第三話 文書管理室1
文書管理室という部屋は、最上階の最奥に位置していた。だというのに、俺たちはまるで迷路でも進むかのように建物の中を広く移動しながら目的地へ向かっていく。
「あの、最初の階段から行けば早いのにどうしてこんなに移動するんですか?」
「今は就業時間だから、ラボのトラップが作動してるのよ。階段もいくつか封鎖されるから、安全な道を選ぶ必要があるってことね」
「トラップ?」
アンは突然立ち止まり、大きく深呼吸をしたのちに振り返る。微笑んで見えるが、苛立たせてしまったようだ。
「ビビさん……手帳、全く読んでいませんね?」
「その……」
「いいですよ、私は困らないですから。でも、痛い目見るのはビビさんですからね」
アンは、目の前の通路を指さした。
「先に歩いてみてもらえます?」
「は、はい」
言われた通りアンの前に出ると、数歩先で突然足が床に吸い寄せられるようにして貼りつき、持ち上がらなくなってしまった。
「えっ、あの、これは?」
「先に進んでください」
「でも」
「でも、なんですか?」
表情一つ変えず、アンは微笑みを浮かべている。助けを求めることなどできそうになく、何でもないです、と返答した。
足元に目をやると、先日支給されたばかりの真っ白な靴が目に入る。靴はやたらと厚底で重く、何かの仕掛けがあるのかもしれない。俺はしゃがんで、靴ひもを解き、足を抜いた。幸い、靴下をはいた足が床に貼りつくようなこともなく、仕掛けがあったのはやはり靴だったらしい。
アンが何も言わないので、そのまま足を進める。すると、体重をかけた瞬間一部の床が沈み込み、足つぼのような突起物が現れる。
「いっ……」
地味だが確かな痛みが感じられ、思わず後ずさってしまった。
「ほら、痛い目に遭ったでしょう」
アンは言いながら、手元の端末を操作した。
「床の仕掛けは解除しましたから、靴を履いてください」
アンが言ったとおり、靴は簡単に持ち上げることができた。靴を履き直すと、アンは再びトラップを作動させ、通路に面した部屋の扉を開けた。
「部屋の中を通るのが正規ルートになりますから、覚えておいてくださいね」
案内された部屋は、誰もいない資料室のようだった。埃の被った本棚には、タイトルのない何かの資料が並べられている。
「中の物には触らないでください」
触るな、と言われるとそれなりに気になってしまうのだが、今は従うほかないだろう。アンは速足で資料室の反対側まで歩き、扉を開けた。
彼女が言ったとおり、トラップ地帯は抜けたようだった。
「何の目的でこんなトラップが?」
「さあね、所長の趣味じゃないかしら」
最終面接で対面した所長の、わざとらしい振る舞いが思い出される。確かにこういった悪趣味な悪戯を好みそうではあるが、それをわざわざ現実に作るだろうか?作るのも、動かすのも、維持するのも、なんと行ってもお金がかかる。
ラボでは、このようなトラップは日常になっているのだろうか。幼稚な出来事の連続に、頭が痛くなりそうだ。
「次の階段を登ったら到着ね」
最後の階段を登った先にトラップは仕掛けられていないようだった。
俺たちは救護室と書かれた部屋を横切り、その先の向かい側、文書管理室で足を止めた。
ペンキ塗りの扉と、すりガラスがレトロな雰囲気を醸し出している。扉の横には、何かのファイルや書類が束になって積み上げられていた。
「さ、今日からここがあなたの職場よ。準備はいい?」
「はい」
扉にはでかでかと『入室時はノックをお願いします』と丁寧な字で張り紙がなされていたのだが、アンは気にも留めない様子でドアノブに手をかけ開いた。すると足元で、積み上げられていたらしい書類とファイルの山が雪崩れ出る。
「司書さん!扉の前に書類置かないでっていつも言ってるじゃないですか!」
「あぁ、すみません。ですがアンさんも入室時はノックをしてくださると助かります」
アンは慣れた様子で書類をまとめると、通路に積まれた書類の上に重ね置いた。高さの増した紙束は今にも倒れそうなほど傾いている。
「さ、入って」
「失礼します」
雪崩れた書類に嫌な予感がしていたのだが、文書管理の部屋は想像を絶する光景が広がっていた。それなりに広さがあったと思われる部屋のほとんどの面積が、天井まで届く大きな棚と、床に積まれた書類の山で覆われていた。
部屋の中央にはデスクが四台……しかも一台は物置化している……と、コピー機が設置されていたが、それらと棚の隙間は人一人が通れる程度しかなさそうだ。閉塞感と圧迫感、加えて埃っぽい部屋の空気に気圧されながらも、どこかで居心地の良さを感じていた。それは、単に親近感を感じているのだと気が付いた瞬間、嫌悪感へと変化した。
「よし。それでは新人くん、自己紹介をお願いします」
誕生日席にはアーガイル柄のセーターを着た男性が、縦向きのデスクには眼鏡をかけた気弱そうな青年が座っている。彼らと目を合わせないよう、僅かに視線を落としながら口を開いた。
「ビビといいます。よろしくお願いします」
頭を下げる。我ながら素っ気ない挨拶だと思いながらも、他に言うことは思い浮かばなかった。少しの間が空いて、二人から拍手が送られる。
「じゃ、私の案内はここまでだから。司書さん、あとはよろしくお願いします」
司書と呼ばれた男性は立ち上がり、ご苦労様です、とアンを送り出した。
「さて、ビビさんでしたね。僕は司書といいます。よろしくお願いしますね」
司書、という名前の通り、知的で柔らかな雰囲気が感じられる人だった。栗色の髪は毛先がくるんとしていて、白衣は着ておらず、英国風の服に身を包んでいる。
社員証には、「Lev.4 司書」と書かれ、入所記念日はL0年、つまり研究所ができた当時から務めているらしい。顔写真は宙吊りではなく、ごく普通の証明写真が使用されている。
「もう一人、文書管理の仲間を紹介しますね。彼は職員C、半年ほど前から勤務してくれています。ビビさんの席は彼の隣です」
職員Cと紹介された青年の顔は、よく見ると見覚えがあった。彼は俺に向かって小さく手を振っている。
席に着き、司書から基本的な仕事内容の説明を受けた後、彼は嬉しそうに話しかけてきた。
「俺のこと、覚えてる?最終面接の日に少し話したんだけど……」
「もちろん覚えてます。あの時は心細かったから、話しかけてもらえて安心しました」
「よかった!ていうか、ため口でいいよ、歳もそんなに変わらなそうだし……敬語使われるとちょっと緊張しちゃうしさ」
「ええと……うん。わかった」
誰かと親しい口調で話すことには縁がなく、どうにも気恥ずかしい気持ちになって、口元がにやけそうになっていた。それがまた更に羞恥心を煽り、今自分がどんな表情をしているのかわからなくなる。
誤魔化すように、司書から教わった手順でPCを操作し、指定されたソフトを開いた。
『Dr.S』というソフトは、開くとログイン画面が表示された。教わった通りにキーを入力し、エンターキーを叩く。
『Hello Word』
画面には、青白く発光する球体の3Dモデルと、その隣に0と1が無数に表示されているタブが開かれた。数字のタブの上部には、最大値、平均値、標準偏差などの値が示されえている。
主な仕事内容は、このソフト内に表示される数字の桁数……つまり何かのコンピュータのビット数だと思われるが、その桁数の監視だった。とてつもなく大きなデータ量の何かであるとは見て取れるが、その正体については説明がなされなかった。
「BLESS……?」
球体と数値の上部にはそれぞれ、BLESSと表示されている。それが、このデータの名前だろうか。
「職員Cさんは何か知ってるの?」
「C君でいいよ。俺もビビ君って呼ぶから。で、BLESSだけど、俺も詳しいこと、知らないんだよね」
C君は肩をすくめて見せた。司書さんにも聞いてみたら?と促され、訊ねてみたのだが、期待するような答えは返ってこなかった。
「知らなくても仕事はできますから」
司書は画面を見つめ、キーボードを叩きながら慣れた様子でそう答えた。C君によれば、これが彼の口癖だとのことだった。
「ま、見ての通り監視といってもすることないからさ。基本的には書類を仕分けたり、回収に行ったり届けに行ったり……そんな感じをイメージしてくれたらいいよ」
「なんで文書管理なんだろうと思ってたけど、そういうことか」
「そそ、むしろそっちがメインだと思っていいよ。まあ……荒れ始めると大変なんだけどね」
C君はそう言いながら、あちこちに積まれた紙束を適当にとっては仕分けを始めていた。ファイルに閉じられていないものは全て未処理の書類らしく、司書からの指示も、どこからでもいいからとにかく手を付けてくれ、という内容だった。
C君に倣い、席の近くに積み上げられていた紙の束を一塊、デスクの上に置いた。
「なんだこれ……」
書類の内容は、意味不明な暗号のようなもので書かれていたり、BLESSの記録らしい0と1の羅列と、そこに書き込まれたメモのようなもの、どこに貼られていたのかもわからない付箋、仕事とは関係のなさそうな買い物のメモなど多岐にわたり、それらが何の脈略もなく入り組んで積まれているようだった。
「はは……大丈夫だよ、そのうち慣れるから」
「この部屋の書類、全部こんな感じなんですか?」
「まあね……あ、これだけは気を付けてほしいんだけど、メモとか付箋も捨てちゃダメだよ。あと、レベルが指定されてる書類は司書さんに渡してね」
C君はそう言ってデスクの中からクリアファイルを一枚取り出して見せてくれた。
「これがラボで使われてる報告書なんだけど、レベルを書くところがあるでしょ?ここに3以上の数字が書かれてたら中身は読まないでね」
「え、なんで……」
「さあ、それはわからないけど。ほら、知らなくても仕事はできる、ってやつだよ」




