1-17. 闇を裂く復讐
細い雨が、音もなく森を濡らしていた。初秋の葉を伝う雫が腐葉土へ落ち、湿った土の匂いが立ち込めている。
その暗がりに、それは身を潜めていた。
——ノルヴィアの巨狼。
数多の命を屠ってきた、この森の王。
刃のように逆立つ鬣と、並の獣を遥かに凌ぐ巨躯。その顔の左側には、肉を抉られたような傷が刻まれている。
ふと、雨を運ぶ風にかすかな匂いが混じった。
巨狼の鼻が、ひくりと動く。
忘れようにも忘れられない。
炎のような赤毛と、この巨体をただ一撃で地へ沈めた恐るべき力。
脆弱な人の匂いを纏いながら、その内に得体の知れぬ何かを潜ませていた。
思い出しただけで、頬の傷がじくりと疼く。
あの日から獲物の肉へ牙を立てるたび激痛が走る。満足に食らうこともできない飢えが、屈辱と憎悪を腹の底で育て続けていた。
その憎しみ抜いた匂いが今、確かに風上から流れてきている。
巨狼はゆっくりと身を起こした。
麦畑の青い匂い——違う。
家々から昇る夕餉の煙——これも、違う。
そのすべてを掻き分けた先に隠れる——忌まわしき、赤毛。
——ミィツケタァァア。
裂けた口元が、醜く吊り上がった。
背後の藪で、無数の気配が動く。
灰、黒、斑。毛色の異なる狼たちが、一頭、また一頭と暗がりから姿を現した。
飢えた眼が巨狼を窺い、その低い唸りに従って集まってくる。
巨狼は振り返りもせず、丸太のような前脚を地へ叩きつけた。
「グルルオオオオオアァァア!!」
咆哮が、雨に沈む森を震わせた。呼応するように無数の遠吠えが重なる。
次の瞬間、狼たちが一斉に村へ向かって駆け出した。巨狼もまた、群れを追い立てるように泥を蹴る。
奪われた誇りを、あの赤毛の血で取り戻すために。
復讐の牙がいま、夜を裂いて走り出した。
***
最初に異変を捉えたのは、北の見張り台に立つ青年だった。
「……なんだ、あれ?」
北西の森が揺れている。風に煽られているのではない。
青年は手摺りを掴み、目を凝らす。
その時、雲の切れ間から月が覗いた。淡い光が森の入り口を照らした瞬間、喉の奥が凍りついた。
黒い影が、幾重にも蠢いている。
狼だ。
一頭や二頭ではない。数え切れないほどの群れが、濁流のように木々の間を縫い走っている。
そのさらに後方で、ひときわ巨大な影が走る。地を蹴るたび、低い地響きが見張り台まで伝わってくるようだった。
「……狼の、群れだ……」
声が震えた。逃げろと身体が訴え、足が一歩後ろへ下がる。
だが、眼下には村がある。何も知らず眠りにつこうとしている家族や仲間たちがいる。
青年は震える手で警鐘の綱を掴んだ。
指に力が入らず、一度は滑り落ちる。それでも両手で掴み直すと、全体重をかけて引き下ろした。
ゴォォン!
金属の叫びが、夜の村を揺るがした。
家々の扉が次々と開き、暗い通りに灯りが滲む。何事かと飛び出してきた村人たちが見張り台を仰ぐなか、青年は息を吸い込んだ。
「狼の群れだ! 北西の森から、こっちへ向かってる!」
声が裏返る。それでも必死に叫び続けた。
「十や二十じゃない! もっとだ! 数え切れないほどいる!」
騒ぎを聞きつけ、オルドも駆けつけた。
「襲撃の鐘を鳴らせ! 二度、長く鳴らすのだ!」
鋭い命令に、青年は綱を握り直す。
ゴォォン、ゴォォン!
二度の鐘声に、村の空気が一変した。
戸惑いと恐怖で乱れかけた人々へ、オルドは声を張り上げる。
「狼どもは北西から来る! 女、子ども、年寄りは東の祈りの大樹の麓へすぐに避難しろ! 動ける者は周囲の家を回り、逃げ遅れた者がいないか確かめるのだ!」
続けて、集まった若者たちを振り返る。
「戦える者は武器庫へ向かえ! 農具でも棒でも構わん! 手にした者から広場へ集まれ!」
命令が飛び交い、村人たちが動き始める。
泣き出した子を抱き上げる者。家へ駆け戻り、家族の名を叫ぶ者。転びかけた老人へ肩を貸す者。松明を他の者へ配る者。
恐怖は誰の顔にもあった。それでも、自分より大切な誰かを守るため、人々は懸命に足を動かしていた。
「そ、村長!」
見張り台の青年が、手摺りから身を乗り出す。
「群れの後ろに、一頭の巨大な狼が控えています! 途轍もなくデカい……あんな化け物、おれ、見たことがない!!」
「……巨狼か」
オルドの顔が強張った。昼間、カイウスが告げた言葉が蘇る。
『食料を求めて村まで下りてくる可能性もある。この村に来られでもしたら、ひとたまりもないでしょう』
あの報告は正しかった。カイウスは命懸けで森を調べ、迫る脅威を知らせに戻ってきた。
それを自分たちは感謝するどころか、罵声を浴びせて追い払ったのだ。
オルドの奥歯がぎしりと軋む。
数え切れない狼と、村人の手には負えぬ巨獣。
脳裏には、屋敷を去っていく傭兵の背中が浮かぶ。
(……カイウス殿さえ、いてくれれば)
少なくとも今よりは抗う術があったはずだ。
だが浮かんだ願いを、すぐさま噛み潰した。
いまさら何を願う。他でもない、自分たちが彼をこの村から追い出したのだ。
それに、後悔に足を止めている暇など、今はない。
オルドは震える息を吐き切った。
「聞け! 皆の者!」
雨音にも鐘声にも負けぬよう、腹の底から声を張る。
「座して死を待つな! 麦畑も、家族も、この村も! 我らの手で守るのだ! 邪悪な狼たちに、トリィヤ様の土地を荒らさせるな!」
怯えた顔が、次々とオルドへ向けられる。呼応する声は、決して力強くはなかった。
雨脚が、次第に強くなっていく。曇天の奥では低い雷鳴が転がりはじめた。
六年前のあの夜と同じように。再び、嵐がノルヴィアへ迫っていた。




