! どうしてまた出歩いてるんですか!?」
リアの肩にもまだ白い包帯が巻かれていた。けれどカイウスとは違い、まるで負傷していたことなど忘れたように元気だった。
「わたし、絶対安静って言いましたよね!? 薬草の効果だって、万能じゃないんですよ!」
「もっと言ってやってよ、リア。俺が何度止めてもまったく聞こうとしないんだから、この人」
エルンが深々と溜息をつく。
「失敬だな。それじゃまるで、俺が人の忠告を聞かない愚か者みたいじゃないか」
「でも……実際、そうじゃないですか」
リアが小さく口を尖らせる。
すると、ミラをはじめとした子供たちも一斉に声を上げた。
「リアお姉ちゃんの言うことを聞け、カイウス!」
「お姉ちゃんを困らせるなー!」
「ちゃんと寝てろー!」
「バカ! バカイウスー!」
「バカイウス! バカイウス!」
思わぬ追撃に、カイウスは言葉を失った。
「こ、こら、みんな!」
リアが慌てて子供たちを宥める。
「カイウスさんはね、こう見えて意外と打たれ弱いんだから! あんまりいじめちゃ駄目だよ?!」
「リア。それ、全然フォローになってないよ」
エルンがすかさず突っ込んだ。
一拍の沈黙の後、リアが吹き出す。エルンも堪えきれずに笑い、何が面白いのか分からない子供たちまで一緒になって笑い始めた。
カイウスも渋い顔を保とうとしたが、すぐに諦めた。
笑うたびに肋骨が痛む。でも止める気にはならなかった。
(こういう日が来るなら、たまには無茶するのも悪くはないか)
笑い声に包まれながら、カイウスはふとそんなことを思った。
***
日が傾き、祭りの熱気もようやく落ち着き始めていた。麦倉の裏手に置かれた腰掛けで、カイウスは一人、夕風に当たっている。
ここまで来れば広場の喧騒も少し遠い。それでも収穫を祝う歌声は途切れず、家々の隙間を縫って聞こえてきた。
エルンはオルドに呼ばれ、祭事の手伝いへ戻っている。
この後には、麦袋を担いで村の端から祈りの大樹まで走る『麦袋担ぎ』とやらが行われるらしい。
ああ見えてエルンは足が速く、例年なら優勝争いの常連だという。もっとも今年はリアも出場すると聞き、ひどく肩を落としていたが。
「幼馴染同士、久々に全力で競いあうのも悪くないだろ」
笑いながら送り出したものの、正直結果は目に見えている。彼には少し気の毒だったかもしれない。
そんなことを考えていると、麦倉の角から人影が現れた。
競争の準備へ向かったはずのリアだった。カイウスは意外そうに眉を上げる。
「あれ? 競争はどうしたんだ? 優勝賞品は籠いっぱいのタオラだって聞いたぞ。リアの大好物だったろ?」
「えっと、その……」
リアは視線を逸らし、照れるように頬を掻いた。
「今日はちょっと、疲れちゃいまして。少しだけ休もうかなって……お隣、いいですか?」
「ああ、もちろん。もてなせるものは何もないけど」
「ふふ。何もいらないですよ。失礼しますね」
リアはふわりと笑い、カイウスの隣へ腰を下ろした。
あれだけ元気に村の手伝いをしていた彼女だが、言うほど疲れている様子はない。カイウスは敢えて何も触れなかった。
「ふぅ……」
リアが小さく息を吐くと、しばらく二人で祭りの音に耳を澄ませる。
「今日はずっと、誰かに頼られてばかりでした」
「見てたよ。荷物を運んでは子供たちの面倒を見て。ほんと、大活躍だったな」
「そうなんですよ! お祭りなのに、全然見て回れませんでした」
そう言いながらも、リアの声は弾んでいた。
「でも、わたし……少しも嫌じゃなかったんです。誰かの役に立てるって、こんなに嬉しいことなんですね」
「だろうな。遠くから見てても、楽しんでるのが丸分かりだったよ」
「……そ、そんなに楽しそうでした?」
「ああ。ずっと笑ってたからな」
「えぇ……変な子だって思われなかったかな」
リアは恥ずかしそうに俯いた。
「思われるわけないだろ。きっと人を助けるのが性分に合ってるんだよ」
「え?」
思いがけない言葉に、リアが顔を上げる。カイウスは茜色に染まり始めた空を眺めていた。
「損得なんて考えずに、誰かのために動ける。言うのは簡単だけど、誰にでもできることじゃない」
そこで一度言葉を切る。
「それはリアの立派な長所だ。誇っていい……いや、リアはもっと胸を張るべきだ。少なくとも、俺はそう思うよ」
カイウスが、自分の性格を長所だと言ってくれた。
——嬉しい。
心からそう思った。けれど、すぐに頷くことはできなかった。過去の自分を、まだ許しきれていなかったからだ。
「……でも。わたし、自分がそんな立派な人間だなんて、どうしても思えません」
膝の上で組んだ指に、わずかに力が入る。
「だってわたし、この六年間、憎まれるのが怖くて、ずっと村を避けてたんですよ? 一人で森に閉じこもって、人を助ける以前に、話すことも出来なかったんですから」
それが、ほんの少し前までの自分だった。
誰かに手を差し伸べることも、近づくことすらも出来ず、ただ森の奥で息を潜め、一人きりの暮らしだけを守っていた。
「そんなわたしが、ここまで来られたのは……」
そこまで言って、リアははっと息を呑んだ。
孤独の中でもがいていた自分へ、最初に手を差し伸べてくれたのは誰だったのか。赤獣と呼ばれた過去を知っても離れず、自分のことを信じ続けてくれたのは、誰だったのか。
リアは、そっと隣の横顔を見つめる。
「……カイウスさんが、わたしの手を取ってくれたからです」
カイウスは空を見たまま、唇の端をわずかに緩めた。
「いやいや。最初に俺を助けてくれたのはリアだろ。それを言うなら、手を差し伸べたのはリアの方じゃないか?」
「そ、そんなことない!」
リアは思わず身を乗り出した。
「あのときカイウスさんがいなかったら……ノルヴィアへ連れてきてくれなかったら! わたし、きっとまだ誰の手も取れないままでした!」
言い切ったリアの胸に、ふと一つの記憶が蘇った。
半身を欠いた、祈りの大樹の根元。冷たくなったアベルの身体へ縋りつき、声が枯れるまで泣いた夜。
祖父が震える声で、最後に言い残してくれた、大切な言葉。
目の奥が熱くなる。リアは胸元で、両手をそっと握り締めた。
(おじいちゃん……本当に、来てくれたよ)
「……あの、カイウスさん」
「ん?」
「このあと、少しだけ村の外れまで付き合ってもらえませんか?」
リアは灰色の瞳をまっすぐに見つめた。
「わたし。大切な人に、どうしても報告したいことがあるんです」
カイウスはわずかに目を見開いた。その相手が誰なのかは尋ねずとも分かった。
「……この身体だからな。肩を貸してくれるなら、もちろん良いよ」
「ふふ。ありがとうございます」
そう言ってリアは、嬉しそうにはにかんだ。




