1-19. 開かれる戦端
闇の中、雨は途切れる気配もなく降り続いていた。
二人は北の麦畑へひた走る。リアの息はすでに乱れ、頬を流れるのが雨なのか汗なのか、自分でもよく分からなかった。
「い、急がなきゃ……!」
カイウスは横目でリアを見る。焦りが走り方にまで出ていた。肩は上がり、身体も前へ倒れすぎている。
だからこそ、あえて普段どおりの声を掛けた。
「リア、力みすぎだって」
「え……?」
「前のめりになってる。そのままだと転ぶぞ」
図星だった。リアは気まずそうに眉を寄せる。
「す、すみません。でも、ミラちゃんが……」
「分かってる。だから余計な力を抜くんだ。ここで転んだら、その分だけ遅くなる」
カイウスは前を向いたまま続けた。
「温存した力は、あとで全部使ってもらうからな。よろしく頼むよ」
彼らしい、冗談めいた口調だった。
その意味をリアはすぐに理解した。自分を足手まといではなく、隣に立つ戦力として数えてくれている。
途端、やたら重かった肩から少しだけ力が抜けた。泥を踏む音も、幾分と軽やかになる。
カイウスのたった一言で、こんなにも変わるとは。自分の身体ながら不思議なものだと、リアは少し可笑しく思った。
「……分かりました。脱力、ですね」
「抜きすぎも困るけどな」
カイウスの言うとおりにすれば、きっと大丈夫。
根拠はない。でも、これまでもそうだった。彼の言葉なら、心から信じられた。
やがて村門を抜け、二人の前に麦畑が広がった。雨に打たれる穂が激しく揺れている。
ミラの姿は見えない。カイウスは大きく息を吸った。
「——ミラ! いるのか!? いたら返事をしてくれ!」
声が雨音を突き抜け、麦畑を渡っていく。
返事はない。聞こえるのは雨の音だけ。
「ミラ! いないのか?!」
「……こ……だよ……」
今度は聞こえた。
消え入りそうな小さな声に、リアが耳を澄ませる。
「いた……!」
麦の海から、小さな手が上がっている。穂の間に蹲り、身を隠しているのだ。
リアが息を呑んだときには、カイウスはすでに駆け出していた。
「リア、俺が先に行く! 無理はするなよ!」
「はい!」
返事を聞くと同時に、カイウスは剣を抜いた。
鞘走る音を残し、黒い外套が麦畑へ飛び込んでいく。
——多い。
ミラまでの距離は、そう遠くない。
だが、麦の海には、既にいくつもの気配が這い回っていた。息を潜め、獲物を探る殺意が、四方からカイウスを窺っている。
それでも、カイウスは走り続ける。
穂をかき分けているはずなのに、その足運びは驚くほど音がない。
足を止めず背の鞘を引き抜くと、そのまま麦を薙ぐように前方へと投げ放つ。
「グルァアッ!」
鞘が立てた音に食いつき、ニ頭の狼が飛び出した。
カイウスは投げた鞘へ追いつくと、狼の軌道へ刃を置くように振り抜く。
——ザシュッ! ザシュッ!
「ギャインッ!」「グルァア!ッ!」
勢いそのまま、二つの胴が裂ける。血飛沫が雨に混じり、穂を赤く濡らした。
カイウスは、なおも足を緩めない。
瞬間、右手の麦が揺れた。
三頭目だ。不意打ちのつもりか、鳴き声はなかった。
カイウスは上体だけを逸らしかわすと、すれ違いざま、逆手に握った柄を喉元へ叩き込む。
——ゴッ!
「ガァッ……!」
狼が横向きに弾かれ、麦の中へ転がった。
カイウスは、さらに進み——ある地点で、ぴたりと足を止めた。
剣を身体の前へ立てる。一歩でも踏み込めば斬る。そう告げるように、静かに間合いを張る。
「お、お兄さん……! 昼間の旅の人……!」
背後からミラの声がした。
しかしカイウスは振り返らない。ミラの位置は、すでに頭に入っている。
「やあ、ミラ。また会ったね。こんなところで歌の練習でもしてたのか?」
軽く答えながら、躍り出た四頭目の喉へ剣先を突き込む。断末魔が、雨に溶けていった。
「う、うわぁぁ……!」
ミラが悲鳴を上げる。血生臭い光景には慣れていないのだろう。
「今から村へ戻るぞ。怖いだろうけど、少しだけ目を閉じてくれるか?」
「め、目を……?」
「ああ。あとは俺が連れていくよ」
ミラは何度も頷き、ぎゅっと目を閉じた。
カイウスは剣を握ったまま、空いた腕でその身体を抱き上げる。震えるミラが、すぐさま首元へしがみついてきた。
周囲には、まだ何頭もの気配が潜んでいる。
だが、襲いかかってはこない。
赤い目が麦の隙間を移動し、こちらの間合いを測っている。じわじわと包囲を狭めながらも、村門へ続く方角だけは不自然なほど薄い。
わざと逃げ道を残しているようにさえ思える。
「……嫌な感じだな」
この狼群は、飢えに任せて襲うだけの獣ではない。互いに連携し、獲物を狙った場所へ追い込む狡猾さがある。
だからこそ、狼たちが攻めあぐねているようにはどうしても思えなかった。
むしろ——何かが来るのを、待っているような。
「カイウスさん!」
雨を切る声とともに、リアが駆け込んできた。
「ガルルッ!」
ほぼ同時に、カイウスの死角で麦が弾けた。
ミラを抱く腕の側。剣を返しても、わずかに間に合わない。カイウスが振り向く——よりも早く、リアが飛び出していた。
「させませんっ!」
低く身を沈め、狼の懐へ滑り込む。
脚から腰へ、腰から肩へ。そのすべての力を拳へ通し、跳びかかる狼の下顎へ叩き込んだ。
——ドバァァァンッ!
「ギャオォッ!?」
轟音とともに、狼の身体が高く跳ね上がった。
雨粒を撒き散らしながら大きく弧を描き、数瞬遅れて泥の中へ叩きつけられる。その身体が再び動くことはなかった。
リアはすぐさま周囲を見回した。
他に狼が飛び出してこないことを確かめると、カイウスに抱かれたミラへ向き直る。
「もう大丈夫です! ほらミラちゃん、早くこっちへ! お姉ちゃんと村に帰ろう!」
怖がらせないよう、できる限り優しい声を出す。ぎこちないが笑顔も忘れない。
しかし、返ってきたのは安堵ではなかった。
「お、おねえちゃん、誰なの? ……っ?!」
ミラが震える指を上げた。
その表情が、たちまち恐怖に染まってゆく。
「赤い……髪?」
「あっ……」
走っているうちにフードが脱げ、赤い髪が剥き出しになっていた。
「あ、あかいけものだ! ほんとうにいたんだ!!」
雨の夜に突如現れ、人とは思えない力で狼を殴り飛ばした大女。その姿は、童歌に出てくる怪物そのものだった。
「い、いやぁっ! こ、来ないで!」
「ち、違うの! お姉ちゃんは、ミラちゃんを助けに来たんだよ!?」
「うそだ! わたしをさらいに来たんだ!」
リアの笑顔が、ぐしゃりと歪む。
助けたかった。一人きりで怖かったはずだ。だから早く、安心させてあげたかったのに。
ただ、それだけだったのに。
「おかあさん……おかあさん……!」
ミラはカイウスの首へしがみつき、顔を伏せて泣いている。
自分が一歩近づくだけで、泣き声はさらに大きくなった。
リアは伸ばしかけた手を胸元へ引き戻すと、そのまま俯いてしまう。
「……ごめん、なさい」
ついには、誰に向けたのかも分からない謝罪を漏らし、その場に立ち尽くしてしまう。
カイウスは何も言わず、リアを見つめていた。剣を構えて狼を牽制するのも忘れない。
「……リア。ひとまず村門まで戻ろう。左は俺が見るから、リアは右を頼めるか?」
赤い髪に隠れ、リアの表情は見えない。
その頭がこくりと縦へ動く。やがて右手の麦畑へ身体を向けた。
カイウスは泣きじゃくるミラを抱いたまま、少しずつ村門へと後退する。
「——いたぞ! こっちだ、急げ!」
背後から声が届いた。
横目で見れば、村門の前にいくつもの松明が集まっている。
カイウスは背後に向けて声を張る。
「ミラは確保した! だが、もう群れの中にいる! まずはこの子を村へ戻したい! 誰か、迎えに来られないか!」
「俺たちが行く!」
三人の農夫が、松明を掲げて駆けてきた。
顔は恐怖で強張っている。それでも誰一人、足は止めなかった。
突然増えた火と人の気配に、周囲の殺意がわずかに後ずさった。
「助かった! ミラは俺が連れ帰るよ!」
先頭の農夫が、カイウスからミラを受け取った。
残る二人が鍬と斧を構え、周囲を警戒する。その腕は可哀想なほどぶるぶると震えていた。
「……無理をするな。ミラを迎えに来てくれただけで十分だ。ここは俺たちに任せて、お前らは村門を守ってくれ」
「す、すまねえ、傭兵さん……。気をつけてくれ……!」
「言われるまでもない」
カイウスは短く返し、剣を構え直す。
「カイウス殿!」
そのとき、オルドの声が雨を縫って届いた。
農夫たちの後を追ってきたのだろう。息を切らし、泥へ片膝をつきながらも、必死に言葉を絞り出す。
「……カイウス殿! どうか、昼の非礼を詫びさせてほしい! そして、あれほど罵った我々のために、こうしてもう一度剣を取ってくださっている。そのことにも、心から礼を——」
「今はいい。後にしてくれ」
ぴしゃりと返す。
カイウスは蠢く気配から目を離さない。
「俺は、この村のためだけに戦ってるわけじゃない。返さなきゃならない恩がある。どうしても解いてやりたい蟠りがある。ただ、それだけだ」
その視線が一瞬だけ、リアへ向く。オルドもつられるように振り向いた。
雨の中、赤髪の少女が一人きりで立っていた。
カイウスからすらも離れ、大きな身体を縮めるように肩を落としていた。
オルドの顔が、わずかに歪む。
赤獣は、ノルヴィアに災いをもたらす招かれざる存在。六年前からそう信じてきたし、今もそれが間違っているとは思っていない。
だが、自分たちが抱き続けてきた恐怖と憎しみは、何も知らないミラにまで受け継がれていた。このままではリアは、次の世代からも「赤獣」として拒まれ続ける。
オルドは今になって初めて、自分たちが村に根付かせたものの重さを目の当たりにしていた。
「オルド殿。あんたも戻った方がいい。村門の守りを頼む」
カイウスの声に、オルドははっと我に返る。
「……分かった。カイウス殿、どうか無事で」
オルドはそれだけ告げ、踵を返した。ミラを抱いた農夫たちとともに、村門へ向かって走り出す。
狼は一頭も襲いかからない。まるで彼らを帰すことが、初めから決まっていたかのように。
やがて松明の明かりが、村門の向こうへ消えていった。
その直後だった。
ざわり、と麦の海が揺れる。
村へ続く道へ、黒い影が次々と滑り込んでいた。たった今まで開いていた退路が、瞬く間に塞がれる。
カイウスは背後を一瞥すると、小さく息を吐く。
「……やっぱり、そういうことか」
俯いたままのリアに背中を預けると、ゆっくりと剣を構えた。




