第十話 橙色の嵐
あちこちから炎が上がっている。
地面が上に、空が下にあるのだと理解していた。
俺の目は水平線を捉えている。
俺の足は地に着いているのに、逆さまに立っている。
確か前にも、こんなことが無かったっけ。
……上手く思い出せない。
灰色の空はひび割れて、炎から出る黒い煙がもくもくと下り、吸い込まれていた。
口を開くと、空気が泡となって煙とともに空に向かった。
それを見て、ここは水中なのかもしれないという考えが浮かんだが、それならあの炎はどうして燃えているのだろう。
何を燃やす炎なんだろう。
何でもいいか。
火は嫌いだ。
俺は蹲った。
焦げて真っ黒な煤に覆われた、でこぼこした地面だった。
手を伸ばす。
何も感じなかった。
自分の手を見て、俺自身からも色が抜け落ちてしまっていることに気が付いた。
そしてなんだか、どこか納得したような悲しい気持で満たされる。
赤い炎だけがこの世界の彩りだった。
火は嫌いだ。
赤色は嫌いだ。
火は嫌い。
嫌い。
とても怖いものだ。
破壊の色。
だけど灰色はもっと嫌いだ。
そこには何もない。
熱くもなく寒くもない。
あるのかないのかわからない色だ。
誰の目にも止まらない色だ。
燃やされ、破壊が尽きた後の色。
無個性で、無意味で、無価値で、誰からも必要とされない虚無の色だから。
怖い。
この場所は嫌いだ。
どこまでも開けているのに、どこにも行けない場所だった。
でも俺は知っている。
この場所こそが俺にふさわしい場所だと。
ここでしか生きられないのだと。
◇
目頭が熱く、鼻と喉の奥が詰まったような感覚で意識が浮上した。ゆっくりと目を開けると、貯まった涙が零れてしまい、急いで手で拭った。
さっきまで、とても悲しい夢を見ていたようだった。何も思い出せないのに、胸の中には悲しみという感情がへばりついている。だけど白い天井を見つめているうちに、それが何故そんなにも悲しかったのかわからなくなってしまった。別に大したことではないような、既に克服し解決した問題だったことを思い出すような、そんな感覚だった。
悲しみはあっさりと引いて、消えた。
「……すみません」
起こした身体は、驚くほどに軽かった。眠気による気怠さは残るが、それ以外に不快感が一切なくなったような清々しい感覚。確か俺は、BLESS中毒の再検査でトンを訪ねていたはずだ。検査を始める際、何故か眠りに落ちてしまったらしい。
「おはようございます、よく眠ってましたね」
閉じられていたカーテンがシャッと開かれ、トンのもちっとした笑顔に迎えられた。しかし何故か、彼の笑顔に身体が一瞬強張った。安心感どころか、恐怖にも似た不安を感じたようだった。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
きっと、勘違いだろう。さっきの夢の影響が残っているだけだ。
「俺はどのくらい眠っていたんです?」
「うーん、聞いても驚かないでくださいね……」
「……?」
「なんと、五時間です」
「えっ」
「さっきちょうど昼休みが終わったくらいですね。今から簡単な検査をして、問題がなければ通常業務に戻っていただいて大丈夫ですよ」
「待ってください、そんなに寝てたんですか?! 起こしてくれてもよかったのに……」
「いやぁ、あんまりぐっすり眠ってらしたので寝不足なのかなと。司書さんには上手いこと言ってありますから、今日は都合よくサボって行ってください」
トンに対し、さっきとは違う意味での不安感が沸き起こる。この人は、人をダメにする。もちもちしていて、一度身を預けたら二度と立ち上がることのできない、ビーズクッションと同じだ……!
「悪魔ですね……」
「ふふ、光栄です」
トンの頭に、禍々しい角が生えているように見えた。
悪魔に持たされた診断書を手に、すぐ向かいの文書管理室へと戻った。しんと静かな部屋の扉を開けるのは少し気まずかったが、トンが上手く口をきいてくれたおかげで和やかに業務に戻ることができそうだった。
「ではまた、お願いしますね」
「はい。不在の間ありがとうございました」
自分の席に戻り、久々にPCの電源を入れた。見慣れたデスクトップが表示される。BLESSの管理画面を開いても、俺の脳は数列をただの数列として処理してくれたようだ。安堵し、息をついたのも束の間。仕事に戻ってからほどなくして、次の嵐が慌ただしくやってきた。
「なぁ!ビビ君おる?!」
ノックもなく開け放たれる扉と、不思議なイントネーションの関西弁。目に飛び込む派手なオレンジ色の髪。研究開発部門主任、レオナが仁王立ちで立っていた。
「あの、いますけど……」
小さく手を挙げると、途端にレオナの表情がぱっと輝いた。
「司書!悪いけど彼、ちょっと借りるわ!」
「いや、勘弁してください。今やっと復帰したところですので」
「復帰?まあまあまあ、そんな硬いこと言わんで?減るもんじゃないやろ?」
「減ります。うちの戦力が。最近BLESSが活発なことご存じですよね? 問題が本格化する前に彼の教育も……」
司書が言い終わる前に、レオナは自身の両耳を手で塞いでわあわあと叫び始めた。
「知らん! ウチは今ど~~~~~してもビビ君が必要なんよ。貸して!」
冷静に抵抗を続ける上司と、駄々をこね始める他部署の主任。自分は一体何を見せられているのだろう。仮にも頭のいい人たちどうしの会話なのに。
「あの、どのくらいかかる用事なんですか?」
「ん?」
レオナはつり気味の大きな目を見開いたままきゅっと口を結んで笑うだけで、答える気はないみたいだった。隣で一連の流れを見ていたC君が、そっと耳打ちをする。
「ビビ君、嫌な予感がする。行かない方がいいよ、多分」
「うん、俺もそう思う」
しかし司書は大きくため息をついて、わかりました、と搾り出すように口を開いた。
「……今日は定時で帰しますので、そのあとご自由になさってください」
「えっ」
待て、勝手に決められては困る。また何時間も拘束されるのはごめんだし、今は前と状況が違う。
「嫌。今がいい」
「あの、だったら俺も今の方が」
「ダメです」
司書とレオナの、数秒間の睨み合い。そこに俺はいないようだった。
「……しゃーない。じゃ、五時に迎えに来るからな!首洗って待っときィ!」
制止する間もなく、レオナは開け放った扉もそのままに廊下を走って行ってしまった。
勝負は五分五分、なのだろうか。
「すみません、何か用事とかありましたか?」
「無いと言えば無いんですけど……」
いくらなんでも、うちにラボから盗んだMIMOがあって心配なので帰ります、とは言えなかったし、都合のいい嘘を練られるような余裕もなかった。
「申し訳ないですが、よろしくお願いしますね」
「はい……」
「ドンマイ、ビビ君……」
◇
司書によって俺の勤務時間が死守されたことにより、俺は本格的なBLESS管理の仕方を教わることができた。
問題のある個体を特定し、ガラス化と呼ばれる凍結処理を行う。管理画面から操作盤を表示し、MIMOの内部パラメータを編集する。主な内容はそういった流れとなる。
「イメージとしては、音声編集のやり方に似ているんですよ」
「はぁ……」
似ている、と言われたところで触ったことのない分野だ、正しく理解できたとは言えなかった。凍結処理の後、操作を始めると、BRAINの数値は波形に変換された。確かに、音楽やボイスレコーダーなどに表示されるようなボリュームバーに似ているようだ。
理論よりも難しいのは実際の操作だった。操作パネルのつまみをほんの少し触っただけで、波形の形は大きく変わってしまう。尖っていた部分が引っ込んだと思ったら、かけ離れた場所の山が大きく盛り上がるなど、予想ができないほど不規則な変化を見せたのだ。なるべく波形そのものの形が変わってしまわないように、また音割れする箇所が出ないように、かといって波形が小さく一定になりすぎないように……とにかく、ちょうどいい波形になるようにコントロールして試運転を行う必要がある。
そして、この作業にやり直しは効かない。C君がいつも恐る恐る触っている理由がよくわかった。
「あの、操作はわかりましたけど……司書さんはいつもキーボードで作業してますよね」
教わったやり方では、使用するのはほとんどマウス操作か、細かな数の入力に数字キーを叩く程度である。しかし見た限り、司書は異常が起こる度にマウスにはほとんど手を触れず、キーボードに噛り付いていた。
「ああ、それはアプローチの仕方が違うだけですから。Dr.Sというソフトは、BLESSやBRAINの管理をより感覚的、視覚的に操作しやすくするために作られたものなんですよ」
「そうだったんですか……」
つまり、本当はもっと専門的な知識や卓越した技術が必要となる仕事を、誰にでもできるようにするためのシステムだ。
「……もしかして、Dr.Sは司書さんが作ったんですか?」
Sは司書のイニシャルだ。しかし、司書は首を横に振った。俺の予想は外れたらしい。
「先代が作ったんです。初代室長さんですね」
「その人は今どこに?」
「……辞めました。随分前に」
静かに懐かしむような声。そしてほんの僅かに、力のこもった声に聞こえた。
「さ、これで一通りの説明は終わりです。もし困ったことがあったらすぐに言ってくださいね。頼りにしていますよ」
肩をポン、と叩かれた。頼りにしている。困ったら何でも聞いて。そんな言葉は、どちらもよくあるお世辞で、仕事を円滑に進めるために必要な定型文に過ぎないのだろう。でも、それを言ってもらえる場所には立てている。自分のしたことは棚に上げて、ほんの少しだけ嬉しく思ってしまった。




