1-16.「ありがとう」
リアが語り終えた。
ぱちり、と薪だけが小さく爆ぜる。誰も言葉を発しない。静まり返った部屋には、リアの浅い呼吸だけが残る。
最初に沈黙を破ったのは、エルンだった。
「……そうだったんだ」
震える声だった。膝の上で組んだ指に力を込めながら、それでも目だけはリアから逸らさない。
「六年前のあの朝、戸を開けたら置いてあったんだ。布で栓をした、小さな陶瓶が。中には……セリアの薬湯が入ってた」
リアが、こくりと頷いた。
「あれを飲んで、母さんは助かった。でも、誰が届けてくれたのかは、ずっと分からなかった。母さんを心配した誰かが置いてくれたんだろうって……それ以上、考えようともしなかった」
声を絞り出すたび、エルンの顔がくしゃりと崩れていく。
「それが……まさか、リアだったなんて……!」
とうとう耐えきれず、唇を噛んだ。
「アベルさんを亡くして、村まで追われたのに……それでも、俺と母さんのために……!」
その隣で、エレノアが両手で口元を覆った。細い肩が震え、指の隙間から掠れた声が漏れる。
「私の……せいだったのね」
リアの背が、ぴくりと強張った。
「あの晩、私が病にかかっていなければ……アベルさんは、あんな嵐の中へ行かずに済んだのに……! リアちゃんだって、こんなに苦しまずに——」
「ち、違います!」
弾かれたように顔を上げる。
「おじいちゃんは、自分で決めたんです! エレノアさんを助けたいって、自分でそう思ったから……セリアの葉を採りに行ったんです!」
膝の上で拳を握り締める。
六年間、口にできなかった想いを守るように、声を張った。
「だから、エレノアさんのせいでも、エルちゃんのせいでもない! 誰のせいでもないんです!」
「でも、リアちゃん……!」
「もし! もし今、おじいちゃんがここにいたら!」
込み上げる涙に声を詰まらせながら、それでも言葉を継ぐ。
「エレノアさんが元気に生きてるって知ったら、きっとすっごく喜びます! 『大事にならなくてよかった』って、そう笑ってくれます!」
エレノアは目を閉じた。頬を伝った涙が、握り締めた手へぽたりと落ちる。
「……ありがとう」
リアが、ぱちりと瞬く。
「ありがとうねぇ……リアちゃん……!」
エレノアは涙に濡れた顔を上げ、真っ直ぐにリアを見つめた。
「あなたとアベルさんは、私たち親子の命の恩人よ。本当に……ありがとう……!」
「……あ」
その一言が胸へ届いた瞬間、リアは息を詰めた。
六年前の朝。誰にも見つからないよう、戸口へ置いた小さな陶瓶。
別れも告げられないまま村を去り、たった一人で守り続けてきた祖父の想い。
——ありがとう。
あの陶瓶がいま、六年の歳月を越え、ようやく受け取られた。
「あ……あぁあ……っ」
胸の奥で凍りついていたものが、音もなく溶けていく。堪えようとする間もなく、熱い涙が次々と頬を伝った。
「わ、わたし……いま、やっと分かった気がします……!」
喉を震わせながら、それでもリアは笑おうとした。
「ずっと、知りたかったんです。あの夜、わたしが選んだことは、間違いじゃなかったのか。おじいちゃんの想いを、ちゃんと守れたのか……ずっと、ずっとずっと、分からなくて……!」
手の甲で涙を拭う。けれど拭ったそばから、また新しい雫が溢れた。
「でも……『ありがとう』って言ってもらえて、やっと分かりました」
濡れた赤い瞳が、エレノアを映す。
「わたしが守りたかったものは、ちゃんと届いてたんだって……!」
「リア……っ」
エルンは俯き、拳で乱暴に目元を拭った。
「ありがとう、リア……! 母さんを助けてくれて……それから、ごめん! 何も知らないまま、六年も一人で背負わせて……っ」
言葉が嗚咽に崩れていく。
「本当に……っ、ごめん……ごめんなぁ、リアぁ……!」
「……もう。だから、エルちゃんのせいじゃないよぅ」
リアもしゃくり上げながら、泣き笑いを浮かべる。エルンの傍らへ寄ると、固く握られた拳を両手で包み込んだ。
触れた手は温かかった。その温もりに促されるように、エルンの指からゆっくりと力が抜けていく。
エレノアも二人へ身を寄せた。悲しみも、後悔も、感謝も、もう隠す必要はない。
三人は寄り添い、ついに声を上げて泣き始める。
少し離れた場所で、カイウスは静かにその光景を見つめていた。
幾つもの戦場を渡り歩き、人が人を憎み、奪い合う姿を嫌というほど見てきた。
だからこそ、誰かの痛みを自分のものとして泣ける三人の姿は、眩しいほど遠く感じられた。
だが——自分には縁遠いからこそ、紛れもない本物なのだとも思えた。
「……よかったな、リア」
小さな呟きは、三人には届かなかった。それでいい、とカイウスは思った。
***
ひとしきり泣いたあと、エレノアは赤くなった目元を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「もう、すっかり夕飯の時間ね。何か温かいものを作るわ」
「……俺も手伝うよ、母さん」
エルンも鼻をすすりながら席を立ち、母のあとを追って台所へ入った。
やがて、水を汲む音がする。
続いて、包丁がまな板を叩く小気味よい音。鍋の蓋が鳴り、煮込まれた野菜と香草の匂いが、少しずつ部屋を満たしていく。
食卓には、カイウスとリアだけが残されていた。
リアはまだ身を丸めている。ただ肩からはすっかり力が抜けていた。泣き腫らした頬も、ほんのり赤らんでいる。
隣でカイウスが大きく伸びをし、凝り固まった肩を回した。
「今日は色々ありすぎたな。さすがに疲れた」
「……はい。わたし、たくさん泣いちゃいました」
そう言うと、恥ずかしそうに目を伏せる。
「お祖父さん、立派な人だったんだな。一度でいいから、会ってみたかったよ」
リアは少し考え、やがてはにかむように笑った。
「たぶん、おじいちゃんもカイウスさんを気に入ってたと思います。誰かのために頑張れるところとか、少し似てますから」
「そっか。リアにすごく懐かれてるところとかも、似てるしな」
「そうですね。……?」
素直に頷いてから、数拍遅れて目を見開く。
「あぁっ!? ち、違います! わたし、別に懐いてなんか……!」
「え。違うのか?」
「残念そうな顔するの、ずるいです!」
カイウスが片頬を上げる。
からかわれたと気づいたリアは、頬を膨らませてそっぽを向いた。
「……もう。からかわないでください」
「悪い悪い。でも、リアのそういう裏表のないところも、お祖父さん譲りなのかもな」
リアは顔を背けたままだったが、口元だけは隠しきれずに緩んでいた。
大好きな祖父に似ている。その言葉が、胸の内でくすぐったく弾んでいるのだろう。
「……わたし、ずっと、おじいちゃんみたいな人になりたいって思ってたんです」
しばらくして、ぽつりと語り始めた。
「でも、全然自信がありませんでした。わたしがしたことは間違いだったのかなって……そう思うことも、たくさんあって」
「でも、間違いじゃなかった」
返事はすぐに返ってきた。
リアが顔を上げる。カイウスは炉へ手をかざしたまま、穏やかな目で炎を見つめていた。
「リアがどれだけ迷って、傷ついて……それでも一人で歩いてきたのか。今日、俺たち三人はそれを知った。皆が泣いたのは、リアの想いがちゃんと伝わったからだよ」
リアは何度か目を瞬いた。
やがて照れを隠すように俯き、膝の上で指をもじもじと重ねる。
「……『ありがとう』って、何度聞いても嬉しいものなんですね。わたし、全然知りませんでした」
「そうだな。思ってるだけじゃ、伝わらないしな」
「……だったら、カイウスさんも」
リアがそっと顔を上げた。
今度はこちらの番だと言わんばかりに、赤い瞳が悪戯っぽく輝く。
「毎朝ごはんを作ってあげてるわたしに、たまにはちゃんと『ありがとう』って言ってくれてもいいと思いますよ」
わざとらしく唇を尖らせる。
いつもからかわれている仕返しが決まり、リアは得意げにカイウスの反応を待った。
しかし、カイウスは笑わなかった。
しばらくリアを見つめたあと、ゆっくりと居住まいを正す。
「……ああ。分かったよ」
思いがけず真剣な声に、リアの笑みが引っ込んだ。
「カ、カイウスさん……?」
「ありがとう、リア」
「っ……」
真っ直ぐに見つめてくる灰色の瞳に、逃げ場を失った心臓が胸の内で大きく跳ねた。
「お祖父さんの想いを守って、六年ものあいだ、一人でもその優しさを手放さずにいてくれて」
いつもの軽口はない。一つひとつ確かめるように紡がれる言葉が、リアの胸へゆっくりと染み込んでいく。
「あの日、見ず知らずの俺を助けてくれたのも、きっとその想いがあったからなんだろう。おかげで俺は生き延びて、こうして君に出会えた」
そこでカイウスはわずかに目を逸らし、照れくさそうに笑った。
「だから、今のリアでいてくれたことに、ちゃんと礼を言いたかったんだ。ありがとうって」
リアは少しの間、動けなかった。やや遅れて熱が頬へ昇り、耳の先まで一気に赤くなる。
「……っ、あの……」
耐えきれず、両手で顔を覆う。
そのまましばらく俯いていたが、やがて指の隙間から、おずおずとカイウスを窺った。
「……わたしの方こそ、ありがとうございます」
両手をゆっくり下ろす。まだ顔は赤い。
「わたしのこと、信じてくれて……村まで連れてきてくれて……怖くて動けなかったときも、ずっと隣にいてくれて」
胸元で重ねた指に、そっと力を込める。
「カイウスさんがいてくれたから、わたし……ここまで来れたんだと思います」
「……そっか」
カイウスも気恥ずかしそうに頬を掻く。
リアもまた目を伏せた。口元には小さな笑みが残っている。
ふたりの間に、温かな沈黙が落ちた。
ぽつり。
窓硝子を、一粒の雨が叩いた。
ぽつり、ぽつり。
雨音が次第に重なり、暗い窓の向こうを濡らしていく。
「……雨、降ってきましたね」
「ああ。少し冷え込みそうだ」
カイウスは台所へ顔を向けた。煮込み料理の香りが、湯気とともに流れてくる。
「でも今夜は、温かい飯もある」
そして、ごく当たり前のことのように付け加えた。
「それも、ちゃんと四人分だ」
リアは一瞬きょとんとして、それから台所へ目を向けた。
炉には火が灯っている。
温かな夕食を作る音がする。
すぐ隣には、カイウスがいる。
もう、雨の中で一人きりではない。
「……はい」
リアは安心しきったように目元を和らげ、心から嬉しそうに笑った。
窓の外では、静かな雨が降り続いている。けれど今夜は、少しも怖くなかった。




