◇ オリバー・パレス子爵 昼行燈の腹黒な愛妻家
王宮の文書保管庫。表向きはただの書類整理を担う部署だが、国の予算や人事、各家の内情まで集まるこの場所を、私は誰よりも熟知している。
書類の山に囲まれたデスクで、私は優雅に紅茶をすすりながら、あくびを噛み殺していた。
「おい、オリバー。人前では昼行燈を気取っているのは知っているが、余と二人きりの時くらいもう少しシャキッとしたらどうだ」
呆れ顔で私を見下ろすのは、この国の最高権力者――マクシミリアン国王陛下その人である。
学園時代からのクラスメイトであり、腐れ縁の友人。だが、周囲に人がいれば私は完璧な『子爵家の目立たない事務官』として頭を下げ、こうして誰もいない場所で二人きりになった時だけ、本来の顔を見せるのだ。
「陛下、無茶を言わないでください。私のように絵画から抜け出たような美貌を持つ男が本気を出せば、目立ちすぎて王宮の秩序が崩壊します。昼行燈くらいが丁度良いのです」
「……相変わらずだな。だが、お前のその無駄に回る頭と腹黒さには、昔から何度も救われているからな。何も言えんわ」
陛下は苦笑しながら、一枚の書簡を私のデスクに置いた。
第一騎士団副団長、リアム・ハミルトンからの正式な婚姻の願書だった。
「ついに娘のクラリッサがハミルトン家に嫁ぐか。お前も寂しくなるな」
「寂しい? 滅相もない。我が家のかわいいクラリッサを脅かしていた過剰フェロモン男を、ようやく義理の息子として叩きのめす口実ができたのですから、むしろワクワクしておりますよ」
私が冷ややかな笑みを浮かべると、陛下は「お前、顔が怖すぎるぞ……」と引きつった声を上げた。
◇
世間では、私は『「恋愛脳」の公爵令嬢に惚れ込まれ、尻に敷かれている哀れで冴えない子爵』と思われているらしい。
ふふ、本当に笑わせてくれる。
我が愛しの妻、メラニア。
彼女が学園時代、オレリー公爵家の後継者争いから異母兄のクリストファー殿を守り、自ら脱出するために『おバカな恋する乙女』を演じていたことなど、最初から百も承知だ。
『うちの両親を一緒に説得してくださるでしょう? 腹黒いあなたなら、簡単なのではないかしら?』と、あの美しい瞳で私を試すように見つめてきた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
あの凄まじく賢く、冷徹で、そして誰よりも家族想いな彼女の『兄を思う強かさ』に、私は一瞬で心を奪われたのだ。
だからこそ、私は喜んで彼女の『浮かれた恋の相手』を演じた。
公爵家の狸どもを裏から揺さぶり、メラニアの望み通りクリストファー殿に家を継がせ、彼女を我が子爵家に迎え入れた。
私にとって、世間の評価などどうでもいい。
妻が私を『腹黒くて頼りになる最高の夫』と認めてくれていて、毎夜、私の胸の中で甘い素顔を見せてくれれば、それで世界は完璧なのだ。私は、『元公爵令嬢の妻に尻に敷かれた、冴えない昼行燈の夫』、それでいいのだ。
そして、そんな私たち夫婦の間に生まれたのが、嫡男のチャールズと、愛娘のクラリッサだ。
妻の冷徹な知略とは対照的に、純粋で、素直で、あまりにも愛らしく育ってしまった我が家の天使。
そのクラリッサが、いつの頃からか『胃が痛い』と胃薬を手放せなくなった。その原因となった、彼女が恐れおののいていた相手――それが第一騎士団副団長、リアム・ハミルトンだった。
◇
結婚の儀を数日後に控えた夕刻。
私は事務仕事を早々に切り上げ、子爵邸の応接室で『将来の義理の息子』と二人きりで向き合っていた。
窓から差し込む夕日に照らされたリアム・ハミルトンは、なるほど、噂に違わぬ美丈夫だ。
隙のない佇まい、冷徹なまでに整った美貌。だが、その紫の瞳には、クラリッサへの重すぎるほどの執着と情熱がギラギラと渦巻いている。
「……お義父上。クラリッサ嬢を、必ず幸せにしてみせます」
緊張した面持ちで頭を下げるリアムに、私は優雅に紅茶を一口含み、最高の笑みを向けた。
学園時代、国王陛下すら一目置いた『本当のオリバー』の顔で。
「リアム殿。ひとつ、誤解されているようなので訂正しておきますね」
「……え?」
「我が家は、妻のメラニアが『恋愛脳』で私に惚れ込み、私がその尻に敷かれていると思われがちですが……私たちは対等なのですよ。妻は、常に冷静に状況を観察している。そして、私も同じく周囲を観察している」
私がフッと目を細め、静かに圧力をかけると、それまで余裕を見せていた第一騎士団副団長の背筋が、ピクリと強張った。騎士としての本能が、目の前の男を『危険人物』だと察知したのだろう。
「私はね、クラリッサを心から愛している。あの子が健やかに笑っているためなら、王宮の書類一枚でハミルトン侯爵家の財政を狂わせることも、騎士団の予算を凍結させることも、朝飯前なのですよ」
「っ……!」
「あの子の胃を痛めつけるような真似をしてみなさい。……いくら第一騎士団の副団長とはいえ、この国での居場所を失わせることなど、私と妻の手にかかれば極めて容易いことです」
冷ややかに言い放ち、私は優しく微笑んだ。
「分かりますね? リアム殿。……あの子を泣かせたら、容赦しませんよ」
一瞬、蛇に睨まれた蛙のように息を飲んだリアムだったが――次の瞬間、その紫の瞳に妖しい光が宿った。
恐縮するどころか、事もあろうにその整った唇の端をすっと上げ、不敵で恐ろしいほどの笑みを深めたのだ。
「……ハッ、最高ですね、お義父上。そこまでの覚悟と権力を持った義父上に守られているなら、クラリッサ嬢は一生安泰だ。心置きなく、私のすべてを注ぎ込んで愛せます」
「……」
「どうぞ、騎士団の予算でも何でもお好きに凍結してください。私は職を失おうと、丸裸になろうと、手段を選ばずクラリッサ嬢を愛し続けますので」
(……チッ、これだから優秀で腹黒い男というのは食えない)
私が一瞬で『腹黒い本性』を見せたというのに、動じるどころか『娘を愛し尽くす口実』に変換してニヤリと笑ってみせたのだ。
顔こそ照れてか少し赤くなっているものの、その瞳には私と同じ、いやそれ以上の圧倒的な執着と強さが宿っている。
この男、ただの熱血騎士でも高潔な青年でもない。クラリッサを手に入れるためなら、私の腹黒さすら利用してみせる計算高さと図太さを持った『同類の怪物』だ。
「……フッ、約束しましたよ」
私は威圧感を消し、いつもの『穏やかで冴えない子爵』の顔に戻った。
重すぎるほどの愛だが、少なくとも、娘を愛する覚悟だけは本物らしい。
(もっとも、クラリッサは私とメラニアの血を引いているのだから……いざとなれば、あなたの方が尻に敷かれることになるでしょうけれどね)
胃薬を手放せない娘と、愛が重すぎる副団長。
実に賑やかで、微笑ましい夫婦になりそうだ。
私はリアム殿を見送り、ゆっくりと手元の紅茶を飲み干すと、愛する妻メラニアが待つサロンへと、軽い足取りで歩き出すのだった。
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