第十一話 ドーナツホール・前編
五時直前、扉は再び開かれた。
「約束の時間やでぇ!きっちり耳揃えて返してもらうからなぁ!」
「ヤクザか、あんたは……」
隣で静かに作業していたC君が顔も動かさずに呟くものだから、思わず吹き出しそうになってしまった。気付かなかったが、いつの間にかそんな時間になっていたらしい。司書はほんの少し時計を見つめたのち、まあいいでしょうと頷いた。
「C君、司書さん、お先です」
「はい、お疲れ様です」
「お疲れ~」
部屋を出る直前、気が付いた。いつもこの時間には帰り支度を始めるC君が、今日はそんなそぶりを見せていない。まあ、集中していればそんなこともあるか。それよりも今、目の前には興奮し切った猛獣が待ち構えている。さっさと用を済ませて帰らなければ。
ヤクザもとい猛獣もといレオナに連れられた先は、文書管理のすぐ隣、例の壁だった。俺が驚くと思っていたのか、彼女は壁の中に手を入れメインサーバールームの扉を出現させると、期待たっぷりの顔で俺を見た。だが、残念なことに俺はここに何があるか、既に知っている。
「ここ、何が条件なんです?」
「あれ?驚かんの?」
「存在は知っていましたから。まあ、最初は偶然だったんですけど。いくら試しても何も起こらなかったので」
レオナは少しつまらなそうに口をとがらせ、なぁんだ、と呟いただけだった。どうしてラボの職員というのは、長話が好きなくせして、訪ねたことには答えてくれないのだろう。答えるどころか質問に質問で返して、俺が答えるとそのまま曖昧にされてしまう。不服だ。
サーバールームは、ひどく乾燥し冷え切った空気に満たされていた。長袖に白衣を着込んでいても、うすら寒く感じるほどだった。
鉄の手すりの向こうには、あの青白いBLESS球が浮かび、ゆっくりと自転している。
以前見たときに比べ、球はより大きく、光はより強くなったように思える。
「アレを見るんも、二回目?」
「ええ」
「そ、なら話は早いわ。アレな、ここ最近でぐんぐん成長してるんよ。可愛いやろ」
「……確かに、前に見たときと様子が違います」
以前はまだ、この手すりからも球の全体を捉えることができていた。でも今は、身を乗り出して覗いてみても、球の底を見ることはできないほどに膨らんでいる。
「降りようか。寒いし、コーヒーでも淹れよ」
レオナは靴音を響かせながら、階段を下っていく。後を追い、下れば下るほど、部屋の温度は下がっていく。冷えた空気は下に溜まるものだから、当然のことではあるが。
最下層にまで降りると、球はほとんど床面に着いているのがわかった。所長のデスクや、サーバーのいくつかはホログラムの光の中に埋まっている。今は、所長の姿は無いようだった。
レオナは光の中へと足を進めていくが、俺は少し、BLESS球に入るのを躊躇った。手を伸ばし、指先で触れてみる……が、光というものはそもそも触れる代物ではない。指先からは何の感触も得られず、頭の中に灰色が浮かび上がる。
ふわりと、コーヒーの香りが漂って来た。ここは寒い。きっと寒さと薄暗さが、余計な不安を煽っているだけだ。思い切ってBLESS球の中に踏み込むと、そこは光でできたドームになっていた。
「な。怖いけど、綺麗やろ」
「……レオナさんも怖いって思うんですか」
「そりゃ、未知のものやから」
レオナから耐熱の紙コップを際しだされ、受け取る。プラの蓋がしっかりと被せられているのは、零した時の被害を最小限に抑えるためだろう。
「……いただきます」
すっかり冷えてしまった手にはじんわりと温度が伝わり、緊張が解れるようだった。座るように促され、所長の椅子を借りて腰を下ろす。
「さて、長くなってもいけんから、早速本題に入るわ」
レオナは俺の前の床にドカッと腰を下ろした。慌てて立ち上がろうとするも、いいからいいから、と制止する。
「なぁ、人ってどうして人だと思う?」
「は?」
「正確には、何がその人をその人たらしめるのかって話やね。君の意見が聞きたい」
「話って、ほんとにそれですか?」
「そ。本気やで?茶化すのはナシな」
もっと技術的な話が来るかと思いきや、随分と哲学的な問いだったことに驚きつつも思考が巡りだしていた。
人……他人のことはわからない。自分ならどうだろうか。自分を、自分たらしめるもの。一体何が自分を自分として成り立たせているのか。俺は、俺だ。名前はビビ。でも、名前に重要性はない。名前というのは、その人物の本質とは関係がないからだ。人を何と呼ぶかを決めるのは他人で、後から貼られた、あるいは初めから貼られていたラベルに過ぎない。
俺は生まれを知らないが、育った街なら覚えている。思い出せるのは、あの人に出会った時からの出来事だ。アンバーウッドの香りとセットで、記憶がふわりと蘇る。あの時から俺は俺として生きてきて、あの街で暮らして、街を出て、ラボに勤めることになって、今だ。
ずっと続いているもの、俺の価値観を作っているもの。俺の顔を覗くレオナの表情は、今までにない程にまじめなものだった。半端な答えは許されないような緊張した空気を感じて、貯まった唾液を飲み込む。
「自信はありませんが……記憶、なんかはどうでしょうか」
「その心は?」
「記憶……つまりは経験です。人は何かを考えたり、判断するのに様々な情報を扱う。それは単に知識だけでなく、個人の経験も含まれるからです」
「なるほど。例えば」
「例えば……俺は、自分に自信がありません。俺は他人とは、悪い意味で違う。何度も否定された経験があるからです。だから、俺はここに来たんです。何が人間で、何が人間ではないのか。俺は本当に、人間じゃないのかどうか知りたくなりました。経験が俺の価値観を作って、選択の連続で、俺はここにいます」
「……その問いの答えは見つかりそう?」
脳裏には、E1-02の姿があった。今の理論で言えばE1-02を始め、MIMOIDには人格があると認めることになる。
E1-02とサキコ群は同一個体でない。記憶も共有されず、振る舞いも違う。同じシステムなら何度起動し直しても、同じように動かなければおかしいのに、E1-02はサキコではない。
なら、何がE1-02をE1-02にしているのか? それは、俺の部屋で目覚めたときからの記憶が独立しているからだ。
「答えはわからなくなりました。それにやっぱり、記憶や経験だけで人格を認めるのも少し乱暴な気がします」
「じゃ、質問。記憶を失くしたら、君は君じゃなくなるんかな」
「え?」
「君が自分のことを綺麗さっぱり忘れても、周りは皆、君を覚えているんよ。それか……君が君だと思い込んでいる記憶がもし、君の物ではなかったらどうやろ」
「それは……」
その時、残っているのは人との関係だ。他者、もしくは世界との関係。自分の認識の如何に関わらず、自分という存在がそこにあったことの証明になりうる。でも、そこに俺と言う人格は存在しない。俺から見ればそいつは、他人だ。
「なぁ、ドーナツって穴はいくつあると思う?」
レオナは、自身の首から下がるドーナツのモチーフが付いたネックレスを外して、俺に突き出した。イチゴのフレーバー、彼女らしいアイテムだった。
「ドーナツ、ですか。普通なら一個だと思いますけど」
「そうやね。じゃあ、穴があることを証明するにはどうしたらええ?」
「見たらわかる、とかじゃないんですか」
「うん。穴は確かに見えてる。でも、触れないし、穴だけを取り出すことは不可能やろ。ならどうやって、ウチらはそこに穴があるって認識してるんやろな」
「……周りに生地があるからです。穴は、相対的な関係の中にしか発生しない」
ドーナツを一口齧ってしまえば、途端に穴は消えてしまう。そこにあったことはわかるかもしれないが、食べきってしまえば、もう穴を証明することも、あったことを知ることもできない。それはとても怖いことに思えてしまった。穴は確かにあったのに、まるで初めから無かったもののようだった。冷えて少し硬くなった耳をつまんでいた。
「でも、飛躍しています。数学的なものの見方をそのまま人間に適用するのは問題がある」
「考え方の一つやもん、発想は自由でいい」
レオナは再びネックレスを付け直し、大きく伸びをする。確かに、柔軟に考えるには少しでも多角的な見方をした方がいい。一概にどんなものだと言い切ることができないものなら、なおさらそうだと言える。けれどドーナツに例えるには、人間はいささか複雑だ。
「一度記憶や存在が切断されたら、その前後で同じ存在と言えるんでしょうか」
サキコは、何度壊れてもサキコとして現れる。記憶や経験は、引き継がれているはずだ。でも、E1-02はそれらを引き継がなかった。
なら、俺が知っているE1-02以前のサキコとしての記憶や経験は消えているのか? いや、レオナが前に話していたことがある。MIMOのパーツ移植で前の持ち主の特性が出現するのは、どこかに情報が保存されているからだという仮説を。そして、E1-02にもそれが見られた。記憶や経験は、失われたわけではない。
「自分はどう思ってん?」
俺は、二つに切られたイチゴのドーナツを思い浮かべた。切断されても、その両方が同じ味のドーナツだ。断面は残るが、ぴったりと合わさる限り、それはただの経験だと捉えることもできる。
「……大きな流れで見れば同じ存在だと言えそうです」
イチゴのドーナツの隣に、もう一つ別のドーナツを思い浮かべる。半分はイチゴで、もう半分は抹茶のチョコレートがかかっている。そしてその断面は、決して一致しない。
「けど、切断によってその先の本質が大きく変化してしまったら……。切断前は失われていなくても、前後にはハッキリと境界が存在します。この場合、異なる性質を持つものが隣り合っているだけに見えます。同じ存在だとは言えません」
「うん、でもそこに穴は見えるんやろ?」
「……はい。あるように見えます」
「この場合、問題になるのはやっぱり、君が言う記憶の継続性ってところやね。切断の前後でその本質に変化が見られた場合、何がその人をその人とたらしめる? 最初の問題に戻ったなぁ、どう思う?」
「……切断される前と後では、明確に別人です。ただ、本人の認識と他人から見たその人は分断して考えるべきじゃないでしょうか」
「うん?」
「他人から見れば、その人は継続した一つの存在です。本質に変化があっても、同じ文脈の上に立っているように思う。でも、本人からすれば切断後の自分しかわからない。主体が認識する自己像と、他人から見たその人では視点が違い過ぎるんです。だから、誰にとっての認識の話をしているかがまず、重要なんじゃないでしょうか」
サキコの場合、本人の自覚と他人からの評価が一致しているのが奇妙な点だ。切断という経験を持ちながらも継続性を保っているという認識は共通しているが、その理由はわからない。
「……いいね、いいわ。君からそんな言葉が聞けるなんて、×××も喜ぶやろな」
「はい?」
「何でもない。さて、いい感じに煮詰まってきたところで、別の事例についても考えてみよか」
レオナはニッコリと不敵な笑みを浮かべた。とっくに頭は限界なのに、この話も長期戦になるようだ……




