第七話 油断禁物
品質保証室は、文書管理室の一つ下の階に位置していた。
階段を一つ下って、トラップを抜けるために通った資料室のすぐ隣。
大した問題もなく任務の遂行ができそうだ、などと油断があったのかもしれない。
資料室に入ると、アンから資料には触らないようにと注意を受けていたことを思い出した。
陳列されたファイルはどれもタイトルがなく埃をかぶっていたが、最近使われたのか埃のついていないものが一冊、僅かに飛び出しているのが目に留まった。
通り過ぎようとも思ったのだが、そのたった一冊がどうにも気がかりで、せめて揃えておこうと押し込んでみる……が、何かに押し戻されるようにして飛び出してきた。
何度試してもファイルは飛び出してくるので、仕方なくファイルを抜き取って棚の中を覗いてみた。
特につかえになるようなものは見当たらず、手を入れて触れてみても、なんてことない書架のようだった。
取り出したファイルは、中には紙がぎっしりと詰まっている。金属のリング付近に厚みがあるのは、誰かが丁寧に保護シールを貼っているからだろう。
俺は、好奇心に負けてファイルの表紙を開いた。
施錠もされず、いつ誰の手にも触れられるように置かれた資料に大した内容は含まれていないだろうが、それでもタイトルの空白と紙の重さから、いったいどんな資料が綴じられているのか……と、ほんの少しの期待もあった。
しかし、ファイルの中身は全て白紙であった。
何回も往復してページをめくってみたのだが、ただの白いコピー用紙にパンチで穴を開け、その穴を保護するシールが丁寧に貼られているのみだった。
特殊なインクでも使われているのだろうか、とも思ったが、紙はどこから見てもまっさらで少し黴臭く、何の痕跡も見当たらない。
不気味に思い、ファイルを閉じて元あった場所に押し込んだ。
今度は反発もなく奥まで届いたようで、空欄の背表紙は今度こそ綺麗に整列した。
しかしその瞬間、短いブザーのような音とともに、すすり泣きにも聞こえる金属が擦れるような音が響いた。
扉の方からがしゃん、と別の金属音が聞こえて目を向けると、鉄柵のようなもので覆われて出入りが封じられている。
続いて、ふわりと浮遊するような感覚を足元に感じ、どうやらこの部屋はエレベーターのように下っているのだということに気が付いた。
トラップだろうか?手帳を見れば何かわかるだろうか。
しかし、今手帳の中から探し出す時間の余裕はあるのか?次は何が起こる?
封鎖的な状況に頭が混乱し、最適な行動がわからなくなる。
移動しているということは、どこか連れていきたい場所があるはずだ。
それがどこなのか、何をすればこの状況から抜け出せるのか。
そもそも自分は司書から頼まれたおつかいの最中でもあるのだ。
時間がかかってもいいとは言われているものの、通常の業務に戻るのにどの程度の時間を要するのか、見当もつかない。
『地下、お客様相談室です。お忘れ物がないようお気を付けください』
無機質な合成音声の案内とともに、移動は停止した。
出入りを封じていた鉄柵も床の中へと沈んでいく。
そこに小さな穴があることなんて、今の今まで気が付かなかった。
司書から預かったクリアファイルを手に、恐る恐る扉を開けると、飛び込んでくる強い光に思わず目を細めた。
あり得ないほどに白一色の空間に踏み出すと、資料室の扉は自動的に閉まった。
振り返ってみれば、資料室は天井まで届く鉄柵に囲まれ、天井には巨大な空洞がぽっかりと口を開けていた。
『エレベーターが作動します。離れてください』
アナウンスに従い資料室から距離を取る。
ブザー音とともに、資料室はぐんと上に持ち上がり、天井に開いた穴に向かって消えていった。
資料室があった場所の奥から、同程度の広さの部屋がいくつか迫ってきて、また壁に沿って登って行った。
どうやらレールのようなものが取り付けられており、資料室の階下の部屋もこの地下空間に収納される仕組みとなっているようだった。
「無駄遣いだろ……」
技術も、こんな仕組みを動かす電力も、かかっている費用も。
これで今日何度目になるのかわからない疑念は、疑念を通り越してもはや呆れに近いものとなり、ついには声となって口から零れ出た。
このラボは異常だ。明らかに本来の用途と関係のない設備がそこかしこと仕掛けられている。
宙吊りから始まり、靴が貼りつく床と足つぼトラップ……そんなものが可愛らしく思えるほど、今回のトラップは大掛かりで大げさで、そして何より無駄と思えて仕方がなかった。
「あれー?誰かと思ったらビビ君じゃない?」
エレベーターの動きに気を取られていると、背後から声をかけられた。
大きなネズミミと、青色の瞳。長い白髪は低い位置で二つに結ばれている。見覚えのある少女のような姿のMIMOは、紛れもなくサキコであった。
「サキコさん?なんでこんなところに?」
「僕はお手伝いロボットだからね。必要な時に必要な場所に現れるのだッ」
サキコは得意げに、ぶい!と言いながらピースサインを突き付けてきた。場違いなテンションに苛立ちを覚えたが、自身の耳に手をやることでそれをしのいだ。
「やけに落ち着いてんね?」
「まあ、所詮トラップですからね。死ぬようなことはないでしょう?」
「ちぇ、つまんないの。C君の時は面白かったのに」
サキコはそんな悪態をつきながら、待機スペースへと案内をしてくれた。
この空間は、改めて見ても不思議な場所だった。
多方面から照明が当たり、足元には薄く短い影がいくつも重なって見える。
らせん状の滑り台のようなものがあちこちから柱のように伸びており、空間の端は闇に覆われて見ることができない。
連れてこられた待機スペースも、暗闇の中に浮く3Dモデルのようだとさえ感じられた。
実際には床も壁もあるのだろうが、反射の少ない黒色の素材が使われているためだ。
白い床には、靴はまだ新品同然なのに足跡がくっきりと残されていく。
これでは掃除が大変だろうと靴を脱ごうとしたところ、サキコから止められてしまった。
白色の浮島には、上等なソファーとテーブル、茶菓子と給湯器が設置され、応接間のようだった。
サキコはここで待っていてね、と言って壁にある装置でどこかに連絡を取った。
それが終わると今度はソファーに座って退屈そうに足をバタつかせ、茶菓子を漁り始める。
「うっわ、チョコレートがない!」
「食べられるんですか?」
「うん、脂質とたんぱく質は苦手だけど、MIMOは糖分の摂取でも動けるんだよ」
チョコレートは確かに砂糖の塊だが、脂質の塊でもあるんじゃないだろうか。
にしても、人間の食べ物で動くアンドロイドというのはどんな仕組みで動いているのだろう。
アニメで有名な猫型ロボットも和菓子を好んで食べているが、彼には食べ物を分解しエネルギーに変換する胃袋が搭載されているらしい。彼ほど万能ではないだろうが、それと近しい仕組みを持っているのかもしれない。
高度なエネルギーの変換技術は、確かに注目されるべきかもしれないな、と、MIMOに対する考えをほんの少し改めた。
「ね、暇だしせっかくだからビビ君のこと教えてよ」
「お断りします。自分のことを話すの、得意じゃないので」
「えー、いいじゃんべつに。生身の人間に話すわけじゃないんだし、君が望めばどんな内容でも肯定できるよ?」
「大して面白い話はありませんから」
サキコは少し困ったように眉を下げ、うーんと何か考え込む仕草を見せた。
相手の警戒を解くためか、安心感を与えるためか、「感情」がわかりやすいよう一々大げさな反応をとるよう組まれているのだろう。
もちろん、彼らにとっての感情というのは、コミュニケーションが取れる相手だと錯覚させるための演出に過ぎない。
サキコは先ほどから一人で何か話を展開させていたが、構うのはやめて、彼女が呼んだという人間の職員が到着するのを待つことにした。
この空間には、見るべきものが何もない。サキコの音声以外の音もなく、多方面から浴びせられる光のせいで少々暑苦しかった。
退屈を紛らわせるため、依然喋り続けるサキコを無視して席を立つ。
給湯器を借りて紙コップにコーヒーを注ぐと、質の悪いインスタントな香りが広がった。




