第18話 世界一幸せな胃薬夫人
ハミルトン侯爵邸の広大な庭園を見渡すテラスで、私は心地よい午後の風を浴びながら、一杯のハーブティーを優雅に味わっていた。
あの大聖堂での結婚式から、早いもので十五年の月日が流れた。
かつて、フェロモンを撒き散らす副団長から逃げるために胃薬を手放せなかった子爵令嬢の私は、いまやハミルトン侯爵夫人の肩書を持ち、賑やかすぎる家族に囲まれた一家の母親となっている。
そう、私たち夫婦は――なんと四男二女、六人もの宝物に恵まれたのだ。
◇
『静かにしてください、父上!』
数ヶ月前、六人目となる末っ子の次女が誕生した際の大騒ぎを思い出し、私はテラスで思わずクスクスと微笑んでしまう。
館の二階廊下に響き渡ったあの時の声は、十四歳になった嫡男デイヴィッドの呆れ果てた一言だった。
あの日、陣痛が始まると同時に、第一騎士団の『麗しの氷の騎士』と称され、今や騎士団長となったリアムは完全にパニックを起こしていたのだ。
「クラリッサ! 痛むのはどこだ!? 胃か!? 子宮か!? 私の命を半分やる! いや、全部やる! 主治医はまだか! 騎士団の救護班を全員連れてこいーッ!」と、寝室前の廊下を落ち着きなく歩き回りながら叫び散らし、侍女たちの邪魔をし続けていたのだ。
そんな狼狽する父親の慌てぶりを冷静に一刀両断したのは、嫡男デイヴィッドだった。
「父上、もういい加減に慣れたらいかがですか。父上が廊下で暴れるせいで、母上が出産に集中できませんよ。……それに、こう言ってはなんですが、もうこれ以上子供はいらないでしょう。母上のお体が心配です」
リアムの美貌と銀髪を受け継ぎながらも、冷静沈着さを備えた嫡男の正論に、十二歳の次男エリックが「まったくです。父上が一番うるさいですよ」と深く大きく頷いた。
その隣では、母親の無事を祈る子供たちが、不安そうに寄り添っていた。
十歳の双子――しっかり者で眉をひそめる長女タチアナと、大人しい三男のピエール。
七歳の四男ユリウス。そして、まだ見ぬ赤子の産声を今か今かと、家族みんなが固唾をのんで待っていたのだ。
◇
数週間後。無事に出産を終え、体調もすっかり回復した私は、二階の陽だまりに包まれたサロンで子供たちとお茶の時間を楽しんでいた。
すやすやと揺りかごで眠る赤ちゃんを覗き込んでいた十歳の長女タチアナが、ふと小さな肩を落とし、しゅんと眉を下げた。
「……お母様」
「どうしたの、タチアナ?」
「お兄様たちはみんなお父様に似て小説に出てくる王子様みたいにお美しいのに……わたしだけ、なんだか違うの。私は、お姫様になれない気がするの」
タチアナは、ハミルトン家の特徴である鮮やかな銀髪や紫の瞳ではなく、私に似た金色の髪と青い瞳を持っていた。上のお兄様たちが父親譲りの美貌で令嬢たちの噂の的になっているため、幼い心に少し劣等感を抱いてしまったらしい。
私は可愛い娘への愛おしさで胸をいっぱいにし、タチアナをそっと抱きしめた。
「まあ、タチアナ。お母様ね、昔、あなたとまったく同じことで悩んでいたのよ」
「えっ!? お母様が……? でも、お母様はとてもお美しいわ!」
「ええ。お母様も昔はただの子爵家の娘でね、周りの華やかな令嬢たちを見ては『私なんて、お姫様にはなれないわ』って、自信がなくてずっと落ち込んでいたの。お父様があまりにも完璧で眩しすぎて、隣にいるのが怖くて、毎日お腹を痛めていたのよ」
「お父様のせいでお腹を痛めていたのですか?」と、横で聞いていたピエールが呆れ顔で苦笑する。
「ええ。でもね。お姫様っていうのはね、生まれ持った特別な容姿や身分だけで決まるものじゃないの。自分を心から大切にしてくれて、世界で一番愛してくれる人に出会えたらね……誰だって、その人だけの『世界一幸せなお姫様』になれるのよ」
私が優しく髪を撫でて微笑むと、タチアナの青い瞳がぱっと輝いた。
「じゃあ……わたしも、いつかお父様みたいにわたしを大好きになってくれる王子様に出会えたら、お姫様になれる?」
「ええ、もちろんよ。絶対にね。お母様が保証するわ」
「ふん。そんな男が現れたら、僕たち兄弟全員で厳しく検分しますけれどね」
冷ややかに言い放つ嫡男のデイヴィッドに、次男エリックが「剣術の稽古相手になってもらおうか」と口端を上げる。
「そうしたら、きっと素敵な王子様が見つかるわね」
兄たちの言葉に安心したのか、タチアナもようやく笑顔を見せた。
すると、ピエールまで「毒の耐性試験もしましょう」と物騒なことを言い出した。
◇
「やあ、私の愛しいみんな。何やら楽しそうな話をしているね」
扉が開き、長身で逞しい眩しいほどに麗しい男が入ってきた。
十五年の歳月を経て、大人の色気と落ち着きを増した――けれど私への愛の重さだけは留まることを知らない、私の夫・リアム様だ。
「リアム様、お帰りなさいませ。お仕事はお忙しかったですか?」
「ああ。それと、今日は例の『優しい胃薬』の増産許可書にサインをしてきたところだよ。君の着眼点は、本当に素晴らしい事業になったね」
リアム様が愛おしそうに私の手を取り、指先に優しく唇を落とす。
そう、結婚後、私自身の胃痛体験と『乙女の悩み』を取り入れて開発されたハミルトン侯爵家公認の『優しい胃薬』は、今や王国中で大人気商品となっていた。
従来の『苦くて不味い大きな錠剤』とは異なり、ハーブの爽やかな香りと生薬を組み合わせた、体への負担が少なく胃に優しい、溶けやすく小さな錠剤。かつて、リアム様が贈ってくださった御殿医が特別に調合してくださった胃薬を参考に、より飲みやすく改良したものだった。さらに、社交界の若い女性たちが持ち歩いても恥ずかしくないよう、宝石のように美しい小瓶に詰めて販売したのだ。
これが『恋に悩む乙女たちの必須アイテム』『緊張する夜会のお守り』として貴族令嬢から街の乙女たちにまで大受けし、今やハミルトン侯爵家の定番人気商品として確固たる地位を築いている。
「君の体験のおかげで、胃の痛みに苦しむ人を、王国中で何千、何万と救ったわけだ。素晴らしい功績だよ、クラリッサ」
「もう、リアム様ったら……。元はと言えば、貴方が過剰なフェロモンを撒き散らして私を翻弄していたのが原因ではありませんか」
「ふふ、否定はできないね。だが、それでも私は世界一愛おしい妻を得ることができた」
リアム様は今でもご婦人たちを悩殺するあの甘い微笑みを浮かべると、子供たちの前だというのに私をしっかりと抱きしめ、耳元で甘く囁いた。
「今夜も、君にたっぷりと愛を注がせてもらうよ。胃薬の準備はできているかい?」
「っ……! リアム様、子供たちの前で何を……っ!」
「父上、母上が赤くなっているでしょう。いい加減にしてください!」
「まったく、相変わらず父上の愛は重すぎますね」
エリックも呆れたように続けた。
息子たちからの容赦ないツッコミが飛ぶ中、リアム様は気にすることもなく幸せそうに声を立てて笑った。
十代で、胃痛と結婚の重圧に震えながら逃げ回っていた私。
けれど、あの時、リアム様の手を離さなかったからこそ、こんなにも温かく、賑やかで、かけがえのない幸せを手に入れることができた。
タチアナが「お母様、とっても幸せそう!」と笑う。
(ええ、そうよ。私、今とっても幸せよ)
愛する夫と、可愛い六人の子供たち。
そして、手元には、今では持っているだけの『お守り』となった特製の美しい薬瓶。
やっぱり時々、トキメキと賑やかさで胃はチクッと痛むけれど――私は今日も王国一幸せな笑顔でリアム様の手を握り返す。
胃薬令嬢とモテ男の騎士団長の、甘くて賑やかな結婚生活は、今日も続いているのだった。
ハッピーエンド
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