1-18. 赤を追う者たち
夜の静けさがエルンの家を満たしていた。
湿気を吸った木壁は冷たく、外では細い雨が屋根を叩いている。風に煽られた雨垂れが、時折り軒先でぽつりと跳ねた。
「……なんだか、落ち着かない夜ですね」
リアの呟きが雨音に溶けた、その直後。
——ゴォォン!
腹の底まで響く金属音が、家ごと二人を揺さぶった。
「っ! こ、この音……!」
リアが顔を上げる。カイウスも暖炉から目を離し、耳を澄ませた。
——ゴォォン! ゴォォン!
間を置かず、今度は二度。長く切迫した鐘声が、夜気を震わせる。
それが何を意味するのか、リアはよく知っていた。
「……こ、これ……襲撃を知らせる警鐘です……!」
カイウスは迷わず立ち上がり、壁に立て掛けていた剣を背負う。
「……北だな。調査任務はもう終わってる。散々言われた後だ、助ける義理もないんだけどな」
言いながらも剣帯を締め直す手は止まらない。
「けど、人が死ぬと分かってて黙ってもいられない。まずは広場へ向かう」
戸口へ踏み出しかけ、リアを振り返った。
「……一緒に来るよな?」
リアの口が、開きかけたまま止まった。
自分もまさに、そう言おうとしていた。
一緒に行くことを、初めから疑っていない言葉。リアにとっては、それが何よりも嬉しかった。
「……もちろんです。行きましょう、カイウスさん!」
村へ来てから縮こまりがちだった背が、すっと伸びる。
二人は戸口を開け、雨の中へ駆け出した。
雨脚は少しずつ強まっていた。
足元はすっかり泥濘に変わっていたが、カイウスの足取りに揺らぎはない。リアも長い脚の運びをわずかに抑え、その隣を危なげなく走る。
通り過ぎた家々では、住民たちが戸口から不安げに顔を覗かせていた。何が起きたのかと問い合い、鐘の鳴る方角へ目を凝らしている。
だが、進むにつれて人の流れが変わった。
泣く子を抱いた母親。老人に肩を貸す若者。東に流れる人々が、二人の正面から押し寄せてくる。
「襲撃だ! 北西の森から来るぞ!」
「子どもを連れて、トリィヤ様の元へ逃げろ!」
その声を聞くなり、事情が分からず戸口に立っていた者たちも顔色を変え、避難の流れへ加わっていった。
カイウスとリアは迫る人波の間を縫い、流れに逆らって先を急いだ。
やがて広場へ辿り着く。
次の瞬間、松明の光と喧騒が押し寄せた。
鍬や斧を握る男たち。泣き叫ぶ子どもの手を引き、避難を急ぐ女たち。
怒号と足音と雨音がぶつかり合い、夜の広場を呑み込んでいる。
その中心で、一人の青年が声を張り上げていた。
「北西の森から狼の群れが来ている! 数は三十以上! 群れの後ろには、異様にでかい狼もいる! 戦える者は何でもいい、武器になるものを持って北西の外れへ向かってくれ! それ以外の者は、祈りの大樹へ避難するんだ!」
リアが息を呑んだ。
「……あの狼だ……」
濡れた前髪の下で、赤い瞳が揺れる。
拳が覚えていた。あの日、カイウスを庇って打ち抜いた醜悪な顔。獲物をいたぶり、殺すことを心から愉しむような目。
「きっと、わたしを追ってきたんだ……。復讐するために……!」
「ああ。相当な執念だ。ほんと、厄介な奴だな」
カイウスが短く答える。その視線はリアと同じ北西へ向いていた。
そのとき、混乱を切り裂くように鋭い悲鳴が上がった。
「誰か、手を貸してちょうだい! ミラが……あの子が、どこにもいないの!」
声の主は、小柄な女だった。
人混みを必死にかき分け、手当たり次第に袖を掴んでは、その顔を覗き込む。首を振られるや否や手を離し、また次の者へと縋りつく。
外套すら羽織っていない。全身ずぶ濡れだ。それでも構う様子もなく、泣き腫らした目で狂ったように周囲を掃く。
「誰か、ミラを見なかった!? お願い、誰か……! あの子に何かあったら、私は……!」
「お、落ち着いてくれ。家にはいないのか?」
「いないの! さっきまではいたのに、夕食を作ってる間にいなくなったのよ……!」
「ミ、ミラなら、昼間は広場で遊んでいたぞ」
「それは私も見た。でも、その後は……」
「わ、私、知ってるかも……!」
避難する母親に手を引かれていた少女が、怯えた声を上げた。
「ミラちゃん、月が出たら北の麦畑を見に行きたいって……。まだ刈ってない麦が風に揺れるところ、豊穣祭の前しか見られないからって、私を誘ってくれたの」
「そ、それでお前も一緒に行ったのか?」
「行ってない! 雨が降りそうだから駄目だって、お母さんに言われて……。で、でもミラちゃんは、多分……!」
少女の声はそこで途切れる。
その先は、もう聞く必要もなかった。
北西から迫る、狼の群れ。
その進路上に広がる、刈り入れ前の麦畑。
そして、そこにいるはずのミラ。
広場の喧騒が、潮が引くように遠のいた。
目を伏せる者。顔を背ける者。何かを言いかけ、唇を閉ざす者。
助けに行かなくてはならない。誰もがそう思っていた。
だが三十を超える狼群を思い浮かべた途端、恐怖が足に絡みつく。
「お願いします! ミラを……私の娘を助けてください!」
母親が雨の中で声を振り絞った。
「誰か……お願い……! あの子を一人にしないで……! お願いします……!」
それでも、誰も動かない。
母親の悲鳴だけが、冷たい雨に打たれていた。
リアの胸を、冷気が貫いた。頬を打つ雨粒が、六年前の嵐と重なる。
あの夜は、今より雨が強かった。泥に足を取られ、何度も転び、それでも立ち上がった。
けれど、間に合わなかった。
この腕の中で、アベルは温もりを失っていった。いくら手を握っても、何度も呼びかけても、二度と握り返してはくれなかった。
『力ある者は、人のためにその力を使う義務がある』
アベルの声が、あの日のままに胸の中で響く。
あの晩は、守れなかった。でも、今は違う。
目の前に、まだ間に合うかもしれない命がある。
「……今度こそ、助けなきゃ」
リアの足が前へ出た。
凍りついた人垣を割るように進む。俯いていた男が顔を上げ、フードの隙間にある赤い髪に気づいた。
「……お、おい。こいつ、赤獣だぞ!」
その声に、周囲の視線が一斉にリアへ突き刺さる。
「な、なんで戻ってきたんだ!?」
「狼どもを村へ引き連れてきたのも、お前じゃないのか!?」
「やっぱり災いを呼ぶ化け物だったんだ!」
「あっ……」
敵意に、リアの足が止まった。
喉がぎゅっと塞がる。上手く呼吸ができない。視界もぐわりと揺れ、足元の泥にどこまでも飲み込まれる気がした。
——怖い。逃げたい。
身体が悲鳴を上げる。膝は震え、踵が意思に反して後ろへ滑った。
それでも、なんとか踏み留まった。
爪が食い込むほど拳を握り、奮い立たせるように両脚へ力を込める。
(怖がっている場合じゃない……! ミ、ミラちゃんを、助けなきゃ……!)
それでも罵声は止まない。
耐えきれず、背中が小さく丸まってゆく。
そのときだった。
「……毎度毎度。束になって、よくやるな」
聞き慣れた声が耳へ届いた。
それだけで、全身を支配していた震えが嘘のように引いてゆく。
カイウスだった。彼は静かにリアの隣に並び立つ。
濡れた外套をはためかせ、村人たちを真っ直ぐに見つめていた。
「事実だけ言うぞ。お前たちは知らないだろうが、ここへ向かってる巨狼はもともと北西の森にいた。村まで下りてくる危険は、最初からあったんだ」
「そいつを一度退けたのはリアだ。最初は村へ戻ることさえ怖がってた。それでも危険を知らせるために、自分の意志で戻ってきた。お前たちを襲うためじゃない」
村人たちが口を閉ざす。
「六年前のことも全て聞いたよ。大きな誤解があるんだ。それでもリアは、弁明もせず、まだこの村のために動こうとしているんだぞ」
カイウスは声を荒らげなかった。しかし、そこに押し殺した怒りを感じれないほど、広場の者たちも鈍くはない。
「さっき、誰か一人でも前に出たか? 狼の群れと聞いて、足がすくんでたんじゃないのか?」
灰色の視線が、一人ひとりの顔を射抜いていく。
「責めるつもりはないんだ。命が惜しいのは誰だって同じだ。だが、自分たちが動けないからって、動こうとしている者の足まで引っ張るな。お前たちがリアを何と呼ぼうが、彼女が今、何をしようとているかまで見失うなよ」
村人を見据えたまま、カイウスは問いかけた。
「……リア、教えてくれ。君はいま、何がしたい?」
リアは驚いて彼を見た。その横顔に、疑いは微塵もない。
リアは、ミラの母親をそっと見た。
震える肩に、泣き腫らした目。泥濘に膝をつき、両の手を祈るように、力の限り握りしめている。
「……道を、開けてください」
言葉が口を突いて出た。覚悟は遅れて追いついた。
「わたしは、ミラちゃんを助けに行きます。怖がられても、責められても構いません。そんなことより、ミラちゃんが無事に帰ってくる方が、わたしにはずっと大事だから」
まっすぐな、飾らない言葉だった。
その答えを待っていたとばかりに、カイウスも小さく口角を上げる。
人垣を、重い沈黙が包んだ。
一番強く怒鳴っていた男が、握っていた拳を解く。隣の者と目が合うと、気不味そうに視線を逸らす。
やがて男は、逃げるように俯いた。
「……悪かった」
男が泥を踏み、脇へ退く。それに続き、一人、また一人と人々が身を引いた。
人垣が二つに割れ、北へ延びる泥の道が現れる。
リアがぱっと振り返る。カイウスも小さく頷き返した。
「お願い……お願いします!」
ミラの母親が、遂にリアの腕に縋りつく。
「どうか、ミラを助けてください! 大事な一人娘なんです! 助けてくださったら、何でも差し上げます! だから、どうか……あの子を……!」
声は掠れ、喉が潰れかけていた。それでも必死に懇願する。
リアは膝を折ると、その手へそっと自分の手を重ねた。雨に冷えた指先を温めるように包んでやる。
「……大丈夫ですよ、お母さん」
母親が顔を上げた。リアはその目を見つめ返す。
「ミラちゃんには、帰りを待ってくれている人がいるんです。こんなに温かい家があるんです。だから、わたしが必ず連れて帰ります。だから——」
不安に染まった顔と、震える肩。
誰かの帰りを信じて待つ姿が、六年前の自分と重なった。
「——お母さんは、暖炉に火を焚べて、お湯を沸かして待っていてあげてください。ミラちゃんが帰ってきたとき、すぐに温まれるように」
安心させるように微笑んだ。
「そして、ミラちゃんが帰ってきたら……おかえりなさいって、優しく抱きしめてあげてください。ミラちゃんも、そうして欲しいと思うから」
母親の顔が、ぐしゃりと崩れた。押し殺していた嗚咽が漏れはじめる。
「……ありがとう、ございます……! ありがとう……!」
母親の手から力が抜けてゆく。リアは立ち上がると、カイウスの隣へ並び立つ。
目が合うと、二人は頷き合った。そして開かれた道を、同時に駆け出した。
***
その背中を、鍬を握った若い農夫が見つめていた。
『助けなければ』。頭ではそう分かっていた。
ミラは大事な村の仲間だ。誰にでも人懐っこい、向日葵のような未来ある少女。見捨てられるはずがない。
それでも身体は動かなかった。
鍬を握る掌には情けなく汗が滲み、一歩を踏み出す勇気はどこにも見当たらない。
——死ぬかもしれない。
そう思うだけで怖かった。
本音を言えば、今すぐ鍬を捨て、自分も大樹の丘へ逃げる人波へ加わりたい。
けれど、雨の向こうで揺れる赤い髪から、どうしても目を逸らせなかった。
農夫の知るリアは、ひどい泣き虫だった。
幼い頃は、エルンを交えてよく遊んだ。けれどリアはいつもおどおどしていて、何かあるたびにエルンの背へ隠れてしまう。そんな臆病な女の子だった。
そんなリアが、逃げなかった。
村中から憎まれても必死に踏み留まり、自分たちが見捨てようとしたミラのために、誰よりも先に走り出しのだ。
(……俺は、どうするんだよ)
気づけば、足が一歩だけ前へ出ていた。
その動きに気づき、隣の男が彼を見た。目が合う。互いの顔に浮かんでいたのは、同じ恐怖——そして、同じ問いだった。
「……おい。俺たちも行くぞ」
「なっ……おまえ、正気か! 化け物が相手なんだぞ! 死ぬかもしれないんだぞ!?」
「分かってるよ。俺だって怖いさ。でも……村を追い出されたリアが行くのに、俺たちがここで震えてるだけでいいのかよ。それに」
若い農夫は、震える手で鍬を握り直す。
「赤獣だろうが何だろうが、それ以前にリアもノルヴィアで一緒に育った仲間だろ。全部アイツに背負わせていいのか?!」
「……っ」
隣の男が顔を歪めた。奥歯を鳴らし、手にした斧を担ぎ直す。
「……分かったよ。行くしかねえだろ!」
その声が、さらに隣の男を振り向かせた。
「お、おい! 俺も行くぞ!」
「松明が足らねぇ、誰か追加でもってこい!」
「武器も頼む! 使えそうなもの、全部かき集めてくれ! 俺たちは先に行ってるぞ!」
一人の決意が隣へ渡り、そのまた隣の誰かを突き動かす。
怖くない者など、一人もいない。
それでも、小さくなる赤い背中を追うように、若者たちは次々と泥を蹴りはじめた。




