第2話 目があったら妊娠する!? いや、しませんけど!
待てど暮らせど、月に一度の婚約者の交流を目的とした定例のお茶会にリアム様が姿を現すことはない。
そう、リアム様が十五歳で学園へ進学された頃から、私との定例のお茶会をすっぽかすようになった。
最初の頃は『今日もお忙しいのかしら』と、彼の身を案じていたのだから、世間知らずとは幸せなものだ。
それが一年後には『またか』となり、三年後には『どうせ来ない』となり、五年目ともなれば、もはや来ないことを前提に、読書しながら自分が好きなクリームたっぷりの焼き菓子を食べる時間となっている。
(……もし万が一、リアム様が突然現れたらどうしよう。クリームと粉砂糖たっぷりの焼き菓子を頬張っているところなんて、絶対に見られたくない。一口かじれば粉砂糖が舞い散って、口の周りは白い髭だらけ。……まあ、絶対に来ないからいいのだけれど)
届くのは専ら、見慣れた美しい文字で書かれた『急な公務のため、本日の訪問は叶わず残念だ』という定型文のカードと、見事な季節の生花ばかり。
(カードの文言を暗記しているのはもちろんのこと、あまりに毎月届くので、今やリアム様の流麗な筆跡すら完璧に模倣できる自信がある。毎回新しくカードを書くのも大変でしょうに、いっそ使い回してもらっても構わないのに……)
学園の三年生となった今の私がリアム様を見かけるのは、夜会で偶然すれ違うか、親族の集まりで形式的な挨拶を交わす時くらいのものだった。
あるいは、王宮の公式行事で、凛々しい騎士服姿で警護勤務に当たっている第一騎士団のリアム様を遠目で見かけるか、だ。
あちらは仕事真っ最中の騎士様。気安く声をかけられるはずもなく、私は「お仕事お疲れ様です」と心の中で一礼し、関わりを避けるようにスッと気配を消して壁と同化するのがお決まりだった。
(ふふ。見事なまでの放置プレイね。いいわ、最高じゃない!!)
気弱な令嬢であれば『私嫌われているの!?』と絶望し、枕を濡らしてベッドから起き上がれなくなるところだろう。だが、私の心境はそう単純ではない。
もちろん、毎月のお茶会をすっぽかされることで、婚約者としての緊張から解放される気楽さはある。来ないと分かっているほうが、よほど心穏やかに過ごせる。
なのに、十歳のあの日から、ずっと好きな人だ。
会わずに済んでホッとするくせに、会えないと思うと、ほんの少しだけ寂しいのだ。
(やったあぁぁぁぁ! 今月も回避成功!!)
心の底からガッツポーズを決めた私は、内心で陽気な音楽を奏でながら、好物の焼き菓子と美味しい紅茶を優雅にすすり、一人のお茶会を満喫するのが常だった。
そんな私だが、私だって、好き好んでこの婚約にしがみついているわけではない。
なにせ私は、母のゴリ押しでリアム様に押しつけられた、格下の子爵令嬢。十歳の私が口にした『私のすべてを貴方に捧げますわ』という少女向け恋愛小説の台詞を、母が本気にして大暴走。その結果、リアム様は望んでもいない婚約を結ばされてしまった。――そう考えれば、私が最悪の婚約者だと思われていても不思議ではない。
だからこそ、私は心から願っていた。
(頼むから、一刻も早く私との婚約を解消してくださいっ……!)
こちらから「解消してほしい」と言い出すのは、母の実家であるオーレン公爵家の権力を考えると角が立ちすぎて怖い。それに――私は、今でもリアム様が好きなのだ。だからこそ、自分から「別れたい」なんて言えるはずもない。
だったら、リアム様の方から「こんな格下の女は嫌だ!」と私を見限り、盛大に婚約を叩き潰してくれればいい。そうすれば私は、泣きながらでも諦められる。……たぶん。
それなのに、あの男は律儀に毎月『お花とカード』を送り届けてくる。
嫌いならいっそ完全に無視してくれればいいのに、有能なせいで、周囲からは「仲睦まじい婚約者同士」という誤解が既成事実化しているという地獄。断じて解せん!
(モテモテなリアム様なら、そろそろ「僕の好みじゃないんだよ」って言ってくれてもいいのに……大泣きするけどね)
ため息をつきながら本に視線を戻そうとした、その時だった。
「――お嬢様。大変でございます!!」
サロンの扉が激しくノックされ、先ほどの侍女が青い顔をして飛び込んできた。
おや、珍しい。いつもは落ち着いている彼女が、まるで幽霊でも見たかのように息を切らせている。
「どうしたの、そんなに目を丸くして。また庭のリスが、お母様のお気に入りの鉢植えに木の実を埋めて芽を出させたの?」
「いえ、違います! そうではなくてですね……!」
侍女はごくりと喉を鳴らし、信じられない言葉を告げた。
「ハミルトン侯爵令息様が! リアム様ご本人が、たった今、エントランスに……っ!」
「…………は?」
持っていた本を、危うくカップの上に落としそうになる。
え? 今、何て言ったの? リアム様ご本人が?
毎月すっぽかしていたあの『すっぽかし魔』が……?
「なっ……なんでよ!? 今日も判で押したような完璧な定型文で『急な公務のため、本日の訪問は叶わず残念だ』って、馬鹿の一つ覚えみたいないつも通りのカードが届いたでしょう!?」
「お嬢様! お口が過ぎますよ! それが! 急に予定が空いたとかで……ただ今、エントランスで、旦那様と奥様と楽しそうにお話しされております!」
――ガタッ!
私は勢いよくソファから立ち上がった。
「……お父様! なんで追い返さなかったのよ! あんの昼行燈が……っ!」
青ざめてサロンを飛び出し、廊下をエントランスへと急ぐ私の耳に、容赦なく「応接室へご案内して」という母の弾んだ声が届くのだった。
「リアム様、お忙しいのは重々理解できますが、クラリッサも寂しがっておりますのよ。たまにはお茶会にも顔を見せてあげてくださいましね」
応接室の豪華なソファで、母・メラニアがおっとりと頬に手を当てて余計な口を挟んだ。
寂しがっている? 誰が? えっ、私が? とんでもない!
毎月『よっしゃ、すっぽかしキターー!』と小躍りしていた私が、寂しがっているわけがないでしょう。お母様、ついにボケてしまったのかしら?
ふと母の隣を見れば、父・オリバーは麗しい微笑みを浮かべたまま、目だけが完全な『無』になっていた。私にはわかる。あの目は完全に「今日のランチのスープは、コンソメかポタージュか」を考えている目だ。
この美形なだけの昼行燈は、まるで役に立たない。
「リアム様、本日はどうされたのですか? 先程、いつものお花とカードは受け取りましたが……」
私は努めて冷静に、『なぜ、いらしたのかしら!? あぁん!?』という内心を隠して、もっともな疑問を口にした。
「ああ、実は来週から遠征に出ることになってね。その前に、クラリッサの顔を見ておこうと思ってね」
「遠征……でございますか? それは、どちらへ?」
「北の辺境で、隣国との合同演習を行うことになってね。一ヶ月半ほど王都を離れる予定だ」
「ぅんまあ!……左様でございますか! それは、どうぞお気をつけて。ご無事にお戻りになられることをお祈りしておりますわ!」
一ヶ月半ほどの遠征ということは、来月のお茶会も中止になるはず。つまり、私の平穏と胃の調子の回復は約束されたのだ!
(よっしゃあ! これなら、少なくとも来月のお茶会は中止になるはず!)
脳内で全力の勝利宣言を叩きつけ、心の奥底で万歳をする。
内心では寂しさを感じつつも、歓喜に打ち震える私に向かって、リアム様がふっと目元を和らげた。
「ありがとう。君にそう言ってもらえると、心強いよ」
彼が柔らかく微笑みかけた瞬間、その圧倒的な麗しい顔に私は直撃された。
(あ、だめ。直視したら死ぬ……。顔が良い。とにかく、やたらと顔が良い)
透き通る銀髪、妖しく光る紫の瞳、そして二十歳になって極まった完璧すぎる男のフェロモン。あまりの眩しさに目が潰れそうになり、私は咄嗟に首を九十度真横へと向けた。直視などできるわけがない。今の私は太陽を天体望遠鏡で直接覗き込もうとしている愚者と同じだ。
「クラリッサ? どうした、急に壁の額縁を凝視して」
「い、いえ! あの絵画の額縁の金箔塗りが実に見事で、美意識を刺激されておりましたの!」
「そうか……? それより、少し久しぶりなのだから、こちらを見て話さないか?」
「無理です……あっ、いえ、滅相もございませんわ」
冷や汗をだらだらと流しながら、必死に斜め上の壁と天井の隙間を睨み続ける。本当にやめてほしい。そんな甘く優しい声で覗き込んでこないでほしい。
リアム様ご本人は、至極真面目で困惑した顔をしている。無自覚! 無自覚の暴力!
社交界の都市伝説、『リアム・ハミルトンは視線だけで相手を妊娠させる』と噂されている。
(……いやいや、待ってほしい。視線だけで妊娠? 生物学的にどういう仕組みよ!?)
そもそもその噂、相手が女性どころか、男性騎士や門番の男まで『射抜かれて身籠りそうになった』とか言い出しているのだけれど、もう人間の生殖の神秘を完全に無視していないかしら?
光合成か何かと勘違いしているのか、あるいは彼の眼差しがあまりに麗しすぎて、見つめられた者が『受胎したような錯覚』を起こして腰を抜かしているだけなのか。どちらにせよ、社交界の噂は留まるところを知らない。
(ひ、ひいいぃぃっ! 殺傷能力が高すぎる!! 歩く破壊兵器じゃないの、この男!)
「クラリッサ、顔色が悪いよ。こちらを向いて手を――」
「結構ですっ!! 触らないでくださいませっ!!」
(目を合わせたら最後、私も妊娠しかねないわ! それか心臓が爆発して本当にあの世行きだ!!)
私はリアム様から、半目の変顔になりながら目を逸らし、絶対に視線を合わせないよう、ソファーの上でお尻をズリ……ズリ……と不自然に滑らせてジリジリと彼から距離を取った。
「クラリッサ……? なぜそんな端っこに座るんだい?」
「お、お気になさらず! これが我がパレス子爵家に代々伝わる『高位貴族への敬意を示す』という秘伝の社交マナーでございますのよ、ほほほほほ。ではリアム様、ご遠征お気をつけて〜〜〜っ!!」
(……嘘である。そんな奇行のようなマナー、我が家の家訓に存在するわけがない。だが背に腹は代えられないのだ! 視線を合わせたら妊娠させられるかもしれない恐怖に比べたら、パレス家の奇妙な独自マナーのせいにして逃げる方が百倍マシである!)
私は叫ぶなり、ドアを蹴り破らんばかりの勢いでサロンを脱出。
自分の部屋へ駆け込むと、鍵をかけ、棚の奥から取り出した胃薬を水なしで一気に喉へ流し込んだ。
「あんな破壊兵器みたいな男の妻になるなんて絶対無理……! 神様お願い、彼が遠征から帰ってくるまでに、奇跡的に私の婚約が白紙に戻りますように……っ!」
そう願いながら、みぞおちがほんの少しだけ、きゅっと痛んだ。……なぜだろう。婚約がなくなったら、私はきっと楽になれるはずなのに。
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