第三話 ままならない
目覚めると、知らない天井を見ていた。少し頭がぼうっとするが、気分は悪くないようだ。
体を起こそうとすると、重い抵抗を感じた。
気怠くて、とても動けそうにない。それに……
「お腹空いた……」
しゃ、とカーテンが開かれ、初めて見る顔の……医者風の男が顔をのぞかせた。
「おはようございます。気分はどうですか」
「気分……は悪くないんですけど、ここは?」
男は自らを産業医のトンと名乗った。肌は白くもっちりとした体型をしていて、癖のある前髪をブタのモチーフがついたヘアピンで留めている。彼の社員証によれば、Lv.5の職員らしい。その社員証にも、可愛らしいブタの絵が描かれている。
「ここは救護室です。倒れたこと、覚えてますか?」
「いえ、全く」
直前の記憶は、自分のデスクについた瞬間だった。その直後からの記憶が飛んでおり、気付いたらベッドに寝かされていた。
「何があったんですか?」
「BLESS中毒という症状です。管理画面を長く、継続的に見続けることで起こる発作のようなものですよ」
「はぁ、大丈夫なんですか、俺」
「ええ、後日検査が必要ですが、今日のところは問題ないでしょう」
体は起こせそうですか、と聞かれ、俺はもう一度体に力を入れる。なんとか上体を起こして頷くと、トンはスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。ありがたく受け取り、口をつける。
「発作の原因はBLESSとの接触ですから、今日はもう仕事をせず帰宅していいそうですよ。どうされますか?」
「え、大丈夫ですよ。他にも仕事はありますし……書類整理くらいなら問題ないですよね?」
「えぇ、ただかなり体力を消耗していますから、きちんと食べてから戻ってくださいね」
頷き、もう一口スポーツドリンクを口に含む。よく冷えていて、ぼんやりとしていた頭が冴えていくようだった。身体も少し軽くなったような気がする。
「あの、先生」
「はいはい?」
トンは自分のデスクの椅子に腰かけ、カルテを抱えている。
「BLESS中毒って、具体的には何ですか?全く覚えてないんですけど……」
「ああ、詳しい説明がまだでしたね。光敏性発作の一種だと考えられています。フラッシュや激しい点滅で気分や意識に障害が出ると聞いたことは?」
「あ、あります」
「BLESSは数字の切り替えが激しくなる瞬間がありますから……それを直視してしまうと、時折意識の混濁や記憶障害を起こすことがあるんです。珍しい症状じゃないけど、疲れがたまっていると起きやすいね。医者としては、今日のところは家でゆっくりされることを推奨するかな」
トンは柔らかく笑って立ち上がると、ベッドのそばに来て、俺の頭にぽんと手を置いた。
「大丈夫です。休んでも誰も怒ったりしませんし、責めたりしませんよ。ゆっくり休んで、元気になったらまた頑張りましょう?」
トンの掌は厚く、指までもちもちの温かい手だった。誰かに撫でられることは久々で、恥ずかしいような、そわそわと歯がゆい気持ちになってしまった。
「あの、わかりました。今日は帰ります」
「うん、よろしい」
トンの笑顔には、どんなに気持ちが張りつめていても和らげてくれそうな不思議な力がある用だった。今日が初対面だというのに、安心感と、何故かほんの少しの懐かしさを感じていた。
文書管理室に戻り、鞄とノートを回収した。C君には随分と心配をかけてしまったようで、俺の顔を見るなり泣き出しそうな勢いであれやこれやとまくし立てていた。
「ほんとにほんとに心配したんだからね!ビビ君急に固まって、そのあと倒れで痙攣し始めて、トンさん呼んで戻ってきたら意識無くなってて……!」
「大丈夫だよ、先生も少し休んだらよくなるって言ってたから」
「仕事の心配はいりませんから、ゆっくり休んでくださいね」
「はい……ありがとうございます。お先に失礼します」
司書に頭を下げ、文書管理をあとにする。時刻はまだ午後三時を回ったくらいで、そのまま帰るには少しもったいない時間だった。お腹もすいているので、どこかで昼食を食べるのもいいかもしれない。少し遠回りにはなるものの、俺は駅の方面に向かうことにした。
◇
駅前のファミレスに入って料理を注文し、鞄の中からノートを取り出した。もしかしたら、倒れる直前まで何かを記入していたかもしれない。
しかし、ノートを開いて絶句した。あるページから数枚、破り取られたような痕跡だけが残されていたのだ。最新の書き込みは、昨日の日付で止まっている。
文書管理室には司書とC君しかいなかったはずだ。産業医のトンもまた、救護室に人を残して離れるわけにはいかないはず。必然的に、ノートを破ったのは司書か、C君ということになるが、考えるまでもなく答えは明白だろう。
情報の統制は司書の仕事だ。
そして長く勤めている彼なら、当然BLESS中毒の症状も知っているはずであり、俺の記憶が混濁するのも知っていたはず。それを利用して、何かの情報をもみ消したのだと考えられる。ノートの内容は、司書にとって都合の悪いものだったのだろう。
失った記憶を辿ろうと試みるが、やはり思い出せるのはデスクの前に座ったところまでだった。そもそもBLESS中毒とは、トンが説明した光敏性発作の一種という話すら疑わしいのではないだろうか。ラボなら何かを隠すために組織ぐるみで工作することだって……
その時頭を撫でるトンのもちもちとした掌を思い出した。あの人は間違いなく医者で、人をだまそうとか、そういうことが出来るようには見えなかった。信じたい、とも言うのだろうか。これもトンが言うように俺が疲れていて、それによって考えすぎてしまっているだけなんじゃないか。
ノートを破ったのも、今はまだ司書だと決まったわけではない。後日探せばいいことだ。付箋一枚捨てることもない文書管理室なら、きっとどこかに保管されている。
ノートを閉じ、深呼吸をする。ここのところ俺は、どうかしている。
◇
部屋に帰ると、朝見たままの景色ではなくなっていた。
やらなくていいと言ったはずの洗い物が片付いていて、ベッドや脱いだままのパジャマが直され、さらには干しっぱなしにしていた洗濯物が畳まれ、重ねて置かれている。状況の変化が苦手な俺にとって、快適になったことよりも不快感が勝るのだが、それ以上に大きな問題が発生していた。
「ご、ごめんなさい……」
台所で、床に落ちて割れた瓶とまき散らされたジャム、そしてその前に膝をついて呆然とするE1-02の姿があった。
◇
「一応聞いておく。なんでこんなことになった?」
割れた瓶の片づけと、床に散ったジャムの掃除。EI-02に飛び散ったジャムも拭き取った後、床に正座させて対面する。
「あの……見るだけならいいかなと思ったの。そしたら瓶が滑って落ちちゃって……」
「瓶は勝手に落ちたりしない。落としたんだろ」
「……落としました」
大きな灰色のミミをへにゃりと下げ、項垂れる。態度だけは一丁前だが、本当に反省しているのだろうか。いや、責任能力のないこいつにそんなもの求めても不可能だろう。
「洗い物は?やらなくていいって言ったよな」
「うん……でも、やった方がビビの役に立つと思ったの」
「他のもそうか?」
「うん」
仕事熱心なのはサキコ譲りのようだが、やるなと言っても勝手に行動されるのは不愉快で、世話を焼かれているような状況に苛立ちが募った。MIMOに面倒を見てもらわなくても、一通りの家事もできるし、暮らしていくのも充分に可能だ。相手がMIMOでなくても、身の回りの世話を焼かれるのは好きではない。
お前は一人では生きていけない能無しだと言われているような気分になる。
「何もしないでいることはできないのか?」
「できるけど……何か役に立ちたいの」
「役に立つとか、役割がどうとか、そんなのばっかりだな」
まともに取り合うと余計に疲れてしまいそうだった。今日発作を起こしたのも、ほとんどコイツのせいでたまった疲れやストレスが原因になったのではないだろうか。
もしE1-02が俺の役に立つのだとしたら、俺の生活に干渉せず、できればいなくなってもらうことだが、それは不可能だろう。コイツを家から追い出したとして、一人彷徨っているところを保護されラボに送られれば、口止めしたところで俺のことを何でも洗いざらい話してしまいそうだ。
一つだけ、コイツを置き去りにするのにちょうどいい場所がある。その場所を思うと、微かにアンバーウッドの香りが蘇った。奥に入れば出ることも難しく、野良のアンドロイドが彷徨っていても不思議ではない場所だ。
しかし、その場所には二度と立ち入らないと決めていた。
俺は、買い物袋をE1-02に差し出した。帰り際、スーパーに立ち寄り買って来たものだ。
E1-02が恐る恐るビニール袋の中から取り出したのは、新しいジャムの瓶と、それよりも少し小さめな、紙のカップに入った安物のジャム。
「紙の方はお前のだから。ただし、一か月に一個しか買わない。足りなくなっても文句言うなよ」
E1-02の悲しげな表情は、弾けて消えた。とろんと垂れた目を輝かせ、力いっぱい頷いた。




