第六話 それゆけ!おにぎりくん
喫茶店の窓から、強い雨が降っているのが見えた。幸い、鞄の中には折りたたみ傘が入っている。多少濡れてしまっても、あるのとないのとでは大きな差だ。
注文したコーヒーが届くと、鞄から二冊のノートと、ボールペンを取り出した。一冊はラボで使用しているもので、もう一冊はE1-02に与えたものだ。部屋を出る直前、拾って来た。
仕事用のノートには、破られたページのあとに司書と話した内容が記されている。
◇
・適切な終了処理と、そのための回収部門、そして文書管理室。
・何故、BRAINという単語が隠されていたのか。
・処理とは何のことか。
◇
書かれた文字を何度読み返しても、思考は一向に深まらない。
もう一冊のノートに気を取られているせいだった。
E1-02に与えたノートを手に取った。今朝はまだ新品だったのに、既に表紙の角は擦れたり折り目がついていて、丸めたような跡がついている。
ノートを開くと、最初のページには罫線をはみ出しながらも文字らしき何かが書き連ねられていた。しかし、どれも文字というには歪すぎて、とても読めたものではなかった。
かろうじて読むことができたのは数字で、アニメの何話に関する記述かだけは判明した。が、途中からその数字すら見かけなくなり、文字ではなく絵が混ざるようになった。恐らくアニメのキャラクターや展開を伝えるための絵だと思うのだが、後半はただのらくがき帳と化している。
なぜ文字が壊滅的に書けないのだろう。
人間の幼児のように未発達。成長する? そんなわけがないのに。
描かれた絵も、子供が描いたように拙いものだった。
掠れた黒鉛と紙についた傷も一緒に残っている。鉛筆の芯が尽き、無理やり強い圧をかけて描いたようだった。文字は読めなくとも、絵から何とか内容を解読しようと試みた。
が、俺の拙い想像力では、アニメのキャラクターたちの顔と、爆発や何か強い衝撃を思わせるギザギザがあちこちに描かれている、としか読み取ることができなかった。
まるで、解読方法のわからない象形文字を読み解こうとする考古学者にでもなった気分だった。起承転結があるでもなく、アレにとって印象に残ったシーンを書き連ねただけのようでもある。ここで一人奮闘するよりも、直接聞いた方が早いかもしれない。
E1-02とは、家を出るまで言葉を交わすことはなかった。家にいるようにとの指示も出さずに出てきてしまったが、また勝手に出歩いているのではないかと内心焦りが募っていた。
それに、先ほどから急に振り出した雨のこともある。もし、俺を追いかけて部屋を出ていたら? コーヒーを持つ手が僅かに震えているようだったが、気のせいだと言い聞かせる。
◇
結局、コーヒーを飲み終える前に喫茶店を後にした。雨は一層激しくなっていたが構わなかった。小さな折りたたみ傘を手に家路を急ぐ。
E1-02は部屋の中にいた。俺が玄関扉を開けると、勢いよく階段を駆け下りて俺を出迎えた。今にも泣きだしそうにくしゃくしゃな顔をしていた。その顔を見て、やっぱりコーヒーの一杯程度、飲み切ってから帰ればよかったと後悔が押し寄せる。
「おかえり……」
おずおずと呟き俺の様子を窺っているようだが、狭い玄関ではただただ邪魔なだけだった。E1-02を押しのけ、部屋に上がった。小さな折りたたみ傘ではやはり肩が濡れてしまい不快だった。
「ビビ、命令破ってごめんなさい」
濡れた服を着替えようと手をかけたところで声をかけられ、ため息を吐く。
「後にしろ」
E1-02はしょんぼり俯いて、初めて会った時のようにベッドの陰に隠れるようにして座った。脱いだ服を洗濯籠に入れたところで、洗濯物を干したままにしていたことに気が付き、ベランダに向かった。窓に駆け寄ってカーテンを開く。が、そこに洗濯物はかかっていなかった。
「あの、お洋服入れといた。雨降ってきたから……」
窓とベッドの間、足元のE1-02が言うとおり、干しっぱなしだった洗濯物は衣装掛けに並んでいた。
「か、勝手に触ってごめんなさい、けど困ると思って、ホントはダメなのわかってたんだけど、でも、でも、雨だったから……」
E1-02はへにゃりとミミを畳んだまま、膝を抱えて小さな声で弁明を繰り返した。よく見ると、Tシャツには斑に濡れ痕が残っていた。
「わかった。もういいよ」
遮光カーテンを閉め、適当に着替えを済ませて台所に向かった。マグカップを二つ取り出して、コーヒーを淹れる準備に取り掛かる。
俺は、人に何かをされるのが苦手だ。例えそれが、俺を喜ばせようとか、役に立とうとしてくれたことであっても、返せない負債を背負わされるように感じていたその正体は罪悪感と、拭えない劣等感によるものだ。
E1-02に悪意はない。俺にとって役立つことは何かを考え、判断し、行動に移す。出された指示もこなしている。でもそれが終わった時、奴の中には何が残るのだろう。
多分、何もないんだ。
名前もなく、何の役割も与えられていない。
そんな時、奴はどうやってこの世界に存在できるのだろう。
頬を叩いた右手が、まだ少し痛んでいるような気がして不快だった。E1-02の境遇を、どこかで自分に重ねてしまっている。
今でも俺は、E1-02に人格はないと思っている。だからこれは、少しでも答えに近づくために奴を知るための、共存のために行うことだ。言い訳めいた自分自身への説得だった。
湯が沸くと少量ずつ注いで、片方には砂糖を少し多めに入れて混ぜ合わせる。氷を入れると、急な温度の変化にパキパキと割れる音がした。冷蔵庫から牛乳を取り出してなみなみと注ぎ、カランと涼しげな音を響かせテーブルに運ぶ。
「そこ座れ」
声をかけるとE1-02はベッドのフレームから顔を出し、ミミをへにゃりと下げた。
「いいから。こっち来て、座れ」
向かい合う形でダイニングテーブルを囲んだ。机上にはミルクコーヒーが二つ。
「……飲め」
指示の通り、E1-02はテーブルに置かれたコップを手にとった。一口付けると、完全に畳まれていたミミがほんの少し開いた。そんなE1-02の前にノートを取り出して、ページいっぱいに絵が描かれたページを開いて見せた。
「これ、何を描いていたのか教えてくれないか」
沈黙に耐え切れず、甘さの控えめなミルクコーヒーを啜った。E1-02は俺とノートを交互に見やった後、ミミをゆっくりと開いて頷き、小さな手で指をさしながら説明を始めた。
「これはしゃけおじさんでね、こっちはたらこさん。飼ってるネコはおかかって言うんだよ」
「ふうん」
最初の説明は、ほとんどの人が知っているであろう内容から始まった。なんとか特徴をとらえているものの、やはり上手いとは言えない絵だったが、どのキャラクターも口や目元がニッコリと笑っているのは見て取れた。
「あ、今日遊んだ子はツクダニっていうんだ」
あの猫、名前を付けてもらったのか。E1-02がつけたにしては随分と渋いネーミングセンスだった。というか、動物につける名前としてあまり可愛くない。アニメの中に出てきた単語をそのまま使ったのかもしれない。
「こっちは?」
俺は、黒く塗りつぶされたキャラクターを指さした。他のキャラクターたちとは違い、彼だけが涙を流している。
「くろかびくん。あのね、くろかびくんはやっぱり、悪者じゃないよ」
「おにぎりくんも、ヒーローじゃないんだっけ」
「うん。二人は本当は仲良くしたいの」
E1-02はページをめくりながら説明してくれた。動物たちが楽しそうに遊んでいるところに、くろかびくんがやってくる。みんな彼のことが嫌いで、意地悪されるのが嫌で逃げてしまうんだそうだ。
「けど、それはくろかびくんが悪いんじゃないか?皆に意地悪するから嫌われてるんだろ」
「ううん、皆から仲間外れにされたのが悲しかっただけ」
もう一度見たい話があるというので、ノートパソコンを起動し、動画投稿サイトを開く。E1-02が指した動画を再生すると、概ね説明された通りの展開が続いた。
ピクニックの仲間外れにされたくろかびくんは、怒って皆が楽しみにしていたお弁当をカビさせてしまう。動物たちがそれに気づいて泣いていると、そこにおにぎりくんがやってくる。彼は何故こんなことをしたのか、皆に謝るようにと説得を試みた。
しかし、くろかびくんは更に怒りだし、自作のマシンに乗っておにぎりくんを倒してしまった。頭がカビまみれになり力が出なくなったおにぎりくんに対し、くろかびくんは楽しそうに笑って喜んでいる。
ピンチに陥ったおにぎりくんの元に、炊立てのご飯を持ったしゃけおじさんが駆けつけた。頭を交換すると、おにぎりくんはたちまち元気を取り戻してくろかびくんに容赦ない一撃を見舞った。くろかびくんはやはり、お決まりの悲鳴をあげて空の星になった。
「ね、悪くないの」
E1-02はじっと画面を見つめていた。くろかびくんを追い払ったおにぎりくんは動物たちに感謝され、しゃけおじさんは皆におにぎりを作って配ることで、楽しいピクニックが再開した。
対して、自分の基地に戻ったくろかびくんは一人、壊れたメカの修理をしながら悔し気に泣いていた。
「……でも、くろかびくんは一度おにぎりくんをやっつけて喜んでいたし、皆のお弁当もカビさせたじゃないか」
手に、丸い後頭部の感触が思い出されていた。あの、給湯室での出来事だ。
「うん。でも、ころしてないよ。おにぎりくんも、くろかびくんが寂しいって知ってるの。だけど、悪いことしたのはほんとだから、やっつけるしかないの」
本当は違うのにね、と呟く姿に、かける言葉が見つからなかった。アニメの中では、一見平和が取り戻されたように思えた。しかし、くろかびくんの孤立や仲たがいの原因は何一つ、解決されていない。
俺は自分の右手を見た。
サキコを水で破壊し、E1-02の頬を叩いた手だ。
「くろかびくんは、いつか寂しくなくなるかな」
「うん。なれるよ」
「どうしてそう思う?」
「二人とも、諦めないから」
とろんと溶けそうな目を細め、E1-02は笑った。




