1-15. 灯される勇気②
翌朝。嵐の去った村はしんと冷え、草葉を濡らす露までが、ひどく冷たく見えた。
祈りの大樹は、片側を失いながらも丘に立っていた。根元から縦に裂けた無惨な断面が、朝陽に晒されている。
村を守り続けてきた象徴の変わり果てた姿は、目を背けたくなるほどに痛ましい。
その傍らに、リアはいた。
結局、一晩中そこから動けなかった。泥にまみれた顔を伏せ、大好きな祖父の亡骸に小さな手を添えていた。
そのとき、枝を踏み折る音と、幾人ものざわめきが近づいてきた。
リアがゆっくり顔を上げると、村長オルドを先頭に、険しい顔の村人たちが丘を登ってくる。
「こ、これは……!? 一体、何が起きたと言うのだ……!?」
そこでオルドの足が凍りつく。
その視線が裂けた大樹をなぞり、根元に蹲るリアへ、そして血に濡れたアベルへと移った。
「——アベル?」
呟いたきり、顔から血の気が引いた。
よろめくように駆け寄り、膝をつく。だが伸ばした手は、その身体に触れる寸前で止まった。
「……嘘だろ。お、おいアベル……頼む、起きろ……起きてくれ……!」
だが返事はない。代わりにリアがおどおどと口を開く。
「……オ、オルドさん。わ、わたし、おじいちゃんを、守ろうとしたの……だけど……」
少女の必死な弁明は、オルドの耳に届かなかった。その視線だけがリアを捉える。
ありえない。リアが、アベルを傷つけるはずがない。それはオルドもよく分かっている——はずだった。
だが、開村以来ノルヴィアを守ってきた御神木は裂け、長年苦楽を共にした友は息絶えている。
二つの惨状を前に、理性が悲しみと混乱に押し流されていく。
気付けば、縋るように見つめてくるリアが親友の孫ではなく——人ならざる怪力を持つ、得体の知れない何かに見え始めていた。
「リア……」
掠れた声が、口をつく。
「……おまえが、やったのか……?」
「えっ?! ち、ちがっ……」
否定に続く言葉が喉につかえる。幼いリアには、何から話せばいいのかが分からない。
アベルがエレノアのために、セリアの葉を採りに来たこと。
大樹が倒れかかり、祖父を守ろうと自分が受け止めたこと。
そのすべてを、話してもいいのだろうか。
真実を知れば、エレノアやエルンは自らを責めるかもしれない。オルドたちも、アベルの死を二人のせいにするかもしれない。
アベルが自分で選んだ優しさが、誰かを傷つけるための言葉に変わってしまう。それだけは絶対に嫌だった。
二人を巻き込まず、自分の無実だけを伝える言葉など、今のリアには思いつかない。
それに——もっと早く追いかけていれば。
もっとしっかり、大樹を受け止めていれば。
おじいちゃんは、死なずに済んだのかもしれない。
「……っ」
後悔と迷いが、胸の中をぐちゃぐちゃにかき乱す。リアは唇を震わせたまま、俯くことしかできなかった。
「……リア? な、何故、黙ってるんだ……?」
オルドの声も震えていた。
「……頼む。たった一言でいいんだ。『わたしじゃない、やってない』と、はっきりとそう言ってくれ……!」
懇願するように、問いかける。
「お前が、アベルを傷つけるはずがないんだ! だから頼む! 何があったのか、私にすべてを話してくれ……!」
言葉を探して、リアの唇が何度も動いた。だが、答えない。答えられない。
「……なんとか言ったらどうなんだ!!」
ついに怒声が弾けた。リアの肩がびくりと跳ねる。
「もう一度だけ聞くぞ、リア……! トリィヤ様の御神体を裂いたのは、おまえなのか!? アベルを殺したのも……おまえなのか!?」
震える拳。怒りなのか悲しみなのか、もう本人にも分からない。
やがて、背後の村人たちからも囁きが漏れ始める。
「……あの子、アベルさんのお孫さんじゃないか? ほら、やけに力が強いっていう……」
「そしたら、あの子が自分で御神体を……?」
「で、でもなんでアベルさんを……身内だぞ?」
「いや、そうじゃない。前にアベルさんに聞いたんだ。実は血は繋がってないって……」
「い、言われてみれば……」
誰かの視線が、リアの髪へ向いた。
「……あの赤い髪も、眼も、アベルさんとは全く違う。普通じゃないよな」
ぽつりと落ちた一言に、別の声が重なる。
「あ、あぁ。獣みたい、だよな」
「じゃあ、あいつが大樹と、アベルさんを……!」
「あんなに世話になってたのに……信じられない!」
「ば、化け物だ……人の心ってもんがない!」
囁きが次々と重なり、やがて明確な敵意となってリアへ降り注いだ。
オルドが俯く。固く握られた拳からは、血が滲んでいた。
「……リア。この村を出ていけ」
「……え?」
弾かれたようにリアの顔が上がる。
「今すぐだ。二度と、ノルヴィアへ戻ってくるな」
「そ、そんな……! わ、わたしは、何も……!」
「つべこべ言うなッ! 出ていけッ!!」
オルドの絶叫に、リアの身体が竦んだ。
「アベルの孫だから、命までは取らん! それだけでも有難いと思え!」
最後に一度だけ言葉を詰まらせる。だが、とうとう吐き出してしまった。
「この……人のふりをした、赤獣めが……!」
リアの瞳から、また一粒、涙が落ちる。
違う。わたしは獣なんかじゃない。おじいちゃんの孫だ。そう、叫びたかった。
リアの視線が、泥と血に汚れた自分の手へ落ちる。この手でおじいちゃんを守ろうとして、大樹を裂いて——結局、守れなかった。
『怖がられても……分かって、もらえなくても……その優しさだけは、手放すな……』
祖父の声が、耳の奥に蘇る。
やっぱり、本当のことは言えない。なら、自分一人が悪いことにすればいい。
おじいちゃんを救うことはできなかった。だからせめて、おじいちゃんが守ろうとしたものだけは、守ってあげたい。
リアは零れそうになる声を呑み込み、肩を落としたまま——やがて、小さく頷いた。
***
村を追われたリアは、日が沈むまで村外れの林に身を潜めていた。そして夜になると、誰にも見つからないよう、ひとりアベルの家へと戻る。
明かりも灯さず、忍ぶように中へと入った。いつもなら迎えてくれるはずの声はない。ただ、しん、と静まり返っていた。
「…………」
リアはまっすぐ薬棚へ向かい、引き出しを開ける。乾いた草と薬の匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
幼い頃、この棚の前に立つ祖父の隣に駆け寄っては「これは何?」「こっちは?」としつこく訊ねていた。
そのたびアベルは困ったように笑いながら、一つひとつを教えてくれた。
リアは端に積まれた空瓶を取り、卓へと向かう。そして胸元から、泥に汚れた葉の束を取り出した。アベルが最期に託してくれた、セリアの葉だ。
水で泥と血を洗い落とし、必要な量だけを刻む。鍋へ入れると、教わった順番どおりに煎じ始めた。
考えなくても、手が覚えていた。
何度もアベルの隣で見てきた、その手順を。
「……っ」
涙が一滴、手の甲へと落ちた。
肩は震え、視界も滲んでいる。それでも、その手だけは止めなかった。
やがて薬が出来上がった。用意した陶瓶へ移すと、木栓の上から布を被せて固く括る。
それを、腰に下げたお気に入りの布袋へそっと収めた。十歳の誕生日にアベルから譲り受け、ずっと大切にしてきたものだった。
「……おじいちゃん」
そっと抱きしめる。かすかに、祖父の匂いがした気がした。
窓を見れば、空は白み始めていた。リアは足音を殺して家を出る。向かったのは、少しだけ離れたエルンの家。
まだ眠りの中にある村道を抜け、戸口の前へしゃがみ込む。布袋から瓶を取り出すと、そっと置いた。
倒れないよう周りを小石で支え、朝露を避けるために大きな葉も被せてやる。
「……お願い。ちゃんと届いて。どうか、エレノアさんが良くなりますように」
祈るように、ぽつりと呟いた。その声は、ひっそりと朝の風に攫われていく。
やがてリアは背筋を伸ばして立ち上がると、振り返らずにその場を後にした。
***
陽が昇り始めていた。リアは村外れから森へ続く小道を、ひとり歩いていた。
背負っているのは、小さな荷包ひとつ。中にはいくつかの薬草と、わずかな私物。それから、祖父から譲り受けた布袋。
大したものは何も無い。それでも、それがいまのリアにとっての全てだった。
見慣れた景色が、ひとつずつ後ろへ流れていく。
エルンと泥だらけになって駆け回った坂道。
アベルに連れられてキノコを採った林。
用水路に足まで浸かり遊び尽くした、夏の日の午後。
祈りの大樹へ誰にも言えない願い事を囁いた、冬の日の朝。
どれも昨日までは、大好きな思い出だった。なのに今は、思い出すたびに胸が痛む。
最後の丘の上で、リアは足を止め振り返る。朝靄の向こうに、ノルヴィアの家々が小さく浮かんでいた。
ここで生まれ育った。大好きな人たちが、たくさんいた。
何より、おじいちゃんと暮らせた。それだけは、誰に何を言われても変わらない。
湧き上がる涙を唇を噛み堪えると、小さく笑う。
「……いままで、ありがとう。ばいばい、ノルヴィアのみんな」
それが、十二歳のリアにできる精一杯の別れだった。
前を向き直す。もう振り返らない。誰もいない森へと続く獣道を、ひとり歩いていく。
一陣の風が吹いた。くしゃり、と赤い髪が乱れる。
それはどこか、不器用な祖父の手の仕草に似ていた。




