第4話 扇子の裏の防衛線と、みぞおちへの衝撃
休日が明け、女官としての日常に戻った私を待ち受けていたのは、月末に控えた王宮大舞踏会の準備業務だった。
世間のご婦人たちが『どんなドレスを着ようかしら』などと呑気に胸を躍らせている裏で、私たち女官が突きつけられるのは、裏方としての事務作業だ。
まずは、王宮次官たちが作成した席次案の把握。
次官たちが組んだ完璧な階級順の席次表に対し、私たち女官は、長年この仕事に携わっている先輩女官たちが把握している社交界の人間関係を照らし合わせる。
『あちらの伯爵とこちらの侯爵は領地争いで絶交中』
『こちらの公爵令嬢とあちらの子爵夫人は、元愛人を巡る泥沼の愛憎劇の真っ最中』
そんな公式記録には決して残らない情報を、先輩たちから聞き出しながら、席次表に問題がないかを確認していくのだ。
『次官様、このお二人を隣同士にすると当日に血が流れます』、なんて具合に、問題があれば密かに修正を奏上し、最終的な配置を整える。
もちろん、学園を卒業し、十八歳になったばかりの私が社交界の裏事情に詳しいわけではない。そのあたりは、何十年も王宮に仕えている先輩女官たちの独壇場だ。
「あら、クラリッサ。そこは変えたほうがいいわよ」
「どうしてですか?」
「昨日、あの伯爵夫人があちらの公爵令嬢の髪を引っ張ったから」
「……何があったんですか?」
「聞かないほうがいいわ」、といった具合である。
事務作業が終われば、今度は会場の確認という名の肉体労働だ。
会場を飾るシャンデリアや銀食器に、曇りや汚れがないか隅々まで確認する作業。少しでも曇りを見つければ、すぐに磨き直しを指示し、曇り一つ残さない完璧な輝きを追求する。
さらには、各地の大使や大貴族たちの食物アレルギーや食事上の禁忌を網羅した分厚い羊皮紙と睨めっこし、当日のお品書きと照らし合わせて落ち度がないか目を光らせるのだ。
(華やかな舞踏会? 冗談じゃないわ。裏方にとってはただの『死者を出さないための安全確保作業』なのね……)
そして、迎えた王宮大広間での夜会当日。
私は、華やかなドレス姿ではなく、紺色の女官服に身を包み、髪もきっちりとまとめて会場の隅で案内業務に勤しむ――はずだったのだ。
しかし、現実はそう甘くなかった。
「クラリッサ、準備はできているね?」
「は? え?」
会場の裏口で待ち構えていたのは、騎士団の正装に身を包んだリアム様だった。
ぽかんとする私をよそに、彼は控えていた王宮の侍女たちに素早く合図を送る。
「リアム副団長様より、こちらへお連れするよう仰せつかっておりますわ!」
「さあ、こちらへ!」
「ちょっと、あの! お待ちください! 私、これから裏方の公務が――んぐっ!?」
悲鳴を上げる暇もなく別室へ連れ込まれ、王宮の手練れの侍女たちによって怒涛の『突撃着付けと極上メイク』が施された。
「いや、やめてください! キャッ! 脱がさないで! 私、いま勤務中――作業中なんですってばー!?」
私の虚しい抵抗など、熟練の侍女たちの前では赤子の手をひねるようなものだった。
悲鳴を上げる私から、驚異的な手際でスルスルと女官服が脱がされていく。もはや着付けというよりは、『熟練の職人による高速マグロの解体ショー』の域である。
「はいはいクラリッサ様、お口を閉じて! 白粉が飛びますからね!」
「ちょっと、どこを触って――ひゃんっ!?」
抵抗の隙すら与えられないまま、頭からはぺールグリーンの最高級シルクドレスがすっぽりと被せられ、コルセットの紐が容赦なくギチギチと締め上げられていく。
髪はまるで魔法のようにあっという間に可憐に結い上げられ、顔には「これでもか!」と言わんばかりに可憐さを引き立てる高級化粧品が塗りたくられていった。
(何この無駄に完璧な連携プレイ!? 一体いくら積まれたらこんな暗殺者みたいな手際で人をドレスアップできるのよ……っ!? しかも、ちょっと待って! なんでハミルトン侯爵家から私のサイズぴったりなドレスが用意されているの!? 怖すぎるんですけど!!)
あっという間に、見事に仕上げられたドレス姿の美しい私を、リアム様がエスコートする。
「よし、完璧だ。……やっぱり僕のクラリッサは、どんなドレスでも似合うね」
仕上がりを確認しに来たリアム様が、満足げに微笑む。
しかも、リアム様は抜かりなかった。
私を連れ出す前に、女官長へ正式に話を通し、今日の私の業務についても代替要員まで手配済みだった。
「婚約者をパートナーとして同伴したい」。それだけを告げて、すべての手続きを済ませていたらしい。……逃げ道が、ない。
こうして私は、裏方として地味に立ち回る予定を完璧に叩き潰され、望まぬドレスアップをさせられた状態で、リアム様のパートナーとして大広間の中央へと連れ出されてしまったのだ。
「クラリッサ、数日前は途中で走って帰ってしまったが、気分でも悪かったのかい?」
「い、いえ! 決してそのようなことは……! ただ、急に王宮へ戻らねばならぬ用事を思い出しまして!」
リアム様は、輝かんばかりの美貌で私を見下ろしている。
視線を向けられた瞬間、私は慌てて手にした扇子を広げ、口元から鼻先までを固くガードした。
(あっぶな! 危うく、ペールグリーンのドレスに鼻血が飛び散るところだったわ。また無自覚なフェロモンの直撃を受け続けるなんて無理……!)
だが、本当の地獄はここからだった。
「まあ、リアム様! 今宵も麗しいですわ!」
「副団長様、次のダンスを一曲、私と……!」
大広間に入場するや否や、色とりどりのドレスを纏ったご婦人たちが、群がる蜂のようにリアム様を取り囲む。
社交界の歩く顔面兵器、騎士団副団長、そして、ハミルトン侯爵家の次男。その威光と美貌に群がる彼女たちの熱気はすさまじい。
リアム様は微笑みを崩さず、「申し訳ないが、今夜は婚約者と過ごすと決めているのでね」と手際よく断っている。だが、令嬢たちは諦めない。なんだかんだと理由をつけてはリアム様の視線を奪おうと押し寄せてくるのだ。
(うう……周りからの『なぜあの子爵令嬢が副団長の隣に?』という嫉妬の視線が痛い……刺さる……っ! まるで、串刺しだわ!)
すさまじい圧迫感と恐怖に、胃がキリキリと悲鳴を上げ始める。
私は群がるご婦人たちを避けて、そっと後ろに下がり、広げた扇子の裏で、ポケットから取り出した胃薬を素早く口に放り込んだ。唾液だけで手慣れた手つきで飲み込む。
「あら、相変わらず手際がいいわね、クラリッサ」
背後から耳元で囁かれた女性の声に、ハッとして振り返ると、そこには豪華なドレスを纏った親友のイザベルが立っていた。オーレン公爵家の現当主の長女であり、私の同い年の従姉妹だ。
「イザベル……。見てたんだったら助けてよ」
「ええ、バッチリ。扇子の裏で手品みたいに胃薬を服用する子爵令嬢なんて、あなたくらいのものよ」
イザベルは呆れたように、ため息をつくと、リアム様を取り巻く女性たちを冷ややかな目で観察している。
「それにしても、相変わらず群がり方が汚いわね。……ねえクラリッサ、あの雌猫たち、私がオーレン公爵家の権力で全員修道院にでも叩き込んで撃退してあげましょうか?」
「物騒なこと言わないで! オーレン公爵家の権力をそんなくだらないことで無駄遣いしないで頂戴!」
「だって、リアム副団長も困ってるじゃない。あの方、本当はあなたと二人になりたいのに、立場上あまり無下に追い払えないのよ」
「……えっ?」
イザベルの言葉に、私は首をかしげた。
リアム様が私と二人になりたがっている? 『そんなバナナ』である。彼はただ『手のかからない婚約者をエスコートする』という義務感でここにいるだけだ。
「まさか。リアム様にとって私は『友人の妹』でしかないわよ」
「はあ……本当にあなたの自己評価の低さと鈍さは重症ね……」
イザベルが深くため息をついた、その時だった。
「失礼、少々彼女を借りるよ」
群がるご婦人たちを鮮やかにかわし、リアム様が私の手首をすっと取った。そのまま私を連れ出し、賑やかな大広間を抜けて、静かな王宮の夜の庭園へと逃げ込んだのだ。
◇
月光が照らす夜の庭園は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
バラの香りが漂う夜風が、火照った頬を撫でていく。
「ふう……すまないね、クラリッサ。うるさいところへ付き合わせてしまって」
「い、いえ! リアム様こそ、お疲れ様でございました……」
二人きりの静寂。
先ほど服薬した胃薬のおかげで胃痛は収まっているものの、今度は別の意味で緊張が跳ね上がる。
リアム様はふと足を止めると、私の方へと振り返った。
月光を反射して煌めく銀髪、吸い込まれそうな紫の瞳。そして――彼がゆっくりと距離を詰めてくる。
(ちょっと待って、距離が近い! 近いですリアム様!!)
逃げ場のない植え込みの前に追い詰められ、私の心臓が警報を鳴らす。
リアム様は私の頬に触れそうなほど顔を近づけると、耳元へと唇を寄せた。
「……今日は、あまり君と話せなくて寂しかったよ」
「……っ!?」
低く、甘く響く美声。吐息が耳かすめ、全身に電気のような衝撃が走る。
「君は今日も、とても可愛いね」
――ドカンッ!!
脳内で何かが派手に爆発した。
甘い言葉! 至近距離の美貌! 芳しいフェロモン!!
(ひ、ひいいぃぃぃっ!! これが噂の『視線で妊娠する』殺傷能力……!! 鼻血が出る! 血管が弾けて昇天する――!!)
極限のパニックに陥った私の脳は、正当防衛の条件反射を弾き出した。
「た、た、助けてーーっ!!」
「ぐおっ……!?」
ゴッ!!
振り返りざま、渾身の力で腕を引いた私の右肘が、見事にリアム様のみぞおちへとめり込んだ。
鋭い衝撃音とともに、あの容姿端麗・文武両道な騎士団副団長が、「ぐおっ」と聞いたこともない蛙のような声を上げてその場にしゃがみ込む。
「へっ……? あっ、あの、リアム様……!?」
正気に戻った私は、背後で悶絶するハイスペック美形を見て顔色を蒼白にした。
私、今、国の宝である副団長様のみぞおちに、思いっきり肘鉄を食らわせた……!?
「し、失礼いたしましたぁぁぁぁぁっ!!」
「く……クラリッサ、待っ――」
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさいっ!!」
伸ばされたリアム様の手を振り払い、私は夜の庭園をドレスの裾を翻して爆走した。
後ろから「リアム副団長!? どうされたのですか!」「敵襲か!?」という近衛兵たちの混乱する声が聞こえてきたが、振り返る余裕など微塵もない。
宿舎の自室へ飛び込み、ドアに鍵をかけた私は、そのまま床にへたり込んだ。
「やってしまった……国家反逆罪で首が飛ぶ……いや、その前に胃に穴が開いて死ぬ……!」
震える手で本日二度目の胃薬を瓶から取り出しながら、私は己の愚かな反射神経に心の底から絶望するのだった。
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