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心臓

「さて、吾が愛しき者よ。思い出したかえ」


「そういうことだったのか。——だがなぜ、よりにもよって彼女との記憶を消した。接吻だって愛を伝える行為のひとつだろう。なぜ放置するどころか、俺のその方面の認識まで書き換えたんだ」


「うむ、よき問いぞ、吾が愛しき者よ。吾は嫉妬深き女にあらず。汝なくば吾もなし。ただ、吾らの神聖なる結びは、吾が先でなければならぬ」


「あの、もう少し語彙を増やして喋ってくれないか。聞いていて感覚が悪いし、意味もわからない」


「吾が愛しき者よ。吾は汝が他の女を持つことを許す。汝を愛するがゆえに、汝の振る舞いは暫し容認できる。されど——初めては吾のものでなければならぬ。汝は吾のものを、他の女に先に与えようとした。それは、容認の外にある」


「そうか。なら欲しかったものはもう手に入れただろう。解放してくれないか。それと——縁組は極めて有効な政治的手段なのに、こんな制約のせいで一度も使えなかったじゃないか」


「吾が愛しき者よ、姉妹がおるではないか。……ああ、吾が愛しき者がそのようなことをするはずもないか」


女神が名残惜しそうに身体を離した。生命の精髄を含んだ液体が両脚を伝って滴り落ちる。だが奇妙な力に引き戻され、吸い上げられていった。私も起き上がろうとした。——だが身体はまだ動かなかった。


「どういうことだ。なぜまだ束縛を解かない」


「吾が愛しき者よ。吾は嫉妬深き女ではないと申したが、吾が愛しき者は吾の命により立てた誓いを破ろうとし、吾の前で何度も他の女と睦み合うた。やはり、罰を与えねばなるまい」


「嫉妬しないと言いながら罰を与えると言う。矛盾しているだろう」


「それはそれ、これはこれ。吾が愛しき者よ、罰の中身を当ててみよ」


対話の最中、身体がゆるゆると浮き上がっていくのを感じた。女神が片手で私の身体のある部位を弄びながら、問いかけてくる。


「知らん。その罰がそこを触ることなら、痛くもないし、むしろ心地いいが」


「吾が愛しき者よ、可愛いこと。残念ながら、それではないのよ」


女神が言い終えた瞬間——左手の血液が猛然と膨張した。激烈な張りと痛みが手の中を駆け巡り、次の刹那——轟音とともに左手が弾け飛んだ。鮮血と骨片が四方に散る。


「ああああっ、俺の手が! おまえは神か? 悪魔だ! これじゃ今後どうやって戦えばいいんだ!」


「そんなことを言われると吾は悲しいのよ、吾が愛しき者♡ 痛みは一時のもの。吾が愛しき者の身体は新たに修復し、吾の刻印を改めて刻み直す」


「何を馬鹿なことを……うぅ、俺の手、うぅ……感覚がない」


無力感が胸の奥から全身に広がった。生まれて初めて、これほどの無力を味わった。——冗談じゃない。神は実在した。しかも人形を弄ぶように俺の身体を分解している。長年鍛え上げた武芸も、戦場での死闘も、超自然の力の前では滑稽なほど無意味だった。内面の矜持と誇りが粉々に砕ける。個人の野心など、この領域ではそもそも何の意味もない。


——かつて俺が残酷な手段で処理し、情報を拷問で引き出した政敵たちも、こんな気持ちだったのか。長い間、上位者と勝利者として他者を見下してきた。今、自分がこの歪んだ論理と、伝説上の存在としか思っていなかった神に弄ばれている。


「吾が愛しき者、この方法はお気に召さぬか。では別の方法にしようか」


女神が片手で、痛みのあまり硬直した器官をきつく握りしめたまま、もう片方の手を引き抜いた。左手の傍で血を指につけ、ぺろりと舐めた。——それから右手に移り、中指を一息に折った。口に入れて、咀嚼し始めた。


「なぜだ……なぜこんなことをする。俺が何をした。許してくれ。俺はただ、普通の男として、政治への欲望に従っただけだ」


骨が折れるパキリという音、痛み、そしてそれに続く咀嚼音に、心の底から毛が逆立った。目の前のこの女は確かに美貌の極みだが、紛れもない悪魔だ。四肢を奪うだけでは飽き足らず、身体を食うとは。


「吾が愛しき者よ。汝は何も誤ってはおらぬ。吾が汝を愛するがゆえの罰なのだ。痛みは一時、愛は永遠。吾が愛しき者の今の表情は実に愛らしい。腹に吾が愛しき者の種を宿しておりながら、なおも聖水が溢れ出でてしまう。——吾が愛しき者、また心の中で吾を悪魔と罵ったであろう。吾には名がある。黛娅ダイアと申す。吾を黛娅と呼べ」


黛娅と名乗る——女神を騙る悪魔の生き物は、何か極上の美味を味わうかのように、骨の一片すら残さず噛み砕いて飲み込んだ。そして私の身体の残滓がまだ付いた舌で、顔中を舐め回し始めた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。放してくれ、放してくれ。もう結婚しない。情人も作らない。毎日おまえの神像の前で跪いて祈るから。いいだろう」


「神像はただの霊のためのもの。先に吾が愛しき者に誓いを立てさせたのも、今日この日に吾が愛しき者と触れ合うためにすぎぬ。今やもう障りはない。吾はいつでも吾が愛しき者と触れ合える。言い換えれば——吾はいつでも、吾が愛しき者の傍らに降り立てるのだ」


黛娅と呼ばれる忌まわしい存在が、舌で首筋を味わい始めた。あらゆる肌を丹念に口づけていく。千切れた腕と、折られた右手がまだ鈍く疼いている。唾液の湿った塩辛い痒さと混ざり合い、笑うべきか泣くべきかわからなくなった。——だがすぐに、その悩みは消えた。


黛娅は丁寧に舐め尽くした後、首筋に力を込めて噛みついたのだ。そのまま肉を一塊引き千切った。正確には——気管ごと。窒息感が瞬時に全身を侵した。この狂人。悪魔。獣。俺はこれほどの屈辱を味わっているのだ。裸体のまま、左手は爆散し、右手の中指は折られ、喉は齧り取られている。もし誰かに見られたら、一生の笑い種だ。書物に記され、永遠に嘲笑され続ける。


「ッ……ッ……」


「吾が愛しき者よ。申したであろう、吾が肉身を造り直すと。気管が裂けようとも、汝はなお声を発することができるのだ」


喉を失った私は言葉を発することができず、ただ無力に呼吸を試み、空気を求め、死を待った。だが黛娅がそう言った途端、空気が再び体内を循環し始め、窒息感が退いていった。


「なぜだ。なぜだ。なぜだ。こんなに美しい顔をしておきながら、やることは獣と変わらない。愛だと言いながら、こんな猟奇的な行為を。恨む。恨んでやる。恨む恨む恨む恨む恨む恨む恨む恨む恨む恨む恨む。もし今動けたなら、もし同じ力を持っていたなら、今すぐ刀をおまえの身体に突き刺し、腹を裂き、臓腑を引きずり出し、全身のあらゆる骨を一本ずつ砕いてやる」


「ふふ、なんと甘美な声♡ 吾が愛しき者よ。突き刺すとは、こういうことかえ」


ずぶり、と湿った音が響いた。腹が生身のまま引き裂かれた。続いて心臓が、氷のように冷たい両手に鷲掴みにされ、激痛とともに引き抜かれた。空虚。激痛。眩暈。硬直。下顎が勝手に開き、血混じりの涎が垂れ落ちた。唯一温かいのは——目尻から滴り落ちる涙だけだった。こんな状況でなお涙が出るとは。


「これは吾が預かっておくとしよう。吾が愛しき者、もう限界のようね。ここからは急がねば」

本当は四月一日にエイプリルフール短編を書こうと思っていたのですが、一日では書き終わらないことに気づきました。次のエイプリルフールまでお預けです。

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