1-14. 灯される勇気①
日暮れに降り出した雨は、夜半を待たず嵐へと変わっていた。
窓を叩く雨音に十二歳のリアは目を覚ました。まだ眠い目をこすると、隣の寝台へ目を向けた。
そこにいるはずのアベルがいない。
眠気が一気に吹き飛んだ。慌てて跳ね起きると部屋を見回す。いた。戸口で外套に腕を通し、今にも出ていこうとしている。
「おじいちゃん? な、何してるの?」
「ああ、リア。起こしてしまったかな」
アベルはフードを引き寄せながら、いつもの穏やかな声で答えた。
「さっきエルン坊やが訪ねてきてね。エレノアが病で倒れたそうだ。あの子を家まで送って、薬籠を取りに戻ってきたところなんだ」
そう言って外套の紐を結び直す。
「咳もひどいらしい。こんな夜に震える声で『助けて』と頼まれたんだ。放ってはおけないよ」
「えっ。でも、こんな嵐なのに……だ、大丈夫なの?」
リアは胸の布人形をぎゅっと抱きしめる。
窓の外は轟々と唸る闇に塗りつぶされていた。風が家を揺さぶるたび、何か恐ろしいものが外で暴れている気がしてならなかった。
「はは。リアは本当に心配性だな。大丈夫さ、すぐ戻るよ」
アベルは朗らかな笑みを浮かべる。その顔を見ているとリアの不安も少しだけ薄れた。
「そうだ。眠れそうになかったら、少し頼まれてくれるか? 炉の火を絶やさないでほしいんだ。湯も沸かしておいてくれるとありがたい。帰ったら、おじいちゃんも温まれるからな」
「……わかった。でも、すぐ戻ってきてね。ぜったい、約束だからね」
アベルは答えず、リアの頭に手を置いた。
くしゃりと赤髪を撫でる。それが二人だけの、約束のしるしだった。
戸が開く。待ち構えていた雨風が吹き込み、リアは思わず目を瞑った。目を開けたときには、祖父はもう嵐の中に消えていた。
***
半刻が過ぎようとしていた。
リアは言われた通り、炉に薪をくべ続けていた。風が戸を叩くたび何度も振り返る。聞き慣れた足音はまだ戻ってこない。
「……おじいちゃんの、うそつき」
呟いた、そのときだった。
——ズズズガゴゴゴゴゴゴッ!
轟音が腹の底を震わせた。
リアは息を呑む。聞いたこともない音に、妙に胸がざわついた。何が起きたかは分からない。それなのに、何故か嵐の中へ消えた祖父の背中が思い浮かぶ。
「お、おじいちゃん……!」
気づけば立ち上がっていた。
自分の外套を引っ掴むと戸口へ駆ける。あれほど怖かった筈なのに、もう足は竦まなかった。
——ゴオォオォオオ。
外へ出た途端、横殴りの雨風に息を奪われた。
一歩踏み出す。足首まで泥に沈んだ。進もうとしても風に押し戻され、雨粒は針のように肌を突き刺す。
数歩も進まないうちに、前のめりに転ぶ。泥の苦みが口いっぱいに広がった。
「っ……!」
冷たい空気を吸うたび、胸の奥がじくりと痛む。濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。
それでも、行かなきゃ。どこへ行けばいいのかは分からない。ただ轟音が聞こえた村の外れへ、夢中で走った。
やがて、雨煙の向こうに巨大な影が浮かび上がった。
祈りの大樹。ノルヴィアの人々が、何世代にもわたって願いを託してきた神聖な巨木だ。
だが、様子がおかしい。
根元の土は暴雨にえぐられ、大きな根がむき出しになっていた。空へ伸びていた幹は大きく傾き、地面を削りながら倒れかけている。
そして、その根元に。
「——おじいちゃん!?」
アベルがいた。リアの中で何かが弾けた。ただ一つの思いが身体を動かす。
——助けなきゃ。
リアは大樹の下へ飛び込み、迫る幹に両手を突いた。
「ぐっ……ぁああああっ!!」
身体の奥で聞いたこともない音がする。腕も、足も、腰も、今にも引きちぎれそうだ。重い。あまりに重すぎる。
それでも歯を食いしばり、両腕にありったけの力を込めた。
「だいじょうぶだから! い、今、助けるからね! だから、お願い、死なないでぇ……!」
幹の一部は、すでにアベルの胸を押し潰していた。血が雨水に流され、黒ずんだ筋となって土を伝う。
「わたしが助けるんだ……! 絶対に、あきらめない!!」
そのとき、視界の端で赤髪がぼんやりと光った。髪を伝う雨粒までが、火の粉のように赤く輝いている。
何が起きているのかは分からない。けれど今は、考えている余裕などなかった。リアはただ祖父を助けたくて、必死に踏ん張り続けた。
……ミシッ。
手のひらの下で、何かが鳴った。
「……え?」
ミシ、ミシミシ……。
亀裂が幹を縦に駆け上がる。
——バリバリバリィィイ!
巨幹が、真っ二つに裂けた。
リアが押し返した側が根元から剥がれ、斜面へと倒れ込む。残った幹も大きく傾いたが、根に支えられ、倒れる寸前で辛うじて止まった。
「……や、やった……!」
安堵したのはほんの一瞬だった。リアははっとしてアベルの元へと駆け寄る。
「おじいちゃん!!」
アベルは仰向けに倒れていた。胸は血に濡れ、呼吸のたびにひゅうひゅうと音が漏れている。
「お、おじいちゃんっ……! 大丈夫なの!? ねぇ……!」
手を握った瞬間、あまりの冷たさに息が詰まった。
「……リア、か」
消え入りそうな声が返る。それだけで胸がいっぱいになった。
よかった。ほら、おじいちゃんは生きてる。もう大丈夫なんだ。何ともないんだ。
「う、うん! わたしだよ、リアだよ! 待っててね、すぐに——」
「……これを」
アベルが震える手を差し出した。その掌には、くしゃくしゃになった何かの束がある。リアの手にそれを押し込んだ。
「……エレノアに、届けて……やってくれ……」
「な、なに言ってるの……? やだよ! いまはおじいちゃんの手当が先だよ!」
リアはそれを握ったまま何度も首を振る。アベルはそんな孫を見つめ、愛おしそうに笑った。けれどその目は今にも閉じてしまいそうだ。
駄目。眠っちゃ駄目だよ、おじいちゃん。リアは縋るようにアベルの手を握り締める。
「リア……その力は、祝福……だ」
「……え?」
「人を……救うために、使いなさい」
震える指がリアの頬に触れた。
「怖がられても、分かってもらえなくても……その優しさだけは、手放すな……」
「お、おじいちゃん……?」
呼びかけてもアベルの目はリアへと戻らなかった。雨の向こうにある何かをぼんやりと見つめている。
「あぁ……私の可愛い孫。いつか、きっと……お前の手を、とってくれる……人、が……」
手が、くたりと滑り落ちた。
「……おじいちゃん?」
リアは慌ててその手を拾い、両手で包み込む。
「ねぇ……おじいちゃん……? 返事、してよぉ……ねぇ、おじいちゃん、お願いぃ……!」
返事は、ない。
リアは冷たくなっていく手を握り続ける。重ねた掌の隙間から小さな葉が覗いていた。
指先に伝わるチクチクした感触。雨にも消えない、独特の苦い香り。
「……セリアの葉だ」
間違いない。教わったのは去年の初秋。秋雨が上がった翌日、アベルと二人でトリィヤ様への参拝に大樹を訪れたときだった。
『おじいちゃん。なんか変な匂いがする』
『ほう。よく気づいたな。どこから匂うか分かるかな?』
リアは鼻をひくつかせながら大樹の根元を探した。濡れた草を掻き分けると、太い根の陰からギザギザした小さな葉が覗いていた。
『……これ?』
『そうだ。それはセリアという薬草だ』
指先で葉に触れると、細かな棘がちくりと刺さった。顔を近づけてみたものの、やはり妙な匂いしかしない。
『うへぇ。これ臭いしチクチクする。本当に薬なの?』
『はは。薬草は美味しそうなものばかりじゃないのさ。セリアは肺の病によく効くんだ。大樹から染み出す水をたっぷり吸って、長雨のあとにようやく芽を出すんだよ』
アベルは一枚の葉を摘み、リアの掌に載せた。
『ただし、乾かすと効き目が落ちてしまう。摘んだらすぐ煎じなければならない。匂いも手触りも、よく覚えておくんだぞ』
『こんな臭いの、忘れたくても忘れないよ……』
『ははっ。それは頼もしい』
そう言って頭を撫でてくれた手の温かさまで、今になって鮮明に蘇った。
『湯も沸かしておいてくれるとありがたい』
先ほど、アベルが家を出る前の言葉も思い出す。
「……そっか」
リアは手の中の葉を見つめた。
どうして、アベルはこんな嵐の夜に大樹へ向かったのか。
どうして倒れた巨木の根元に、彼がいたのか。
その答えが、ひとつにつながった。
誰に知られることもなく、見返りも求めずに。ただ病に伏せたエレノアを救うため、アベルはひとり嵐の中を歩いてきたのだ。
「……おじいちゃん……!」
涙が溢れた。
エレノアさんのせいじゃない。エルちゃんのせいでもない。おじいちゃんが自分で決めたことだ。困っている人がいたら助ける。おじいちゃんは、いつだってそうしてきた。今日も同じことをしただけ。
だから誰も恨んじゃいけない。おじいちゃんは最後まで立派にやり遂げたんだ。泣いてばかりいないで、ちゃんと「ありがとう」と言って見送らなきゃ。
——でも。それでも、やっぱり。
「……あ、ありがとう……っ、でも……でもぉ……!」
駄目だった。頭では分かっていても、十二歳のリアにはどうしても受け入れられなかった。
「う、うぇぇっ……わ、わたし……弱虫で、ごめんねぇっ! おじいちゃぁあぁん!!」
リアは動かない祖父の胸に縋りつき、何度も何度も名前を呼んだ。どれほど呼んでも返事はない。泣き声まで激しい雨風に吞み込まれ、自分の耳にさえ遠く聞こえた。
嵐は、まだ止まない。




