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傭兵カイウスの放浪譚  作者: フルツ好き男
一章 豊穣の村と赤髪の少女

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20/29

1-20. ノルヴィア村のリア①

「グルルオオォォオオン!」


 咆哮が腹の底を震わせた。足元の泥まで、びりびりと波打つ。

 それが合図だったのだろう。麦畑の狼たちが、一斉に左右へと身を引いた。

 黒い群れが二つに割れ、一本の道ができあがる。


 その奥で、闇が揺れた。

 

 初めに見えたのは、血のように緋い眼光だった。

 次いで、ぬらりと巨大な頭が現れる。

 濡れた銀毛。顔の左半分は醜く抉れ、剥き出しになった牙が本能的な恐怖を誘う。


 ノルヴィアの巨狼。

 森の王が、自らのために開けられた道を悠然と歩いてくる。


 刺すような視線が、リアを捉えた。

 瞬間、背中の産毛がぶわりと逆立つ。


「リア、大丈夫だ」


 すかさず、隣から落ち着いた声が掛けられる。

 カイウスが半歩前へ出た。剣の切っ先は巨狼に向けている。


「周りの狼は動く気配がない。群れの主の戦に、手は出さないつもりなんだろう。あいつ一頭に、こっちは二人。数では勝ってる」


 ずいぶんと無理のある勘定だった。けれど、自分を安心させようとしてくれているのは分かった。

 胸に残る痛みを押し隠すと、リアは小さく頷いた。


「……はい。カイウ——」


 言い終える前に、巨狼が消えた。


「——っ!」


 気付いたときには、もう目前にいた。

 カイウスは反射的に横へ跳ぶ。反応が遅れたリアは逃げきれず、両腕を交差させた。


 ドゴォォォンッ!


「うぐっ!?」


 巨体が正面から激突した。


 リアは自分の力に自信があった。それも当然だ。

 幼い頃から大人が何人いても動かせないものを持ち上げられたし、今では木の梢より高く跳ぶこともそう難しくはない。

 

 だから、受け止めきれると思ってしまった。

 その思い込みを嘲笑うように、身体があっけなく吹き飛んだ。

 

 踏ん張る暇すらなかった。麦穂を薙ぎ倒し、泥の上を何度も跳ねながら転がってゆく。

 背中を打つたびに肺が空気を吐き出し、胃が強引にせり上がった。


「かはっ……!」


 倒れたリアへ一息に間合いを詰め、前脚を頭上へ振り上げる。

 鎌のような鉤爪が、月明かりに鈍く光った。

 

 身構えるもなく、振り下ろされる。

 

 ギイィンッ!


 肉を裂くはずの一撃を、一本の剣が受け止めた。


「——ぐっ!」


 カイウスだった。

 リアを背に庇い、懸命に押し返す。

 

 だが衝撃が右肩を突き抜けた瞬間、その顔が苦痛に歪んだ。

 右腕から力が抜ける——が、それでも掌を鍔へ当て直すと、肩ごと押し込み、全身で踏ん張った。

 

「っ! カイウスさんから離れて!」


 痺れる脚へ無理やり力を込め、跳ね起きる。

 そのまま駆け込み、巨狼の前脚を下から蹴り上げた。


「ガゥアッ!」


 巨狼は素早く脚を引いた。

 支えを失ったカイウスが大きく傾く。剣を泥へ突き立て、どうにか倒れずに踏み留まった。

 

 右肩を抑える指の下では、マントに血が滲んでいた。

 森で負った傷が、今のたった一度の衝撃で開いたのだ。

 

「カ、カイウスさん、傷が……!」

「問題ない……! それよりアイツから目を離すな!」


 鋭い声に、リアは慌てて顔を引き戻した。

 

 巨狼は追撃してこなかった。低く喉を鳴らし、二人を中心にゆっくりと円を描いている。


(……どうして、来ないの?)


 カイウスは肩で息をしている。右手はもう、剣を握ることすら出来ないだろう。

 今なら簡単に仕留められる。そのはずなのに、巨狼は止めを刺しにこない。

 

 その緋い目が、怯えるリアの顔を捉えた。

 抉れた口元が、ぐにゃり、と不気味に吊り上がる。

 

 ——笑っている。

 そこでリアは、ようやく気づいた。

 

 止めは、敢えて刺さないのだ。

 カイウスを傷付けば、そのたびにリアは怯え、悲しみ、取り乱す。それを少しでも長く、たっぷりと眺められるように。

 

 獲物を傷つけ、弱るまで追い回す。

 怯え、苦しみ、逃げ惑う姿を存分に味わう。

 そうして絶望の底に叩き落として、生を諦め、無抵抗になったところで食い潰す。

 

 それがこの狩人の、流儀なのだ。


「グォオン!」


 銀の巨大が突進してくる。次はお前だ、と言わんばかりに。


 背後では、まだカイウスが俯いている。


(カイウスさんを守らなきゃ!)

 

 リアは拳を構え直す。

 左脚の爪が来た。狙いを定め、その横腹へ渾身の拳を叩き込んだ。


「……えっ?!」

 

 手応えが、軽すぎた。

 巨狼は触れる寸前に力を抜いていた。拳が空振り、勢い余ったリアが前へ流れる。

 

 初撃は、囮だった。本命の右爪が、間髪入れずに襲いかかる。

 

「くっ……!」


 咄嗟に身を捻る。

 直撃だけは免れたものの、右腕が薄く切り裂かれていた。


「……つうっ!」


 熱い痛みが走る。

 巨狼は、幾千の殺しを重ねた歴戦の猛者だ。

 こちらの反応を見て、一手、もう一手先を常に打ってくる。


 動きが読めない。

 いや——読むための経験が、リアでは圧倒的に足りない。


(……ダメだ! わたしじゃ、とても耐えきれない…!)

 

 汗とは違う冷たさが、背中を伝った。


 そのとき。


「——下がれ、リア!」


 理解するより先に、身体が横へ跳んでいた。

 

 直後、カイウスが巨狼の死角へ滑り込む。


 負傷は演技ではなかった。

 実際に右肩の古傷は開き、血も止まっていない。

 しかし同時に。『人以上に狡猾なこの化け物ならば、弱った獲物を前に油断するのではないか』。

 カイウスはそう読んでいた。剣を杖にうずくまりながらも、気配を探り、ひたすら機を待っていた。


 そして。


(——獲った!)


 彼の読みは、正しかった。

 

 左手一本で引き絞った刃に、踏み込みと腰の回転を乗せる。

 必中の距離に入った。間合いも軌道も完璧だ。避けられるはずがない。

 

 狙いは首筋。必殺の横薙ぎが、流麗に走る。

 

 だが刃が届く、その寸前。

 巨狼は避けるどころか、頭を沈めた。

 自ら額を、剣の軌道へ差し込んだのだ。


「なっ——」


 刃が眉間の銀毛を裂き、硬い頭骨へ食い込む。

 鮮血が噴く。しかし、致命傷にはほど遠い。

 

 刃を食い込ませたまま頭を振り、剣を強引に弾き飛ばす。

 カイウスの体勢が開いた。そこへ、前脚が容赦なく突き出される。


 ズドンッ!


「ぐっ、ぉあ……!」 


 何かが折れる、鈍い音がした。


「カイウスさん!!」


 黒い身体が弾け飛ぶ。雨粒を散らし、遥か後方の泥に叩きつけられた。


「……カイウス、さん?」


 返事は、ない。起き上がる気配も、ない。


 ——大丈夫。カイウスさんは、立ってくれる。

 いつものように顔を上げ、「こいつはほんとうに手強そうだな」とか軽口を言うんだ。

 それで、まるで何事も無かったかのように、次に何をするべきかを教えてくれるんだ。

 

 いつだって、そうだった。きっと、この戦いだってそうだ。

 カイウスさんがいれば、大丈夫なんだ。

 

 カイウスさんさえ、居てくれれば。


 ひと呼吸。ふた呼吸。

 その間、動かないカイウスを雨が叩き続ける。


「……カイウス、さん……?」


 今度の声は、自分でも分かるほど震えていた。


 カイウスがいない戦場を、リアはまだ知らない。

 そして今、その全く見知らぬ戦場に、たった一人で立たされようとしていた。

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