杯の砕ける刻
「思い出した? アンビティ弟。冷たいふりをしていても、危険になったらちゃんとお姉ちゃんを守ってくれるんだもの」
「でもおまえが未来を見通せるなら、陰謀なんてとっくにわかっていたはずだ。自分で片付ければ済んだ話だろう」
「お姉ちゃんにもざっくりとした未来しかわからないの。女神様は全部は教えてくれない。そんなの面倒だからって。それに知っていたとしても、対処しにくいし。アンビティ弟だって知らなかったでしょう? だからアンビティ弟がお姉ちゃんを助けてくれたことに変わりはないのよ」
「違う。利害の最大化を考えただけだ」
「じゃあ、お姉ちゃんのためにあんなに人を殺すのかしら」
「邪魔になる敵を放置しなかっただけだ。それにプリミ・グネイアはまだ生きてるだろう」
「素直に認められないところも、可愛いわ」
ヴィエルヤが私の頬に手を添え、唇を重ねてきた。思考は、あの夜の会議へと引き戻されていった。
——
ヴィエルヤに名簿を報告してから二週間後。機密保持のため、宮相と協議の上、皇宮の常駐衛兵は使わず、領地から連れてきた二百名の親衛隊で計画を実行することに決めた。
「アルノフ。おまえは通常通り、おまえを含めた五十名を率いて軽甲を着用し、宴会場の出入口と窓に分散配置しろ。残りは使用人に扮装させ、武器は食器の中に隠せ。俺が"計画"という言葉を口にしたら、武器を取り出し、来賓を全員殺せ。一人も逃がすな。わかったか」
「はっ」
「了解」
従者たちに段取りを言い含めると、異口同音に応答が返ってきた。
戦場や獄中以外で人を殺すのはこれが初めてだった。来る者たちは老齢の女性ばかりで、厄介なのは彼女らの護衛程度のものだろう。それでも緊張は隠せなかった。
夕刻になると、ヒルヴァ司教が黒い外套に身を包み、最初に姿を現した。その後、各地の司教たちが三々五々と到着した。いずれも旅の疲労をまとい、滄桑の色が深い。
ふと考えた。老いた身体で危険を冒してはるばる赴き、束の間の休息の後に事を起こそうとした。この年齢で一念発起した末に、ここで命を落とすのだ。哀れといえば、哀れだった。
「お久しぶりです、ヒルヴァ司教」
「お主もな、セナトール伯爵」
「以前は気にもしなかったが、こうして見ると——聖教の上層部は女性しか就任できないんだな。男は能力があっても、せいぜい地方の主教止まり。各地区の最高指揮官も女性の司教が率いている。不公平ではないか」
話題作りも兼ねて、大勢の聖教女性高官が集うのを見ながらつい口にした。
「セナトール伯爵も言いよるの。世俗では相続にせよ権力にせよ、男性が女性より優位ではないか。そもそも神御自身が女性じゃ。女神に仕え、その命を代行する者もまた女性であるのが道理」
「だが世俗でも女性は高位を継承できるだろう」
「それは女神陛下がお嫌いなのじゃ。男が御聖所に近づくことを。千年来、セナトール伯爵だけが例外でな」
「ほう。それも聖女を退けようとする理由の一つか。事が済んだ後、俺を粛清するつもりはないだろうな」
軽く笑って葡萄酒を一口啜った。
「ふふ、聖女陛下のなされたことじゃ。セナトール伯爵に当たるわけがなかろう」
「それならいい。ところで、グネイア家の人間は来ているか」
「プリミ司教殿がご自身でお越しになっておる。そういえばプリミ司教殿もセナトール伯爵にお会いしたがっておったの。老身がご引見しようか」
ヒルヴァ司教がゆっくりと人混みを縫い、連れてきたのは白い法衣を纏った白髪の少女だった。老女ばかりの中で、ひときわ異彩を放っている。
「初めまして。在下は——」
「アンビティ、久しぶり。わたしのこと、わからない?」
「プリミ司教殿とセナトール伯爵がお知り合いとあらば、老身は退散するとしよう」
挨拶のために差し出した手が、空中で固まった。相手が「久しぶり」と遮り、覚えていないのかという顔を向けてきたせいだ。
ヒルヴァ司教はその空気を察して、さっと身を翻した。
「あの……俺たち、知り合いですか」
「小さい頃に会ったの。ずいぶん昔のことだけど。あなたはまだ幼かったから、覚えてなくても仕方ない」
「いや、俺は幼少期の記憶にはかなり自信がある。いつのことか言ってもらえれば、きっと思い出せる」
「あなたの従姉、エルバの宴会で」
「……」
その時どんな顔をしていたか、自分では覚えていない。だが間違いなく——完全に固まっていた。
エルバ。母の姪。かつて姉を除けば、最も親しかった人間。
"かつて"と言うのは——母が死んだ後、両家の関係が疎遠になり、一歩ずつ凍りつき、思い出すことすら厭い、存在ごと忘れたくなったからだ。
今にして思えば、エルバは当時から姉との折り合いが悪かった。もしかすると姉の方が正しかったのかもしれない。
「彼女と知り合いなのか」
深く息を吸い込んだ。動揺のせいで計画に支障が出てはならない。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、身体が震えを止められなかった。
冗談じゃない。会議の場で人を殺す陰謀を実行しようとしている最中に、どうしてあの女と忌まわしい一族の話になるのだ。
「友達よ」
「それなら知っているだろう。俺と彼女の仲が良くないことくらい。なぜ俺の前であの名前を出した」
「あの……エルバは本当にあなたのことを大切に思ってるの。それに小さい頃、一緒にいた時はとても楽しそうだったじゃない」
「プリミ司教。今日の面会はあなたを擁立するための話し合いのはずだ。なぜ関係のない話題に逸れる」
「だって、わたしが引き受けたのは、あなたに会いたかったから。アンビティ、あなたの活躍は聞いてるわ。先代セナトール伯爵のこともお気の毒に思ってる。でもエルバはずっとあなたのことを——」
「彼女の名前を出した直後に父の名前を出すな! 愛する人間にそんなことをする奴がどこにいる!」
私は制御を失い、怒りのまま杯を床に叩きつけた。粉々に砕けた硝子の上に、深紅の葡萄酒が広がった。これから流れる血のように。
一瞬にして全員の視線が集まった。困惑。当惑。得体の知れなさ。政変を起こそうとしているのに、なぜ突然個人的な話になるのか。無論、私も同じ思いだった。
「本題だ。計画は何だ。計画!」
怒りを帯びた声で叫んだ。その声が落ちると同時に——テーブルクロスが剥がされ、隠されていた刃物が露わになった。親衛たちが刀剣を掴み、まだ反応できずにいる教会の人々に斬りかかった。
プリミが悲鳴を上げ、逃げようとした。その腕を掴み、腕の中に引き寄せた。ヒルヴァ司教は罵声を浴びせながら首を刎ねられた。
悲鳴。命乞い。罵声が入り混じった喧騒が十数分続いた。最後に跪いて許しを請う司教に剣が突き立てられた後、プリミは地面に崩れ落ちた。涙と床一面の鮮血が混ざり合い、塩辛い匂いが鼻先に届いた。
「殿下。こちらは一緒に殺しますか」
一人の騎士が、私の傍にいたおかげで唯一生き残ったプリミを見て尋ねた。
「いや。命は助けておけ」




