1-21. ノルヴィア村のリア②
村門の内側では、誰もが呆然と立ち尽くしていた。
視線だけは、麦畑の中央へ釘づけになっている。
倒れたカイウスと、焦燥しきったリア。
先ほどまで狼の群れを蹴散らしていた二人が、まともな反撃すらできず、文字通り弄ばれている。
——勝てるはずがない。
その絶望が、雨よりも冷たく身体へ染み込んでいく。
巨狼はカイウスを一瞥すると、リアへ視線を戻した。鮮血色の目がすっと細くなる。
彼女が何に怯え、何に苦しむのか。それはもう、分かっていた。
その首がわざとらしく、ゆっくりと村門へと向いた。
「……え?」
リアの顔から血の気が引く。
そちらには村人たちがいる。まともに戦える者など殆どいない。巨狼に襲われれば、ひとたまりもないだろう。
何十人もの命が、容赦なく踏み躙られる。
青ざめていくリアを横目で眺めると、巨狼は抉れた口元を吊り上げた。
「ま、待って……!」
待たない。巨狼が地を蹴った。
「そっちは、行っちゃ駄目ぇっ!」
横合いから巨体へ飛びついた。
巨狼が苛立たしげに身を捩る。それでもリアは銀毛へしがみつき、振り回される力までを利用して、門から逸れるようにと全身をぶつけた。
ドンッ!
反動で振り落とされ、リアは泥の上を転がった。
だが、すぐに起き上がる。泥だらけの顔を手の甲で拭い、巨狼と村門の間へ立った。
力でも、競り負ける。
攻撃を見切ることも、出来ない。
カイウスも、いない。
これ以上は危険だ。いますぐ逃げろ。
全身がそう、悲鳴を上げていた。
それでも腰を落とし、両腕を構える。
ここから先へは、行かせない。
「……どうしてだ」
誰かの呟きが、ぽつりと落ちた。
「どうして、逃げないんだ……? このままじゃ、本当に殺されちまうぞ」
「俺たちは、あいつを……村から追い出したんだぞ」
「赤獣だ、化け物だって、あれだけ罵ったのに。……恨まれてる、はずなのに」
答えを求める声が、雨の中へ落ちていく。
「あいつは……なんで、俺たちを守ってるんだよ」
リアの背中は答えない。
巨狼が、また消えた。何度見ても、そう錯覚してしまうほどの速さだった。
瞬間、純粋な憎悪の塊がリアへ激突する。
ドゴガァァァン!
「うぐぅうっ……!」
焼けた杭を打ち込まれたような激痛が、左肩を貫いた。
見れば、牙が深々と突き刺さっている。
視界が真っ白になる。
踵が泥を削り、ずるずると門へ押し込まれていく。
巨狼は、リアを噛み砕こうとはしなかった。
すぐに殺してしまってはつまらない。そう言わんばかりにじわじわと食い込ませ、リアが悶える感触を愉しんでいる。
リアは右手で上顎を押し上げ、右足を下顎へ突っ張っている。震える左脚一本でなんとか踏ん張った。
ここで倒れれば、次に襲われるのは背後の村人たちだ。
「ぐっ……うぅっ……!」
それでも勢いは止まらない。
やがてリアの背中へ松明の熱が届いた。いつの間にか、村門の目前にいた。
灯りに照らされ、巨狼の醜悪な顔がぼわりと浮かび上がる。
「なんなのだ……」
鍬を下ろしたオルドが、呆然と呟いた。
「いったい、お前はなんなのだ。トリィヤ様を裂いておきながら、今さら村へ戻ってきて……今度は、我々を守っている……? お前はいったい、何がしたいのだ……」
「そ、村長! 今はそんなことを言っている場合じゃ——」
「はなせ!」
止めようとした青年の手を、オルドが振り払う。
「……答えろ、赤獣! お前はいったい、何を望んでいるのだ?!」
張り裂けるようなその声が、痛みに朦朧とするリアの背を打ち鳴らす。
「……オルド、さん」
掠れた声が、ぽつりと落ちる。
「わたし、この村が好きなんです」
自分でも気づかないほど自然に、胸の奥から零れでた言葉だった。
「薪割りを教えてくれた、ノエルお婆ちゃん。いつも笑ってパンをくれた、リオネルさんと……猟師の、アッシュさん……」
一人、また一人。
名前を口にするたび、かつて自分にも向けられていた笑顔が甦る。
「手芸を教えてくれた、フィリアお姉ちゃん。花冠を作ってくれた、カイルお兄ちゃん……いつも一緒に遊んでくれた、エルちゃん。温かいシチューで迎えてくれた、エレノアさん。……大切なことを、たくさん教えてくれた……おじいちゃん」
六年経っても忘れなかった。忘れられるはずがなかった。
森で一人、夜を迎えるたびに思い出していた。帰れることのできない故郷にあった、陽だまりのような温もりを。
「追い出されてから、ずっと、寂しかった。苦しくて……怖くて……でも、みんなとの思い出だけは、温かかった。暗い森の中でも、キラキラしてた……ずっと、わたしを支えてくれた……大切な、宝物だった!」
後ろへ滑っていた足が、ぴたりと止まる。
苛立った巨狼が牙へ力を込めた。さらなる激痛にリアの顔が歪む。
それでも、一歩も退かない。むしろ唸り声をあげると、逆に一歩、前へと踏み出した。
「だから……どれだけ嫌われても! 憎まれても、化け物だって罵られても! それが、わたしがこの村を見捨てていい理由になんて、絶対にならないんだ!!」
巨狼の脚が、初めて宙を掻いた。
少女一人を容易に押し潰せるはずの巨体が、少しずつだが、確かに押し返されてゆく。
「わたしは、この村が! ノルヴィアのみんなが、大好きだから! だから命を懸けてでも、ここでコイツを、止めなきゃいけないんだ!!」
村人たちは、声もなく赤い背中を見つめていた。
六年間。村の全員で、恐れ、憎み、拒み続けてきた、一人の少女。その彼女が今、自分たちへの愛を叫んでいる。
「——リア!」
人垣の後ろから声が飛んだ。
エルンだった。
全身ずぶ濡れで、肩を大きく上下させている。人々を押し分け、よろめくように門際まで駆けてきた。
麦畑へ目を向ける。
地に伏せたカイウス。巨狼を食い止めるリア。
二人を目にした瞬間、顔から血の気が引いた。
だが、立ち尽くしたのはほんの一瞬だけだった。
——もう俺は、見ているだけの子供ではない。
そう意を決っしたように、村人たちへと振り返る。
「みんな、聞いてくれ!」
乱れた息もそのままに、腹の底から叫ぶ。
「リアは何も悪くない! 六年前、大樹を裂いたのはリアじゃない!」
ざわめきが走った。
「な、何を言ってるんだ、エルン!?」
一人の男が声を荒らげた。
「俺はオルドさんと見たんだぞ! 裂けた大樹のそばに、赤獣がいた! アベルさんの亡骸を、抱えていたんだ!」
「じゃあお前は、リアが大樹を裂くところを見たのかよ!?」
エルンが即座に問い返す。男の勢いが鈍った。
「そ、それは……見てないさ。だけど、あの怪力だぞ! ほかに誰が大樹をあんな目にできるってんだ!」
「リアは大樹を壊したんじゃない! 下敷きになったアベルさんを助けようとして、倒れた幹を持ち上げようとしただけだ!」
「そもそも、どうしてアベルさんはあんな嵐の中、大樹の根元になんかにいたんだよ!」
別の男が食い下がる。
「おかしいだろ?! コイツに呼び出されたんじゃないのか?! 嵐の中なら、何したって見つからないしな!」
「……ちがう! それは、俺の母さんを助けるためだ!」
エルンの声が裏返った。
「母さんの病気を治すセリアの薬草を採りに、アベルさんは大樹へ行ってくれたんだ! リアはそれを知って、連れ戻すために後を追っただけだ!」
男たちの顔に動揺が走る。
「それだけじゃない! アベルさんを助けらず、村を追放されたあとも……リアは薬草を持ち帰った。母さんのために薬を作って……誰にも見つからないように、俺の家に置いてってくれたんだ!!」
「待て……ちょっと、待ってくれよエルン」
戸惑う声が割って入った。広場で、最初にリアの背を追って駆け出した青年だった。
「そんな話……この六年間、一度も聞いたことないぞ。エルンお前、どうして今になって、こんな大事な話を——」
「俺だって、知ったのはついさっきなんだよ!」
エルンは逃げずに叫び返した。
「アベルさんが何のために大樹へ行ったのかも、母さんを救った薬を誰が作ってくれたのかも……俺は何も知らなかった! 全部、リアから聞いたんだ!」
「なら……なら、なんでリアは黙ってたんだよ?!」
反論はすぐに返ってきた。
「そんな事情があったなら、六年前に話せばよかっただろ! ちゃんと説明していれば、俺たち、こんなすれ違いしなかったはずだろ!」
「あのときのリアは、俺たちと同じ十二歳だぞ!?」
リアを責める声を、エルンの怒声が真っ向から撥ね返した。
「目の前でアベルさんも失ったんだ! たった一人の家族を亡くして、心だってすり減ってた! そんな状況で、起きたことを全部上手く説明できるわけないだろ!? 逆にお前なら、出来たってのかよ?!」
「っ!」
青年が息を呑む。彼は、思い出していた。
何かあればすぐにエルンの背中へ隠れ、おどおどとしてきたリアの姿を。
そんなリアが、祖父を失った直後に大勢の大人から囲まれ、罵声を浴びせられていた。
そのときいったい、何を話せたというのだろう。
「けど……エルンは幼馴染だったじゃないか」
別の農夫が、ぽつりと呟いた。
「どうして追いかけなかったんだ。どうしてリアから話を聞かなかったんだ」
「怖かったからだよ!」
エルンは声を震わせながらも、自分の罪悪感から目を逸らさない。
「追放されたリアを追いかけたら、あいつの仲間だと思われる。次は俺まで迫害されるかもしれない。そう考えたら、すごく怖くて……何もできなかった!」
唇が震える。声も、情けないほど掠れていく。
「リアを捜すことも、何があったのか聞くこともできたはずなのに。俺は自分が可愛くて、大事な幼馴染を見捨てた、卑怯者なんだよ!」
言い切ると、エルンは濡れた顔を上げた。涙も雨も拭わず、村人たちを見渡す。
「でも、それは俺だけか!?」
言葉を投げるように手を振り払う。
「あんたたちは、リアの話を聞こうとしたのかよ! 何も言えなくなってた子どもを囲んで! 化け物だ、災いだって責め立てて! 一人でも、あいつの言葉を待とうとしたのか!?」
全員が、気まずそうに顔を伏せる。
「話せなかったリアが悪いんじゃない。怖がって、知ろうともしなかった俺たちが悪かったんだよ! リアはその間もずっと……ずっと、俺たちのことを、想ってくれてたのに!!」
雨音だけが残った。
反論できないことを、その場の全員がわかっていた。
「……では、私は……何をしたのだ……?」
どしり、と重い音がする。
オルドが泥の中へ膝をついていた。
「親友を救おうとしていた、その孫娘を……私は話も聞かずに、災いと決めつけたのか……?」
大きな背中が、見る間に小さく丸まっていく。
「十二の子どもから……家も、友も、何もかもを、奪って……六年もの間、孤独で生きることを、強いたというのか……?」
震える手で胸元を掻きむしる。後悔の痛みは、消えはしない。
「私は……私は、なんということを……!」
その襟を、エルンが掴んだ。
「村長! 今は後悔してる場合じゃないですよ!」
「エ、エルン……しかし……!」
「見てください……ちゃんと、見ろよ!!」
エルンがオルドの顔を麦畑に向ける。
リアはまだ踏み止まっている。左肩を血に染め、今にも倒れそうになりながら。
それでも、巨狼を村から遠ざけようと押し返す。
「いまもリアは、たった一人でこの村を守ってるんですよ!」
エルンの頬を涙が伝った。
「今じゃないんですか?! あの晩、誰一人として信じられなかったリアを! 誰よりも優しい、あいつのことを! 今度こそ! 心から、信じるべきじゃないんですか!?」
オルドが、はっと息呑む。
視線の先にいたのは、村へ災いを呼ぶ赤獣ではない。
愛するノルヴィアを懸命に守ろうとしている——親友が何よりも大切にしていた、臆病な性格の少女だった。
「……リアぁ」
震える唇から、その名が零れた。
小さな、小さな呼び声だった。
先ほどエルンへ食い下がった若い農夫も、顔を上げる。
鍬を握り直すと、声を張る。
「……リア!」
その声に、もう一人が続いた。
「リア、がんばれ、がんばってくれぇ……!」
「今まですまん、リア……踏ん張ってくれ……!」
「何も力になれなくて、すまない……リア!」
「頼む……生きて帰ってこい!」
「リアお姉ちゃん! 負けないで!」
一つだった声が、二つになった。
二つだった声が、十になった。
やがて人々の願いは大きな唸りとなり、雨音さえを呑み込んでいく。
「リア!」
「リア!」
「リア!」
「リアァッ!」
六年間、呼ばれることがなかった、少女の名前。
(みんな……)
そのすべてが、リアの背中に届いていた。
目頭が、熱くなる。
冷たい泥の上。それなのに、自分の足元にだけは、温かく大切な光が灯っているように感じられた。
巨狼が苛立たしげに唸る。
己の獲物の名を叫び続ける村人たちへ、緋い目を向けた。
その瞬間。
肩へ食い込んでいた牙が、わずかに緩んだ。
リアはゆっくり息を吸う。そして、深く、吐いた。
その呼吸に応えるように、赤髪の奥で光が脈打つ。
一息に、腰を落とす、
牙が傷口を抉りながら、ずるりと抜ける。噴き出す血も、激痛も、今はどうだっていい。
軸足を捻る。
脚から腰へ。腰から肩へ。全身の力を右拳へと繋ぎ、抉れた左顔へ叩き込む。
バギィィンッ!!
雨粒すら散らす、破砕音。左牙が、根元から爆ぜる。
一本だけではない。並んだ牙がまとめて砕け、白い破片となって飛び散った。
「オギョオオオアァァァッ!」
巨狼の絶叫が響き渡る。
巨体を何度も地面へ打ちつけ、苦しげにのたうち回る。暴れるたびに泥が抉れ、周囲の麦が押し潰されていった。
リアは大きく息を吐き、ゆっくりと拳を構え直した。
赤髪を満たす光は、さらに強さを増している。頬や背中に張りついていた髪が、重さを失ったようにふわりと持ち上がり、ゆるやかに波打っていた。
その身体を支えているのは、生まれ持った怪力だけではない。
拒まれても、傷つけられても、恐れられても。誰かを救うためなら、何度だって立ち上がる。
あの嵐の夜にアベルが命をもって遺した、気高い意志だった。
「……何度でも来い」
リアが一歩、前へ出る。
「わたしが——ノルヴィア村の、リアが相手だ!」




