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君のための世界  作者: 宇宙ネズミ
第三章 自由研究

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第九話 再検査

◇L10年10月30日(金曜)


金曜の朝。一週間で最も踏ん張りどころとなる一日の始まりだ。顔を洗い、着替えを済ませて台所に立つ。昨日の唐揚げおにぎりがまだ効いているのか、単に食欲がないのかは定かではないが、物を食べる気分ではなかったためコーヒーを淹れた。

E1-02は皿の上の食パンと、自分用のジャムカップとを交互に見つめては困ったように眉を下げていた。ペース配分というものを考えていなかったようで、早くも底をついてしまったらしい。


「あーあ。今月はもう買ってやらないからな。初日に使い過ぎたからだぞ」

「うん……」


しょんぼりと俯いてミミを下げるE1-02を眺めながら、優雅にコーヒーを飲み干した。今日の予定は、朝一からBLESS中毒の再検査だ。それが済めば、通常業務に復帰することができる。慌ただしく働く司書とC君に負い目を感じることもなく、BLESSやE1-02の調査も再開できるはずだ。

E1-02が朝食を食べ終わると、俺はまず、昨日買って来たドリルを二冊手渡した。


「なあに、これ」

「字の練習帳。今日の課題はこれだ」

「おお、がんばる」


テーブルの上を片付け、鉛筆削りを用意した。使い方も教えてみたのだが、大きな音は苦手なのか、時折肩が跳ねていた。ページ数を指定して、なるべく丁寧に時間をかけてやるようにと念を押す。わざわざ高くてしっかりした冊子を買ったのだ。まじめに取り組んでもらわなければ困る。


「で、こっちは折り紙と自由帳。字の練習が終わるか、飽きたらこれで遊んでいること。いいな?」

「うん?遊ぶのはお仕事?」

「いや、仕事じゃないけど……」

「やらなくてもいいもの?」


しまった。ここは上手く誤魔化して興味を持たせなければ。


「……やったら楽しいかもしれないぞ」


時間は圧していたが、ものの数分あれば事足りた。折り紙の包装を剥がし、青色を一枚取り出した。もう長いこと折っていないが、それでも手は覚えている。山折り、谷折り、折り跡をつけて、開く。何も見ずに淡々と紙を折り上げていくのを、E1-02は興味深そうにのぞき込んできた。やがて完成した折り鶴の、下から息を吹き込むようにと手渡した。


「そこに小さい穴があるだろ、そこから空気を入れるんだよ」

「やってみる……」


フッ、と軽い音がして、口を離したE1-02は目を真ん丸にして驚いた。


「膨らんだ……!」


ハッと何かに気づいた様子で折り紙を手に取ると、表紙に映った写真と見比べた。


「おんなじだ……」

「面白かっただろ。いいか、まずはドリルからだ。ひらがなだけでいいから、ちゃんとやるんだぞ」

「うん」


目をキラキラ、いや、ギラギラさせているE1-02にやや不安を覚えたが、さすがにそろそろ家を出なければまずい時間になっていた。玄関に向かい、すっかり日課になってしまった見送りを受ける。しかし、俺が扉を閉め切るよりも早く、E1-02は音を立てて勢いよく階段を駆け上がって行った。ただの折り紙が、そんなに面白かったのだろうか。何とも言えない照れくささと同時にモヤっとした不快感を感じ、急いで鍵を閉めた。


◇


救護室には、意外な人物が待ち構えていた。トンはもちろんとして、マリアナがサキコを連れていたのだ。彼らは二人と一体で談笑していた。


「あ、ビビだ!おはよ!」

「おはよう」


サキコが大きな耳をぴこんと動かした。丸くてくっきりとした目に、弾けるような笑顔。その表情は、E1-02とはやはり、全然違うように見える。顔の配置は似ているのだが、受ける印象や表情がどことなく違うのだ。


サキコに俺を怖がるそぶりはない。マリアナも、俺を見ても大した興味がないかのように視線をそらし、トンに離席する旨を伝えて席を立った。俺と入れ替わりに、一人と一体は仲良く腕を組んで救護室を後にした。


「おはようございます。司書さんから聞きました?」


トンが柔らかい笑顔で俺を見た。前髪の奥のころんとした両目が優しくて、安堵すると共に撫でられたことを思い出して、少し恥ずかしい気持ちになる。


「はい。定期検査ですよね」

「ええ。あれから少し経ちますが調子はどうでしょう?困ったことや、変わったことはありませんか?」

「いえ、特には」


トンはベッドの上に横になるようにと促した。彼の言うとおり救護室のベッドで仰向けになると、既に身知った天井と、それを取り囲むカーテンレールが目に映る。


「楽にしててくださいね」


トンは、もちもちとした手で俺の目を覆った。くすぐったいような、温かな体温を感じる。

その声と体温に、油断したからだろうか。意識が、身体の中央に向かって落ちていくような感覚があった。それは決して恐怖ではなく、深く、心地よい眠りに誘われるようだった。

初めて感じる感覚に戸惑いながら、眠ってしまってはいけないと思い直し、起き上がろうと身じろぎをする……しようとして、気付く。


身体が動かない。


重いとか、そういうレベルの話ではない。

まるで、意識と身体が遮断されてしまったようだった。

いつの間にか、温かなトンの手の温度や感覚までも失われていたことにも、初めて気が付いた。


唯一、トンの声だけが僅かに聞こえている。

しかし、耳に入る言葉はただの音に変換され、その意味は掻き消されていく。


途端に恐ろしくなり、抵抗しようとするも、やはり身体は動かない。



声が出ない、出せない。




俺の意識は引きずり込まれるかのように、暗闇の中へと沈んで行った。




◇


最近、ビビ君の雰囲気がほんの少し、和らいだような気がする。


ビビ君は元々、深刻な顔をしていることが多くて、いつもギリギリまで張り詰めているような、どこか陰のある人だ。髪はなんとなく傷んでいるし、目元にもクマがある。なんかよくわからないノートを取りながらブツブツ喋ったり、びっくりするくらい小食で、お昼はジャムやピーナツバターを塗ったサンドイッチだけ、なんて日もあるくらいだ。


仕事中は無口で、かと思ったら昼休みや終業後にはよく喋ったり、フラッとラボ内探索なんてことをしているらしかった。

意外と口も悪い……というか、MIMOに対する態度がとにかく敵対的で、司書との会話を盗み聞いていても、俺が知っているビビ君とはまるで別人のように見えるのだ。

まあ、所謂多層的な人、といったところだろうか。多層的、をよく理解しているかは自信がないけど。


そんなビビ君が、最近はほんの少しだけ優しくなった気がする。茶番を振れば乗ってくれるだけの余裕ができて、張りつめた感じもしない。ノートを触る回数も減っていた。


そして何より驚いたのは、ビビ君が田島からおにぎりを受け取っていたことだ。俺もそうだけど、ビビ君は多分、人から何かをもらったり、手伝ってもらったりするのが苦手だ。はっきりとは言えないが、なんとなくそんな雰囲気があった。

おにぎりの一件はその場で無理やり返すこともできただろうし、昼休みが終わるまでに返しに行けばよかっただろうに、彼は結局、鞄の中にしまっていた。


ちなみに、一緒に焼肉に行った日のことは例外だ。あの日のビビ君はいつもの三倍以上は食べていたし、お酒を飲んでいるイメージなんてゼロに等しかったのにごくごく飲んで、肉もお米も、それは美味しそうにもりもり食べていた。が、週明け早々に彼は倒れた。慣れない環境に無理が祟っていたのだろう、何かのストッパーが外れていたのだ。

あの日のビビ君は、最近のビビ君とは比べ者にならないほどに、ものすごくおかしかった。


『Cくん、おはよう』

『う、うん……おはよう』


焼肉の日の朝、ビビ君には後光が差していた。あんなに硬かった表情がすっかり柔らかくなり、髪や肌の艶もよくなっていたと思う。なんなら顔全体がぺかー!と、光ってさえ見えた。


(BLESS中毒、怖ぇ……)


ビビ君が倒れ、司書から症状の説明を受けたときピンと来たのだ。彼に起こっていた変化は明らかだった。BLESSの見すぎがどんな影響を与えるのか俺にはわからないけど、あそこまで人を変えてしまうとは、恐ろしすぎる。

最近穏やかに過ごしているのが後遺症や再発の前兆でなく、中毒からの回復傾向にあるならいいのだが。


そもそも、ビビ君が変わったのは本当にBLESSのせいなのか?  もしビビ君の変化がBLESSのせいならば、少し先輩の俺や、ずっとこの部屋にいる司書さん、ミハリ先輩達はどうだろうか。ミハリ先輩だけは異様に明るいけど、あれは元からな気がする。ナノ先輩もマイペースだし、キラキラぺかー!って感じではない。 司書さんは……あの人は何があっても揺らがなさそうだなぁ……

『職員C、見かけと事実は違うんだ。分離して考えることが大切だよ』

ふと、所長が以前言っていたことを思い出した。皆変わっていないように見える、元からそういう性格に見えているけど、もしかして俺以外の全員、既に人格が変化した後なのでは……?!  というかそもそも、俺自身も気付かないうちに人格が変わってしまった後なんじゃないか?!

不安になって、先週の自分を思い返してみた。


・粘着タイプのトラップにひっかかって転ぶ。危うく前髪を失うところだった。

・誤って必要な紙データを廃棄し怒られる。

・司書が可愛がっているサボテンのトゲが刺さった。

・ドアに挟まれた。

・立ち上がろうとしたら椅子を棚にぶつける、反動で落ちてきた空ファイルが頭に直撃。

・ケアレスミス、気が滅入る回数。


うん、俺だ。間違いなく俺は俺だと言い切れる。

ヤバい、涙出てきた。


思いっきり自分の頬を両手で叩いた。 司書がチラッとこっちを見た気がする。が、とりあえず気付かなかったことにする。今はただ、再検査に向かったビビ君が健康体であることを祈ろう。



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