第14話 忍び寄る影と、差し伸べられた手
リアム様が自らの恋心を自覚し、私たちの間に甘い時間が流れ始めたのも束の間。社交界は、子爵令嬢にすぎない私が、誰もが憧れる副団長・リアム様の『本気の愛』を独占することを、決して黙って見過ごしてはくれなかった。
「……またですのね」
女官の自分の机に向かった私は、引き出しを開けて小さくため息をついた。
仕事の書類は何枚もぐしゃぐしゃにされ、大切に使っていたペンまで折られている。ここ数日、そんな露骨で陰湿な嫌がらせが続いていたのだ。
さらに、夜会や廊下ですれ違う高位貴族の令嬢たちからの視線も、以前の『同情』から『あからさまな敵意』へと変わっていた。
「子爵令嬢の分際で、いつまでリアム様をたぶらかすつもりかしら」
「きっと何か甘い言葉でも使って、リアム様をたぶらかしていらっしゃるのではなくて?」
「ハミルトン侯爵家に恥をかかせるような女は、早く身を引けばよろしいのに」
ヒソヒソと囁かれる心ない悪意。
リアム様が自分だけに甘い言葉を注いでくれるのは、信じられないほど嬉しい。けれど――。
(……本当に、私でいいのかな)
夜、宿舎のベッドで一人になると、自信のなさがふつふつと湧き上がってくる。
私はただの子爵令嬢で、特筆した才能もなく、すぐに胃を痛めて倒れるような情けない女だ。対するリアム様は、容姿端麗、文武両道、侯爵家の次男で騎士団副団長。
今は恋の熱に浮かされているだけでも、いつか私といることに疲れ、周囲にふさわしい侯爵家や伯爵家の令嬢のもとへ行ってしまうのではないか。
(私……リアム様の足を引っ張ってるだけなんじゃないかしら)
胸がギュッと締め付けられるような痛みを覚えた。すると、また胃の奥までズキリと痛み、私は思わず胃を押さえて唇を噛みしめた。
◇
その日の夕方。勤務を終えた私は、女官宿舎へ戻るため王宮の回廊を一人で歩いていた。すると、曲がり角で数人の高位貴族の令嬢たちが、私の行く手を塞ぐように立っていた。中心にいるのは、以前とは打って変わって冷ややかな笑みを浮かべた伯爵令嬢だ。
「あら、パレス子爵令嬢。お仕事帰りかしら?」
「……何かご用でしょうか」
「ご用、ねえ。あなた、いい加減に現実をご覧になったらどう? リアム様が今あなたに夢中なのは、珍しいおもちゃに興じているだけですわ。あなたがいくら縋り付いたところで、侯爵家の御子息の妻として、子爵令嬢がふさわしいとお思い?」」
「っ……」
「身の程を知りなさいな。これ以上リアム様の名に傷をつけたくないのなら、あなたから身を引くのが『理想の婚約者』としての最低限のマナーではなくて?」
畳みかけられる正論のような悪意に、何も言い返せない。
頭では『リアム様は私を好きだと言ってくれた』と分かっていても、自信のなさがその言葉を飲み込んでしまう。
(私なんて……やっぱり……)
視界が滲み、顔から血の気が引いていく。
あまりのプレッシャーと自己嫌悪に、息がうまく吸えなくなり、みぞおちのあたりがキリキリと激しく痛み出した。
「う……くっ……」
「あら嫌だ、またそうやって具合の悪いふりをして被害者ぶるおつもり? その手はもう――」
「僕の婚約者に、何の用だ?」
凍てつくような低い声が、回廊に響き渡った。
令嬢たちは「ヒッ!」と小さく悲鳴を上げ、一斉に弾かれたように振り返った。
そこには、騎士服に身を包んだリアム様が立っていた。その紫の瞳には、これまで見たこともないほどの怒りが宿っている。全身から放たれる凄まじい殺気に、クラリッサを取り囲んでいた令嬢たちは、一瞬で青ざめた。
「リ、リアム様……! ! 私たちはただ、子爵令嬢に助言を――」
「口を慎め」
リアム様が一歩踏み出すだけで、令嬢たちは反射的に身を縮めた。
「言っておくが、ハミルトン侯爵家がどうのではない。僕自身が、クラリッサ以外の女性を妻にするつもりは毛頭ない。彼女を傷つける者は、誰であろうと僕の敵だ。……次はないと思え」
はっきりとした拒絶と最後通告に、令嬢たちはそれ以上何も言えなくなった。青ざめた顔のまま、逃げるようにその場を立ち去っていく。
静まり返った回廊で、リアム様はすぐさま私のもとへ歩み寄り、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「クラリッサ、大丈夫かい? 痛むのは胃かい? まさか、心臓か!?」
「あ……リアム……様……」
私を横抱きにしたリアム様の手は、微かに震えていた。
かつては何事にも動じなかった男が、私を失うかもしれない、傷つけられたかもしれないという恐怖で手を震わせている。
「すまない……僕が守ると言ったのに、君にこんな思いをさせて……。僕が頼りないばかりに……」
「ち、違います! リアム様のせいじゃありません……っ! 私が……私が自信を持てないから……。リアム様にふさわしくないんじゃないかって、怖くなってしまったんです……!」
溢れ出た涙を拭うこともできず泣きじゃくる私を、リアム様は愛おしそうに、そして力強く腕の中に閉じ込めた。
涙で潤んだ私の瞳に、大好きな人の心配そうな顔が映る。
いつもは完璧で、誰よりも余裕に満ちているリアム様が、今は私だけを見つめている。
「……本当に、僕が好きなのは君なんだ」
優しく頬を撫でる指先。その温もりに触れただけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「だから、もう一人で悩まないで。君が不安になったら、何度だって僕が伝える。君が僕の隣にいていいんだって」
「リアム……様……」
涙が一粒、頬を伝った。
それを見たリアム様は、愛おしそうに目を細め、指先でそっと拭ってくれる。
「泣かないで。……僕は、君の笑顔が一番好きなんだから」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
こんなにも優しい目で、こんなにもまっすぐに愛を伝えてくれている。
そんなリアム様の姿を見ているうちに、ずっと『私なんか』と縮こまっていた心が、少しずつほどけていった。
もしかしたら、私もこの人の隣にいていいのかもしれない。
そう思えた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。涙で滲んだ視界の中、私の世界にはリアム様しか映らなかった。
大好きな人が、私だけを見ている。そして、その人が私を選んでくれた。
それだけで、胸の奥にあった不安が、甘い幸福に溶かされていくようだった。
「……大好き」
気づけば、そんな言葉が唇からこぼれていた。
リアム様が一瞬目を見開き、それから、この世で一番幸せそうに微笑んだ。
「……もう一度、言ってくれるかい?」
そんな顔をされたら、恥ずかしくて死んでしまいそうなのに。
「……大好き、です」
今度は、はっきりと伝えた。
するとリアム様は、私を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
「僕もだよ。誰よりも、何よりも、君が大好きだ」
耳元で囁かれたその言葉に、私はまた涙をこぼした。今度の涙は、嬉しくて仕方がない涙だった。
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