第二話 白昼夢
◇L10年10月26日(月曜)
呼ぶ名前が無いというのも困るので、とりあえず『E1-02』と呼称することにした。E1-02は従順で、俺の言うことにはなんだって従った。掃除を頼めばテキパキこなすし、座っていろと命じれば何時間でもそうしている。夜眠っている間もおとなしく床で丸まっていたし、買い物に出る間の留守番も難なく過ごせていた。この調子なら、仕事に出ても問題ないだろう。
問題があるとすれば、エネルギー補給の方法についてだ。MIMOの充電には専用の充電スポットが必要だが、当然そんなものは持っていないため、食事で賄う必要があった。
回収部門の研修で試食した専用のタブレットが最適だということは理解しているのだが、わざわざMIMOのための物を買うことに抵抗があった。だからこうして、物置と化していた椅子を開けて食卓に着かせている。
「ビビ、それなに」
自分のトーストにイチゴジャムを塗っていると、E1-02は小さな鼻をひくひく動かして俺の手元をじっと見つめていた。
「ジャム。お前にはまだ早い」
「美味しそう」
生意気にも、MIMOの分際で物欲しそうな目でジャム瓶を見つめていた。E1-02の皿には、焼いてもいない食パン一枚が置かれている。
「それで十分だろ。文句言わずに食え」
「私もそれ欲しい」
何故、MIMOごときにジャムが要る。エネルギー補給ができればそれでいいはずで、ジャムなんて言ってしまえば嗜好品の領域だ。それに、ジャムはもう残り数日分しか残っていない。こんな状況で贅沢を許すほど、俺は甘くない。
ジャム瓶の蓋を閉めて、すぐに冷蔵庫にしまった。冷蔵庫は、触ってはいけないと命じているものの一つだ。
「ジャム……」
しょんぼりと項垂れるE1-02の目の前で、ジャムトーストを思いっきり頬張った。特段美味しくなったわけでもない、いつもの味だった。
朝食を済ませると、コーヒーを入れたタンブラーと仕事用の鞄を手に、玄関へと向かう。
E1-02は、別に頼んだわけでもないのにのこのこついてきた。見送りに来たのかと思ったが、奴の期待に満ちた目で見つめられ、気付いた。
役割と名前。そして次にするべきこと。
それを与えられるのを待っているのだ。
「洗い物もそのままでいいから、何もせず待ってろよ。わかったか?」
留守番の命令を出すと、E1-02は嬉しそうに頷いた。ドアノブに手をかけながら、俺は言葉を探していた。こんな時、なんて言うのだったか。
「……行ってくる」
「いってらっしゃい」
扉を閉め、鍵をかけると大きく息をついた。確か、これでいいはずだ。
しかしすぐに、自分の行動に対する嫌悪感が沸き上がる。こんなやりとりは不要だ。
鞄とタンブラーを右手に持ち替え、左耳をぎゅっとつまんだ。
◇
BLESSの管理画面を開く。続けて、個体別の番号……BRAINと呼ばれるMIMOの内部システムの一覧を表示する。E1シリーズのタブを開くと、E1-02は稼働中となっているが、詳細なデータは不明となっている。その他のE1シリーズとの連携も切れていた。
管理画面からわかったことは、E1-02は今も元気に稼働中で、サキコとは違う系統の存在であるということだけだった。ノートを開き、書き込む。
◇
・E1-02が起動した。詳細はDr.Sでは観測できない。
・E1-02は他E1シリーズとの連携が切れている。
→サキコとは別個体として起動したらしい。
◇
たったそれだけでも、重要な手がかりであることに変わりはない。
それから、稼働中のほかE1シリーズの挙動を観察してみることにした。今日稼働しているのはE1-04、05、07の三体だった。それぞれの内部ログを横に並べ、観察する。
しかし、奇妙なことが起こった。ばらばらに切り替わる0と1の羅列が歪み、大きく膨らんでは萎むように見えたのだった。確か、初日にも同じ錯覚が起こったことを思い出す。
「……あ」
突然、視界に異変が起こった。テレビのチャンネルを次々に切り替えるように、見ている景色が唐突に変わり、流れていく。実際には文書管理室を見ていると認識はできているのに、白昼夢でも見ているかのように、誰かの視界が強制的に映し出されるような。
誰かが俺の名前を呼んでいるみたいだった。
しかしその声は遠くくぐもっていて、よく聞こえない。
俺の意識は強制的に、誰かの世界に引き込まれていった。
◇
見慣れたラボの通路に立っていた。内装から察するに、A棟のようだ。
数歩先には金網の床があり、頭上にはジェルの噴出口が光る。
目の前には、「この先危険!」と書かれた立札が立っていた。
こんなもの、あったっけ。
俺はそいつを勢いよく蹴飛ばした。気分がいい。
何者も俺の行く手を阻むことはできないのだ。
今日はなんだか行ける気がした。
すべてが手に取るようにわかるという万能感、きっと今日はこのトラップは発動しない。
根拠のない自信が湧いてきて、俺は金網の上に一歩踏み出した。
しかしその直後、頭上から勢いよくピンク色の液体が降り注いだ。
万能感は消え失せ、心の中が恐怖と後悔で満たされていく。
首の後ろに、冷たい液体がしみ込んでいく感覚。
中に入った途端、焼き付くような痛みに変わると身体が知っていた。
それは何度も、何度も何度も繰り返し体感してきた痛みだった。
俺は動けなくなった。
下手に身体を動かしてジェルが垂れれば、いつ体内に侵入してくるかわからなかった。
ただ、悔しかっただけなのに。
そこに、近づいてくる足音が聞こえた。なんとか目だけを動かして、その人物を確認する。
白い髪を二つに結んだ青い目の少女、サキコだった。
大きなネズミのミミは無く、代わりに人間の耳がついている。
「……助けてくれ」
彼女に向かって手を伸ばしたが、俺は彼女がどんな行動をとるのか理解していた。
それでも助けを求め、懇願する。
お前は知ってるはずだ、この恐怖を知っているなら、助けてくれ。
「なんで?」
サキコは楽しそうに笑っていた。
面白いものを見るように、可笑しくてたまらないという目で俺を見ていた。
「だってビビ、人間じゃないじゃん」
伸ばした手をそのまま、自身の耳に持っていく。
当然そこにあるはずのものはなかった。
俺はそのまま、さらに頭上へと手を伸ばした。
短い毛足の布に覆われた、丸いミミが生えていた。
◇
「ビビさん!」
「ビビ君!」
突然、ビビの様子がおかしくなった。
何か呟いたかと思ったら、一点を見つめたまま硬直し、やがて怯えるように震えだした。
ただ事じゃないと駆け付け、呼び掛けても体を揺らしても、彼の反応はなかった。
BLESS中毒……その言葉が脳裏をかすめる。
「職員C、すぐに産業医の先生を」
「は、はい」
職員Cはすぐに文書管理を飛び出していった。産業医のいる救護室は目の前で、それはこのような事態が起こった時のための配置だ。彼が来てから、いつかこんな日が来るのではという気はしていた。職員Cが出ている隙に、必要な『処理』を済ませる。
「先生来ました!」
処理の完了とともに、産業医のトンを連れて職員Cが戻ってきた。職員Cに文書管理を任せると、トンと二人で意識のないビビを救護室へと運び込んだ。
◇
「間に合いましたか」
「ええ、司書さんの判断のおかげです」
産業医のトンが穏やかな笑みを浮かべ対面に座った。彼は白くもっちりとした手で、ビビのカルテを抱えている。
どっと疲れが押し寄せ、天井を仰いだ。カーテンの奥、治療を終えたビビはいまだ眠り続けている。呼吸は安定しており、自然と目覚めるのを待つしかないらしい。
「それで、診断の方は」
「うん、やっぱりBLESS中毒とみて間違いないだろうね」
「まさか、本当に起こるとは」
「ええ。このこと、所長に伝えても?」
「かまいません。どうせ、隠せるものでもないでしょう」
大きくため息を吐く。そのとき微かに、煙草の臭いがすることに気が付いた。
トンにもビビにも喫煙の習慣はない。きっとまた、もう一人の産業医の仕業だろう。
「……これで、はっきりしましたね」トンは力なく笑った。
「ええ……もう、止まらないでしょうね」
結局、博士が懸念した通りになっている。特異点が出現してしまった以上、次に問題なのはそれがいつ活性化するかだ。出来る事なら深く介入したいのだが、それは禁じられている。
「所長の方針は変わりませんか」
「ええ、見届けるつもりのようです。レオナさんも頑張ってくれてるけど、打開策も今のところは、ね」
もう一度、大きく息を吐く。こうなってしまった以上、できることは限られている。
そしてそれは、これまでと何一つ変わらない。
どうせ終わる世界なら、その最期だけは穏やかに。
博士が残した言葉を、胸の中で呟いた。これが、文書管理室の理念である。
僕に与えられた司書という名前。
その役割は、情報の管理とBLESSの延命である。




