第8話 婚約解消の提案と、初めての体験
王宮でリアム様とお会いした日から数日後。
私は意を決して、久々の休暇に実家であるパレス子爵家へと戻っていた。
「お父様、お母様。大事なお話があります」
サロンで向かい合う両親に対し、私は深く息を吐き出すと、机の上に一通の書面を静かに置いた。
「リアム様との婚約を、解消していただきたいのです」
「……なんですって!?」
お母様――メラニアが立ち上がり、目を見開いた。
「これ以上、お母様のあの日の暴走でリアム様を縛りたくないのです。リアム様は名門ハミルトン侯爵家の嫡男にして騎士団副団長。対する私はただの子爵令嬢で王宮の女官です。この婚約は、あまりにもリアム様にとって不利益でしかありませんわ」
「クラリッサ、何を言うの! あんなに素敵な方が婚約者なのよ!?」
「ですがお母様! リアム様はあまりに完璧すぎて、私には荷が重すぎるのです! これ以上、我が家の都合で彼の未来を奪うのは申し訳なさすぎます!」
必死の私の訴えに、お父様は『やれやれ』と美貌を曇らせ、お母様は胸を押さえて深いため息をついた。
「……分かったわ、クラリッサ。あなたの健気な思いは受け止めましたわ」
(えっ、意外とあっさり理解してくれた……!?)
胸を撫で下ろした私だったが、お母様の頭の中では盛大な誤解が完成していた。
(この子……本当はリアム様を深く愛しているからこそ、自分の立場を気にして身を引こうとしているのね! なんて健気で情熱的な愛なの……! 母親として、この純愛を応援しないわけにはいかないわ!)
◇
その翌日、お母様はすぐさまハミルトン侯爵邸へと乗り込み、侯爵夫人カサンドラ様と面会した。
「クラリッサがね、リアム様の未来を想うあまり『婚約を解消したい』と言い出したのです。あの子ったら、どれほどリアム様を愛していればそこまで健気になれるのかしら……!」
うっとりと語るお母様の報告を受けたハミルトン侯爵夫妻は、子爵夫人が去ると、すぐさま執務室にいたリアムを呼び出し、その事実を伝えた。
「――というわけだ、リアム。クラリッサから婚約解消の申し出があったそうだ」
「……は?」
ハミルトン侯爵家のサロン。リアムの動きが、ピタリと止まった。
「クラリッサが……僕との婚約を、解消……?」
生まれつき優秀で、あらゆる物事を完璧にこなしてきたリアム・ハミルトン。
社交界の誰もが憧れる副団長の脳内に、人生で初めて『理解不能』という文字が浮かんでいた。
「な、なぜ……!? なぜ急にそんなことに!?」
あの冷静沈着なリアムが、柄にもなく立ち上がり、声を裏返らせた。
「僕は理想的な婚約者として振る舞っていたはずです!? 毎月欠かさず生花とカードを送り、彼女の体調を気遣い、社交界の雑音からも守り、女官になりたいという彼女の意志も尊重した! 完璧な対応だったはずだ! 一体僕の何が不満だというんですか!?」
パニックに陥ったリアムは、青ざめた顔でサロンの中を右へ左へと歩き始めた。いつも完璧すぎる息子が狼狽する姿に、侯爵夫妻は呆気にとられている。
(……ダメだ、僕一人ではクラリッサの真意が掴めない。クラリッサのことをよく知り、僕の味方をしてくれる人間は……!)
動揺したリアムは、そのままハミルトン邸を飛び出し、馬を走らせてオーレン公爵邸へと向かった。
事前の連絡もなく、息を切らして屋敷へなだれ込んだリアムは、家令の案内も待たず、公爵邸の廊下を大股で突き進み、執務室のドアの前で叫んだ。
「スティーブ!! スティーブはいるか!!」
凄まじい勢いでオーレン公爵邸の執務室の扉が叩かれた。
「うわっ、急に部屋に踏み込んでくるな! ……って、リアム? なんだその顔、顔色が真っ青だぞ?」
書類を整理していた親友でありクラリッサの従兄でもあるスティーブは、あまりの気迫に目を丸くした。
胸を上下させ、呼吸を荒らげながら必死の形相で詰め寄ってくるリアムに、スティーブは引きつった顔を向けた。
「頼む、スティーブ! クラリッサを引き止めてくれ! 兄であるチャールズにも掛け合ってくれ! 僕は……僕は婚約解消など絶対に認めない!!」
「落ち着けって! いつもの冷静な副団長はどこ行ったんだよ!」
「落ち着いていられるか!! 理由が分からないんだ! 僕の何がいけなかったんだ!? 手紙の文字が流麗すぎたのか!? 花の種類が違ったのか!?」
「……絶対、そこじゃないだろ」
完璧だったはずの男の余裕が、音を立てて崩れ去っていく。
人生で初めて味わう『大切なものを失う恐怖』に打ち震えながら、リアムは必死になって婚約解消を阻止すべく、迷走を始めるのだった。
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