◇ メラニア・パレス子爵夫人 賢くて愛おしい『恋愛脳』
メラニアは、娘のクラリッサからは、いつも生暖かい目で見られてきた。
「お母様は本当にお父様が大好きで、恋に生きて子爵家に嫁いだ『恋愛脳』の公爵令嬢」――だと。
ふふ、と私はお気に入りの紅茶を口に含みながら、優雅に微笑む。
そう思わせておけるなら、私の人生は大成功だ。
娘が胃を痛めながら甘い恋を育めるのも、あの生臭いオレリー公爵家から綺麗さっぱり身を引いたからなのだから。
◇
オレリー公爵家は、かつて愛と野心が複雑に絡み合っていた。
私の父、オレリー公爵ギルバートは、かつて子爵令嬢ナタリア様と身分差の恋に落ちた。
優秀であった父は、必死に公爵家を説得し、学園卒業後に無事結婚。けれどナタリア様は、長男である異母兄・クリストファーを生むと同時に命を落とされた。
その後、後妻として迎えられたのが私の母・バネッサだ。
母は学園時代、元婚約者に男爵令嬢との不貞を働かれ、激怒の末に自ら婚約破棄を叩きつけた気性の激しい女性だった。
かつて自分が婚約者に裏切られた経験があったからこそ、母は誰よりも『自分と、自分の子だけは誰にも人生を左右されない』という執念を抱いていたのだ。
オレリー公爵家に後妻として嫁いだ母は、父と互いに尊敬し合う静かな信頼関係を築き、やがて私が生まれた。
私は、母親を早くに亡くした美しく心優しい兄・クリストファーが大好きだった。
幼い私にいつも笑顔で本を読んでくれ、忙しい後継教育の合間に遊んでくれた心優しい兄。
だが――母バネッサは、それを快く思わなかった。
「メラニア、あの異母兄になど懐いてはダメよ。所詮は子爵令嬢の腹から生まれた子なのだから。あなたとは違うのよ」
母の野心は日に日に大きくなっていった。
亡きナタリア様の身分が低いことを理由に、兄クリストファーを他家へ婿に出して追放し、私に高位貴族から優秀な婿をとらせてオレリー公爵家を継がせようと裏で画策し始めたのだ。
(お母様は、間違っているわ……!)
少女ながら、私は冷や汗を流した。
正統な跡継ぎであり、努力家で誰よりも公爵家にふさわしいクリストファー兄様を蹴落とそうとする母。このままでは、公爵家は醜い家督争いで崩壊する。
(絶対に、兄様に公爵家を継いでいただく。そして私は……この家から安全に脱出する!)
貴族学園に入学した私は、徹底的に『恋する乙女』を演じ切ることにした。
高位貴族からの求婚をすべて『運命を感じない』と蹴飛ばし、周囲に『あの娘は理想ばかり高く、恋愛小説に登場する王子様を探している』と呆れさせた。すべては、母が私に高位貴族の婿を宛がうのを阻止するための布石。
そして私は、探していたのだ。
私が嫁げば、母が思い描いた『オレリー公爵家を継ぐ娘』という未来を完全に潰せる。それでいて、母が反対しても、絶対に結婚を阻止できるほどではない――そんな絶妙な爵位の男を。
そこで出会ったのが、子爵家の嫡男である現在の夫・オリバーだった。
「一目惚れいたしましたの!」と騒ぎ立てたのは事実だが、私が惚れたのは、学園内の派閥争いで誰にも気づかれぬまま情報を集め、相手が自ら譲歩したと思わせながら望む結果を手に入れる――彼の『腹黒さ』だった。
『メラニア様、本気ですか? 私のような低位貴族に嫁ぐなど、オレリー公爵家が認めませんよ?』
『ええ。貴方がいいの。うちの両親を一緒に説得してくださるでしょう? 腹黒いあなたなら、簡単なのではないかしら?』
『……ふっ、くくっ! 最高だ。なんて賢くて恐ろしい公爵令嬢様だ。喜んでお受けしましょう』
私たちは裏で手を握り、見事な狂言劇を演じた。
「子爵家の男に一目惚れして駆け落ちも辞さない!」と私が大騒ぎし、母の画策を根底から打ち砕いたのだ。
娘が低位貴族へ嫁ぐと決まれば、私に公爵家の婿を取らせて家を継がせるという母の目論見は、完全に潰える。
母は泣く泣く諦め、オレリー公爵家は無事に正統な後継者であるクリストファー兄様が継ぐこととなった。
◇
「何を考えているのかな、メラニア?」
背後から、優しく腰を抱き寄せられる。
振り返ると、相変わらず美しく魅力的な顔をした夫のオリバーが立っていた。
娘のクラリッサは『お父様はお母様のワガママに付き合わされているかわいそうな人』だと思っているようだが、とんでもない。
「昔のことを思い出していたのよ。私に騙されて結婚してくれた哀れな夫のことをね」
「騙された? とんでもない。公爵家の狸どもを説得してこんなにも美しく、そしてとびきり悪賢い妻を手に入れられた。私の人生で一番素晴らしい宝物だよ」
オリバーは私の手に口づけを落とし、腹黒い男の歪んだ最高に美しい笑みを深めた。
そう、彼は私の『偽りの恋愛脳』の裏にある冷徹な知略をすべて知った上で、私を愛してくれているのだ。
その時、執事が恭しく手紙を運んできた。
差出人は――オレリー公爵家当主、クリストファー兄様からだった。
『愛する妹メラニアへ。クラリッサの結婚が無事に済んでよかった。……かつて、私を守るために、君が公爵令嬢として約束されていたすべてを手放したことを、私は一生忘れない。君が譲ってくれたこのオレリー公爵家から、クラリッサの祝福を祈っているよ。もちろん、何かあったら、いつでも頼っておくれ』
手紙を読み、私はフッと目元を緩めた。
兄様は、最初から気づいていたのだ。私が『恋愛脳』の令嬢を演じて公爵家を捨てた本当の理由を。だからこそ今でも、ことあるごとに我が子爵家に破格の支援をしてくれる。
「クラリッサには、絶対に秘密ね」
「勿論だとも。あの子は素直で可愛い『本物の恋愛脳』に育ったからね。……しかし、ハミルトン侯爵家の副団長殿も苦労しそうだ。メラニア、君の血を引いているのだから、あの子もいざとなれば恐ろしい能力を発揮するだろうよ」
「ふふ、胃薬の準備だけはしておいてあげましょう」
私は夫の胸に深く身を寄せ、窓の外の青空を見上げた。
愛する兄を守り、鬱陶しい実家を抜け出し、最高の腹黒い夫を手に入れた。
娘には『恋愛脳のお母様』と思われていようと構わない。だってわたくしは、世界で一番賢くて、世界で一番幸せな『恋愛脳』なのだから。
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