第3話 結婚を回避するためには……そうだ、女官になろう!
クラリッサの学園卒業を間近に控えた、ある日のパレス子爵家。
遠征へと旅立ったリアムが王都を留守にしているこの一ヶ月半は、私の十歳以後の人生において最も胃の平和が保たれた黄金期であった。
だが、のほほんと胃を休ませている暇はない。卒業後の進路という重大な問題が立ち塞がっていたからだ。
「……よし、完璧ね!」
自室の机の上、私は出来上がった申請書類を満足げに眺めた。王宮の『女官採用試験』の願書である。
学園を卒業したら、そのままリアム様と結婚――なんて未来は絶対に阻止しなければならない。
このままハミルトン侯爵家に嫁げば、私はただの『親のゴリ押しでイケメン侯爵令息を射止めた、実力も家格もない子爵令嬢』として、周囲の女性陣から白い目で見られることになる! せめて一年間だけでも王宮で働き、ハミルトン家に恥じない実績を身につけたい――というのが私の表向きの理由だ。
(本音は、リアム様と距離を置いて胃を休ませたいからだけど!)
しかし、女官試験に合格した先には大きな壁があった。真っ先に激怒したのは母のメラニアだった。
「どうして女官になんてなる必要があるの!? 女の子の幸せは、素敵な旦那様と大恋愛の末に結婚することよ! お仕事なんてしたら、リアム様と愛を育む時間が減ってしまうじゃないの!」
パレス子爵家のサロンで身を乗り出し、金切り声をあげる母。だが、私の決意は揺るがなかった。
そんな泣き叫ぶお母様を宥めたのは、昼行燈のお父様だった。
「まあ、いいじゃないか。一年後の結婚は決定事項だし、ハミルトン侯爵家の家政の引き継ぎもすでにほぼ終了しているわけだろう。カサンドラ侯爵夫人は『一日でも早くお嫁さんに来て欲しい』と仰っておられるようだが、王宮の女官として働いた実績は役に立つだろう」
お父様はそう言うと、ふっと儚げに目を伏せ、長いまつ毛を揺らしながらお母様の手をそっと包み込んだ。
三十代後半とは思えぬ、まるで絵画から抜け出たような麗しい美貌。そこにほんの少しの『寂しがり屋な夫』の演出を混ぜ込み、至近距離から母の目を見つめて囁く。
「それにね、メラニア。クラリッサが嫁ぐまでのあと一年……私は君と、昔みたいに二人きりの甘い時間を過ごしたいと思っているんだよ? ダメかい……?」
「――ッ! な、なによ急に! もう、オリバーったら……っ! クラリッサの前なのに!」
お父様の計算され尽くされたあざとい魅力の直撃を喰らったお母様は、ぽっと頬を染めて照れまくっている。
出た! お父様の十八番、『顔面兵器による妻の懐柔』だ。
自分の顔面がお母様にどれほど効くかを完璧に理解しているお父様は、こうして都合の悪い議論をうやむやにしたい時や、お母様を思い通りに操りたい時、容赦なくその美貌と演技をフル稼働させるのだ。
「……まあ、あなたがそうおっしゃるなら。わたくしも、新婚時代のような甘い時間を過ごしてみたいですわ……。でも、一年だけ、一年だけですからね!」
まんまと毒気を抜かれたお母様は『一年だけなら』と渋々折れた。
(……お父様、完全に自分の魅力を悪用してお母様を好きなように転がしているわ。やっぱりこの男、どこまでも食えない……でも、ありがとうお父様)
ただ、お父様の口にした「一年後の結婚は決定事項」という発言に、私の胃がキュッと縮こまったのは言うまでもない。
こうして、両親とハミルトン侯爵家の了解を得て、無事に女官試験に合格した私は、学園卒業後、リアム様が遠征で王都を留守にしている隙を狙って、王宮の女官宿舎へと引っ越した。
(彼が遠征から戻ってきた時には、すでに私は実家を出て、王宮の住人。いくらリアム様でも、王宮の中まで乗り込んで私を連れ戻すなんて真似はできるまい。ふふふ、やったわ!)
こうして私は晴れて子爵家を出て、念願の王宮女官生活をスタートさせたのだった。
◇
女官の仕事は想像以上に忙しかったが、リアム様との結婚の重圧から解放されたこの一ヶ月半で、私の胃は劇的な回復を見せていた。
だが、平和な日々は唐突に破られる。
ひさびさの休日、同級生で女官仲間でもある、ラヴァル伯爵家の三女リリアンと連れ立って、城下町のカフェを訪れていたときのことだ。
「――クラリッサ?」
ざわめく人混みの中でも、そこだけ空気が澄み渡るような、低く心地よい響き。十歳の頃から、ずっと私の心を捉えて離さない人の声が、私の名を呼んだ。
ハッとして振り返ると、そこにいたのは非番の私服姿のリアム様だった。騎士服姿も視覚の暴力だが、上質な白いシャツを着たラフな私服姿は、もはや歩く芸術品である。
「リアム様……! おっ、お久しぶりです。お戻りになっていらしたのですね」
「ああ。一ヶ月半ぶりだね。母上から聞いて驚いたよ。王宮で女官をしているんだって? お茶会も一年間は中止だと言われているし、しばらく会えないと思っていた。……元気そうでよかった。今日は、お休みかい?」
リアム様がふっと目を細め、優しく微笑みかけてくる。
その瞬間、私は咄嗟に視線を真横の外灯へと向けた。直視できない。魅力が強すぎる!
(だめだ、眩しすぎる! この顔面を真正面から浴びたら、私の精神が消滅する……!)
「クラリッサ? なぜそんなに街灯を見つめているんだい? 何か気になることでも?」
「い、いえ! 街灯の装飾が実に見事だなと感銘を受けておりまして!」
冷や汗を流しながら苦しい言い訳を口にする私。
(ひ、ひいぃぃっ! 破壊力が高すぎる!!)
リアム様本人はといえば、「たまには婚約者である僕の顔を見つめて欲しいな」と呟いて、小首をかしげている。無自覚! 無自覚のフェロモンが一番タチが悪い!
「クラリッサ、顔色が悪いよ。仕事が大変なんじゃないかい? ほら、こっちを向いてごらん。お茶会も一年間は中止だと言われているし、顔を見せておくれ」
「いいいいいえ結構です!! 私のことは構わないでください!!」
「なぜ目を合わせてくれないんだい?」
不思議に思ったらしく、リアム様が私の顔を覗き込もうと距離を詰めてくる。
(やめて! ちっ、近すぎますってば! 目を合わせたら最後、心臓麻痺で本当にあの世行きだわ)
「失礼しますっ!!」
「あ、クラリッサ!?」
私はリアム様から目を逸らし、全力で首を真横に向けた異様な姿勢、横歩きのままリリアンの手を引いて猛ダッシュでその場を逃げ出した。
王宮の女官宿舎に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。
ポケットから取り出した胃薬を水なしで飲み込みながら、私は絶望に打ちひしがれていた。
「あんな顔面兵器みたいな男の妻になるなんて……私の胃、持つのかな……?」
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