1-20. ノルヴィア村のリア①
「グルルオオォォオオン!」
咆哮が腹の底を震わせた。足元の泥まで、びりびりと波打つ。
それが合図だったのだろう。麦畑の狼たちが、一斉に左右へと身を引いた。
黒い群れが二つに割れ、一本の道ができあがる。
その奥で、闇が揺れた。
初めに見えたのは、血のように緋い眼光だった。
次いで、ぬらりと巨大な頭が現れる。
濡れた銀毛。顔の左半分は醜く抉れ、剥き出しになった牙が本能的な恐怖を誘う。
ノルヴィアの巨狼。
森の王が、自らのために開けられた道を悠然と歩いてくる。
刺すような視線が、リアを捉えた。
瞬間、背中の産毛がぶわりと逆立つ。
「リア、大丈夫だ」
すかさず、隣から落ち着いた声が掛けられる。
カイウスが半歩前へ出た。剣の切っ先は巨狼に向けている。
「周りの狼は動く気配がない。群れの主の戦に、手は出さないつもりなんだろう。あいつ一頭に、こっちは二人。数では勝ってる」
ずいぶんと無理のある勘定だった。けれど、自分を安心させようとしてくれているのは分かった。
胸に残る痛みを押し隠すと、リアは小さく頷いた。
「……はい。カイウ——」
言い終える前に、巨狼が消えた。
「——っ!」
気付いたときには、もう目前にいた。
カイウスは反射的に横へ跳ぶ。反応が遅れたリアは逃げきれず、両腕を交差させた。
ドゴォォォンッ!
「うぐっ!?」
巨体が正面から激突した。
リアは自分の力に自信があった。それも当然だ。
幼い頃から大人が何人いても動かせないものを持ち上げられたし、今では木の梢より高く跳ぶこともそう難しくはない。
だから、受け止めきれると思ってしまった。
その思い込みを嘲笑うように、身体があっけなく吹き飛んだ。
踏ん張る暇すらなかった。麦穂を薙ぎ倒し、泥の上を何度も跳ねながら転がってゆく。
背中を打つたびに肺が空気を吐き出し、胃が強引にせり上がった。
「かはっ……!」
倒れたリアへ一息に間合いを詰め、前脚を頭上へ振り上げる。
鎌のような鉤爪が、月明かりに鈍く光った。
身構えるもなく、振り下ろされる。
ギイィンッ!
肉を裂くはずの一撃を、一本の剣が受け止めた。
「——ぐっ!」
カイウスだった。
リアを背に庇い、懸命に押し返す。
だが衝撃が右肩を突き抜けた瞬間、その顔が苦痛に歪んだ。
右腕から力が抜ける——が、それでも掌を鍔へ当て直すと、肩ごと押し込み、全身で踏ん張った。
「っ! カイウスさんから離れて!」
痺れる脚へ無理やり力を込め、跳ね起きる。
そのまま駆け込み、巨狼の前脚を下から蹴り上げた。
「ガゥアッ!」
巨狼は素早く脚を引いた。
支えを失ったカイウスが大きく傾く。剣を泥へ突き立て、どうにか倒れずに踏み留まった。
右肩を抑える指の下では、マントに血が滲んでいた。
森で負った傷が、今のたった一度の衝撃で開いたのだ。
「カ、カイウスさん、傷が……!」
「問題ない……! それよりアイツから目を離すな!」
鋭い声に、リアは慌てて顔を引き戻した。
巨狼は追撃してこなかった。低く喉を鳴らし、二人を中心にゆっくりと円を描いている。
(……どうして、来ないの?)
カイウスは肩で息をしている。右手はもう、剣を握ることすら出来ないだろう。
今なら簡単に仕留められる。そのはずなのに、巨狼は止めを刺しにこない。
その緋い目が、怯えるリアの顔を捉えた。
抉れた口元が、ぐにゃり、と不気味に吊り上がる。
——笑っている。
そこでリアは、ようやく気づいた。
止めは、敢えて刺さないのだ。
カイウスを傷付けば、そのたびにリアは怯え、悲しみ、取り乱す。それを少しでも長く、たっぷりと眺められるように。
獲物を傷つけ、弱るまで追い回す。
怯え、苦しみ、逃げ惑う姿を存分に味わう。
そうして絶望の底に叩き落として、生を諦め、無抵抗になったところで食い潰す。
それがこの狩人の、流儀なのだ。
「グォオン!」
銀の巨大が突進してくる。次はお前だ、と言わんばかりに。
背後では、まだカイウスが俯いている。
(カイウスさんを守らなきゃ!)
リアは拳を構え直す。
左脚の爪が来た。狙いを定め、その横腹へ渾身の拳を叩き込んだ。
「……えっ?!」
手応えが、軽すぎた。
巨狼は触れる寸前に力を抜いていた。拳が空振り、勢い余ったリアが前へ流れる。
初撃は、囮だった。本命の右爪が、間髪入れずに襲いかかる。
「くっ……!」
咄嗟に身を捻る。
直撃だけは免れたものの、右腕が薄く切り裂かれていた。
「……つうっ!」
熱い痛みが走る。
巨狼は、幾千の殺しを重ねた歴戦の猛者だ。
こちらの反応を見て、一手、もう一手先を常に打ってくる。
動きが読めない。
いや——読むための経験が、リアでは圧倒的に足りない。
(……ダメだ! わたしじゃ、とても耐えきれない…!)
汗とは違う冷たさが、背中を伝った。
そのとき。
「——下がれ、リア!」
理解するより先に、身体が横へ跳んでいた。
直後、カイウスが巨狼の死角へ滑り込む。
負傷は演技ではなかった。
実際に右肩の古傷は開き、血も止まっていない。
しかし同時に。『人以上に狡猾なこの化け物ならば、弱った獲物を前に油断するのではないか』。
カイウスはそう読んでいた。剣を杖にうずくまりながらも、気配を探り、ひたすら機を待っていた。
そして。
(——獲った!)
彼の読みは、正しかった。
左手一本で引き絞った刃に、踏み込みと腰の回転を乗せる。
必中の距離に入った。間合いも軌道も完璧だ。避けられるはずがない。
狙いは首筋。必殺の横薙ぎが、流麗に走る。
だが刃が届く、その寸前。
巨狼は避けるどころか、頭を沈めた。
自ら額を、剣の軌道へ差し込んだのだ。
「なっ——」
刃が眉間の銀毛を裂き、硬い頭骨へ食い込む。
鮮血が噴く。しかし、致命傷にはほど遠い。
刃を食い込ませたまま頭を振り、剣を強引に弾き飛ばす。
カイウスの体勢が開いた。そこへ、前脚が容赦なく突き出される。
ズドンッ!
「ぐっ、ぉあ……!」
何かが折れる、鈍い音がした。
「カイウスさん!!」
黒い身体が弾け飛ぶ。雨粒を散らし、遥か後方の泥に叩きつけられた。
「……カイウス、さん?」
返事は、ない。起き上がる気配も、ない。
——大丈夫。カイウスさんは、立ってくれる。
いつものように顔を上げ、「こいつはほんとうに手強そうだな」とか軽口を言うんだ。
それで、まるで何事も無かったかのように、次に何をするべきかを教えてくれるんだ。
いつだって、そうだった。きっと、この戦いだってそうだ。
カイウスさんがいれば、大丈夫なんだ。
カイウスさんさえ、居てくれれば。
ひと呼吸。ふた呼吸。
その間、動かないカイウスを雨が叩き続ける。
「……カイウス、さん……?」
今度の声は、自分でも分かるほど震えていた。
カイウスがいない戦場を、リアはまだ知らない。
そして今、その全く見知らぬ戦場に、たった一人で立たされようとしていた。




