1-13. 過去への旅路
エルンの家は村外れの小高い丘、その中腹にひっそりと建っていた。
決して大きくはないが、戸板も窓枠も丁寧に磨かれている。窓辺には香草の束が吊るされ、清涼な香りが漂っていた。炉でくすぶる熾火が、薄暗い室内をぼんやりと照らしている。
その部屋の隅で、リアは身を縮めていた。
膝を胸元まで抱き寄せ、そこへ顔を埋めるように俯いている。安全な場所まで来たはずなのに、心だけはまだオルドの屋敷に取り残されているようだった。
「恩に着るよ、エルン。本当に助かった」
戸口から戻ってきたカイウスが外套を軽く払う。どうやら周囲を見回ってきたらしい。
「誰も追ってきてない。この辺りなら今夜はひとまず落ち着けそうだ。面倒に巻き込んで悪かったな」
「いえ、そんな……俺はただ、家に案内しただけですから」
そう答えながらも、エルンの視線は落ち着かない。
何度もリアへ向かっては戻ってくる。声を掛けたいのだろうが、何から話せばいいのか決めかねているようだった。
「そういや、さっきの口ぶりだと、エルンとリアは昔から仲が良かったのか?」
カイウスが椅子に腰を下ろすと、エルンは小さく頷いた。
「はい。リアがまだ村にいた頃、家が隣同士だったんです。物心ついた時から毎日のように一緒でした。川で遊んだり、畑を駆け回ったり……」
遠い日の残像を追うようにリアを見る。
「背はずいぶん伸びたけど、中身は昔のままなんだな。真っ直ぐで、不器用で、少し怖がりで。でも、誰よりも人に優しい。俺、ちゃんと覚えてるから」
膝を抱えるリアの腕に、ぎゅっと力がこもった。
「……久しぶりなのに、ごめんね。エルちゃん」
伏せたままの顔から、細い声が漏れる。
「わたし、あんなことしたのに……勝手に村に戻ってきて。きっと、迷惑だったよね……」
「め、迷惑なわけないだろ!」
エルンが思わず声を張る。
「生きてるのかさえ分からなくて、もう二度と会えないって諦めてたんだぞ! それが、こうして戻ってきてくれたんだ! 迷惑どころか……俺はずっと、リアに会いたかったんだよ!」
「エルちゃん……」
リアがゆっくりと顔を上げる。不安げに揺れる赤い瞳を、エルンも逸らさずに受け止めた。
六年越しに二人の目が寄り合う。お互いの眼差しは、少しも変わってはいなかった。その一瞬、二人は大樹の下を駆け回り、麦の香る野で笑っていた幼い日々へ戻っていた。
その静かな時間へ、床板の軋みと小さな咳払いが混じった。
「エルン、帰ったの? こんな時間にお客さんかしら」
奥から年配の女性が姿を見せた。
袖を肘までたくし上げ、腕には濡れた布巾を掛けている。働き慣れた手をした、穏やかな顔立ちの女性だった。
リアを認めた途端、その足が止まる。
「……あら? あなたは……」
「母さん。この子、リアだよ。ほら、昔うちの隣に住んでた」
促されたリアがおずおずとフードを外す。赤い髪がさらりと肩へ流れ落ちた。
女性は目を見開き、胸元へ手を当てる。
「まあ、リアちゃん。アベルさんのお孫さんの」
「……ご無沙汰してます。エレノアさん」
リアは視線を床に落としたまま、小さく頭を下げた。エレノアはそのまま吸い寄せられるようにリアに歩み寄る。
「お顔、よく見せてちょうだい」
そっと頬へと手を添える。
「あぁ……言われてみれば、面影があるわぁ。そう、あんなに小さかったリアちゃんが。本当に、大きくなったわねぇ」
懐かしむように指先を滑らせてから、少しだけ声を落とした。
「その……今まで、元気にはしていたの?」
「……はい。なんとか」
「ノルヴィアを離れてからは? どこか別の村で暮らしていたのかしら」
リアは一瞬だけ口を閉ざした。
「……村の西にある森にいました。ちょうど廃屋があって……ずっと、そこに」
「まあ……じゃあ、その……ずっと、一人で……?」
少しの間を置いて、リアがこくりと頷いた。
「……そうなの」
エレノアはそれ以上尋ねなかった。炉へ薪を焚べると、乾かしていた香草を湯で煮出し、木椀へ注ぐ。それをリアの両手へそっと預けた。
リアは立ち上る香りに顔を伏せ、ゆっくりと口をつける。何口か飲むうち、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていった。
それを見届けてから、エルンが静かに口を開く。
「……リア。もちろん無理にとは言わない。けど俺は……どうしても知りたい。六年前のあの夜、何があったのか」
赤い髪に埋もれた肩が、びくりと跳ねた。
「あの嵐の晩、母さんの風邪が急に悪くなったんだ。咳も酷くて、顔色も悪くて……もしかしたらこのまま死んじまうんじゃないかって、怖くてどうしようもなかった。それで俺、アベルさんのところへ駆け込んだんだ。どうしても薬のことを相談したくてさ」
薪がぱちりと爆ぜる。その小さな音に後押しされるように、エルンが顔を上げた。
「アベルさんは話を聞くなり、『私がなんとかする。君はお母さんのそばにいてあげなさい』って、俺を家まで送ってくれたんだ。それが……俺が最後に見た、生きてるアベルさんだった」
「その翌朝、大樹の下で亡くなってたって聞いた。すぐそばにリアがいたことも……君が、その……そうしたってことも、リアが去ったあとで、オルドさんから聞かされたんだ」
そこで、きゅっと唇を結ぶ。
「……でも、そんなの……信じられるわけないだろ」
抑えていた声が、一気に熱を帯びる。
「虫一匹も殺せなくて、怪我した鳥を見つけただけで泣いてた、あのリアだぞ?! アベルさんを殺すなんて……そんなこと、するわけない!」
「……私も同じ気持ちよ、リアちゃん」
今度はエレノアが言葉を継いだ。リアの正面へしゃがみ込み、不安そうに垂れた眉を見つめる。
「リアちゃんは毎日、アベルさんの後ばかり追いかけてたもの。村でも有名なおじいちゃんっ子だったじゃない。そんなリアちゃんがアベルさんを……なんて、する筈がないのよ」
懐かしげだった表情が、ふっと曇った。
「……でも、あの時は怖かった。何があったのか分からなくて、みんながあなたを責めて……私まで、ほんの少し迷ってしまったの」
エレノアは目を伏せ、腕に掛けていた布巾を強く握り締める。
「……追いかけなきゃって思った。まだあんなに小さかったあなたを、一人にしちゃいけないって、分かってたのに……!」
「それなのに私、何もしなかった……! たった一言、『ノルヴィアにいていいのよ』って……どうして言ってあげられなかったんだろうって……ずっと、ずっと後悔してたのよ……っ!」
堪えていた涙が、頬を伝う。
リアがぱっと俯いた。逃げ込むように顔を膝に埋め、袖口を掴む。その指先は、痛々しいほどに白い。
「……違うの」
——ぽそり。囁きにもならない声だった。
けれど沈黙が深い分、その一言は不思議なほどはっきりと響く。
「……違うの。誰のせいでもないの」
顔を伏せたまま、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「おじいちゃんは……自分で、そうするって決めたの。誰かに頼まれたからじゃない。感謝されたかったわけでも、……悲しませたかったわけでも、ない」
涙が混じり、次第に不揃いになる声。
「ただ、エレノアさんを助けたかった。それだけだったの。でも、わたしがそれを話したら、おじいちゃんの純粋な想いまで変なふうに汚してしまいそうで……わたし、それが……いちばん、嫌だったの」
エルンは思わず息を詰めた。
ようやく見えた、六年前の真実へと繋がる糸口。やはり自分が知らない何かがそこにある。
だがそれを手繰れば、リアの傷をさらに抉ることになるかも知れない。現に涙声を必死に絞り出す姿は、見るからに辛そうだ。
——それでも。
エルンは下唇を強く噛み、迷いを振り切るように首を振る。
「……頼むよ、リア。きっと俺たち、このままじゃ駄目なんだ。ノルヴィアは誰も、あの日のことを何も知らない……いや、知ろうともしなかった」
「俺だってそうだよ。リアが何を背負って村を出たのかも知らずに、ただ悲しくて、寂しくて……三日三晩、泣くことしかできなかった」
俯きかけた顔を上げ、真っ直ぐにリアを見つめる。
「俺はもう、何もできない子供ではいたくない。だからリアが勇気を出して戻ってきてくれた今日は、きっと最後のチャンスなんだ。ノルヴィアがちゃんと、あの日の真実と向き合うための」
「エルちゃん……」
リアがおずおずと目だけを上げる。震える睫毛には、小さな雫がしがみついていた。
「リアちゃん。辛かったら、全部じゃなくていいの」
エレノアも急かさないように、ゆっくりと言葉を置く。
「あの時の私は、周りの言葉に迷ってばかりだった。だから今度は、ちゃんと聞きたい。話せるところまででいい。あなた自身の言葉と想いを、聞かせて欲しいの」
「エ、エレノアさん……っ」
緋色の瞳が大きく揺れた。ついに涙が落ち、膝へ小さな染みを作る。
そこで初めて、カイウスも腰を上げた。リアへ数歩だけ近づき、それ以上は踏み込まない。
辛い記憶なら、これ以上抉り返さなくていい。今すぐそう言って止めてやりたい気持ちもあった。
けれど、話すかどうかを決めるのは自分ではない。守りたいからといって、懸命に前へ進もうとする彼女から、選ぶ権利まで奪いたくはなかった。
それを選ぶのは、リア自身であるべきだ。
——ただ、その前に一つだけ。どうしても伝えておきたいことがあった。
「……リア。勝手を言ってすまない。だけど俺も、知りたい」
赤い髪が、ふわりと揺れる。
「オルドたちは、君がアベルさんを殺したと言っていた。でも俺は断言できる。君は決して、そんなことをする人間じゃない」
「……っ」
「俺は今のリアを信じてる。それは誰から何を聞いたって変わらないよ。だから、もしよければ……君の過去を、俺にも少し分けてくれないか? リアが何を守ろうとして、何を抱えて、今まで生きてきたのか」
灰色の瞳は、ただ真っ直ぐに彼女を見つめていた。
「もしそれが、今もリアを苦しめてるなら……そのまま一人で背負わせておくなんて、俺にはもう、できないんだよ」
「カイウスさん……」
リアはカイウスを見つめたまま動かない。
しばし、沈黙が落ちた。
やがて、膝へ食い込んでいた指がぴくりと動く。一本、また一本と離れてゆき、抱え込んでいた膝が、ゆっくりと下りた。
リアが顔を上げる。エルン、エレノア、そしてカイウス。三人を一人ずつ、確かめるように見つめていく。
「……わかりました」
その声はまだ弱い。けれど、震えてもいない。
「わたし、話します。あの夜に起こったこと……その全てを」
炉では、新たな薪へ火が移り、赤々と燃えていた。
もう、熾火ではない。
静かに揺れる炎の中、リアは六年前の夜を、ぽつり、ぽつりと語り始めた。




