第三話・藤の枷、狂気の断絶
寿永四年、春。
長く続いた源平の戦禍は壇ノ浦の海底へと沈み、京の都は偽りの平穏を取り戻していた。
平家を滅ぼし、日の本を統べる英雄として凱旋した源九郎義経を待っていたのは、絢爛豪華な戦勝の宴であった。公家の邸宅の広大な庭園には、篝火が幾重にも焚かれ、夜空を黄金色に染め上げている。
「いやはや、九郎殿の八艘飛び、まさに神業にござった!」
「平家のあぶれ者どもを文字通り根切りにされるとは、恐るべき執念。これでようやく、我らも枕を高くして眠れるというもの」
居並ぶ公家たちは扇を叩いて義経の並びなき武功を褒めそやし、共に修羅場を潜り抜けてきたはずの坂東武者たちは、浴びるように酒を酌み交わして勝鬨をあげる。堂々と鳴り響く平太鼓の重低音、天を穿つような笛の音、そして美しく着飾った白拍子たちの舞。雅と熱気が交錯するその空間は、誰もが勝利の果実を貪る、栄華の極みであった。
しかし、その喧騒の中心、上座に座る義経の心は、凍りつくような虚無に支配されていた。
(……醜い。ひたすらに、醜い)
黄金の杯に注がれた美酒を口に含むこともなく、義経は眼前の光景をただ冷徹に見つめていた。笑い崩れ、互いの利権を貪り合う人間たちの顔が、すべて泥を這い回る蛆虫のように見える。
どれだけ平家を滅ぼし、乱世を平定したと騒ごうが、それは表舞台の歴史の戯れ言に過ぎない。この瞬間にも、陽の落ちた京の路地裏では、あるいは遠く隔てた地方の村々では、闇に蠢く鬼が人を喰らい、肉を裂く悲鳴が上がっているのだ。
この能天気な人間どもは、真の絶望がすぐ傍らの闇に潜んでいることも知らずに、ただ目先の権力と安寧に酔いしれている。彼らが貪る平和など、砂の上の楼閣に過ぎないというのに。
「義経様……」
隣に座る静が、不安げに彼の袖を引いた。
義経の瞳が、祝いの席の華やぎを何一つ映していないことに気づいたからだ。その硝子のように透き通った、しかし底の知れない双眸は、遥か遠く、夜の闇の深淵をじっと睨みつけている。その異様な気配に、周囲の武将たちも密かに戦慄し、義経を遠巻きにしていた。英雄を称える宴は、その実、一人の「怪物」を檻に入れて監視する式典でもあった。
義経は何も言わず、杯を置くと、音もなく席を立った。
「義経様、どこへ――」
「少し、夜風に当たってくるよ、静。……すぐに戻る」
戦場であらゆる情を排し、冷酷に刃を振るう総大将の顔ではない、かつて鞍馬山の雪の中で「僕」と笑っていた少年の面影が、今の言葉に微かに混じっていた。
だからこそ、その優しさの裏にある、歪みきった純粋さと凍りついた虚無が、静にはたまらなく恐ろしかった。彼女の制止の視線をすり抜けるようにして、義経は華やかな光のなかから、一人闇へと消えていった。
◇
京の都の最果て。
そこは、街の喧騒から完全に隔絶された、月の光すら届かぬほど深い、紫の外套に包まれた異様な空間であった。
年中昼夜を問わず、狂ったように咲き誇る藤の花。
後世の「藤襲山」のような、自然と調和した洗練された美しさはここにはない。そこにあるのは、凄まじいまでの物量と、怨念に近い人間の執念が具現化した光景だった。何百本もの藤の巨木が、互いの幹を締め付けるように絡み合い、おびためしい数の使用人たちが、夜通し油灯を焚いて気温を強引に操っている。地面には禍々しいほど栄養を蓄えた肥料が注ぎ込まれ、季節を無視して花を咲かせ続けさせている狂気の庭。
むせるような濃厚な藤の花の香りが、侵入者たる義経の鼻腔を容赦なく刺した。普通の人間であれば、その瘴気に似た匂いだけで目眩を覚えるだろう。
「相変わらず、重苦しいお庭ですね」
義経は立ち止まり、草履を深く履き直した。
超人的な跳躍の際、わずかな踏み込みのブレも許さぬよう、足首に肉が食い込むほど幾重にも、ガチガチに縛り付けられた「止め紐」。その紐が、じわりと己の皮膚を裂き、血を滲ませている感触を確かめる。この激痛こそが、彼が人間の領域を踏み越えている証であり、彼の軸を完璧に固定するアンカーであった。
藤の回廊を突き進んだ先にある、古びた、しかし凛とした厳かさを纏う邸宅。
こここそが、夜の化け物を狩る影の組織の心臓部――産屋敷邸。
「よくおいでくれたね、九郎。久しいね。戦地からの無事な帰還を、心から喜んでいるよ」
襖が開くと、奥の間から、脳を揺らすような不思議な心地よさを持った、穏やかな声が響いた。
そこに座していたのは、黎明期の鬼殺の総帥――産屋敷の「御館様」であった。呪いの病はすでに彼の肉体を確実に蝕んでおり、目元の皮膚はわずかに紫色に変色し、痛々しくひび割れている。しかし、その佇まいには、すべてを包み込むような底知れない慈愛が漂っていた。
義経は居住まいを正し、静かに平伏した。藤原氏の庇護を受け、京の貴族社会にも身を置いた彼の礼作法は、洗練されており美しかった。しかし、彼の横に置かれた愛刀『薄緑』からは、どれだけ拭っても消え去らない、濃密で悍ましい人間の血の匂いが漂っている。
「ご無沙汰しております、御館様。……この度、鬼の最大の苗床であった平家を、根切りにして滅ぼしてまいりました。彼らが撒き散らす絶望こそが、新たな鬼を生み出す土壌。それをすべて、僕の手で刈り取ってまいりました」
丁寧な口調。しかし、その瞳には光がなく、語られる内容はあまりにも冷酷であった。
御館様は、盲いかけた優しい瞳を悲しそうに細め、静かに首を振った。
「平家を滅ぼし、戦乱を終わらせた君の武功、実に見事だよ。……だけど九郎。風の報告が、私の元へも届いている。壇ノ浦の戦いにおいて、刀を持たぬ、戦をせぬ水手たちまでをも、君の命令によって悉く手にかけたというのは、本当かい?」
「はい。本当でございます」
義経は一切の淀みなく、その端正な顔に柔らかな微笑みさえ浮かべて即答した。罪悪感など一辺倒も存在しない、恐ろしいほどの平然さであった。
「水手を殺さねば船は止まらず、平家の首は獲れませんでした。戦が長引けば、それだけ民の苦しみが増し、絶望した人間が無惨の血を求める。つまり、苗床が増えるのです。大局を見据えた、必要な駆除に過ぎません。なぜ、それほどの些細なことを、御館様は気に病まれるのですか?」
「些細なこと、じゃないんだよ、九郎」
御館様の手が、畳の上でわずかに震えた。それは怒りではなく、眼前の天才剣士の魂が、取り返しのつかない深淵へと滑り落ちていくことへの、深い悲痛からくる震えだった。
「私たちが刃を振るうのは、鬼に奪われた人々の尊厳を取り戻すためだ。鬼に脅かされる人の命を守るためだ。どれほどの窮地にあろうとも、どれほどの正論があろうとも、人間の命を、その尊厳を手段として犠牲にしてはならない。人間の理を自ら捨ててしまえば、九郎……君自身が、私たちが討つべき最悪の鬼になってしまうよ」
「……生ぬるうございます、御館様」
義経の微笑が消え、敬語からすべての温度が消え失せた。
次の瞬間、カァッ、と義経の肺腑が爆発的に膨張する。全集中に伴う、暴風のような圧倒的な威圧感が、部屋の空気の密度を急激に跳ね上げ、周囲の障子や襖をビリビリと震わせた。並の人間であれば、呼吸をすることすら困難になるほどの殺気。
「あなたがそうやって『目の前の一人』の尊厳とやらに拘泥し、綺麗事を並べて足踏みしている間に! 無惨は今日も新しい鬼を増やし、何千何万の民を絶望の底へ突き落としている! 無惨という世界の巨悪を屠るためなら、数千、数万の障害(人間)の犠牲など、単なる誤差、必要経費に過ぎません。なぜ、それがご理解いただけないのですか? 僕は、一刻も早くあの男の首を刎ねたいだけだ!」
「九郎……」
御館様は、義経が放つ凶悪な風圧に晒され、病める肉体に激痛が走りながらも、微動だにしなかった。ただ真っ直ぐに、盲いかけた両目で義経を、その心の奥底にあるひび割れた深淵を見つめ返した。
「君が歩くたび、その足元から、肉が紐に締め付けられ、骨が軋む痛ましい音が聞こえるよ。無理に肉体を縛り、痛みを無視し、心までをも狂気で縛りつけて……君は一体、どこへ行こうというんだい。君の心はあまりにも純粋だ。鬼のいない、優しい世を創りたいという願いに嘘はないだろう。だけどね、九郎。その目的のためにあらゆる手段を肯定し、他者を排斥する独善。それこそが、己の生存のために他者を喰らう鬼舞辻無惨と同じ、『不滅の利己』なんだよ。君の足元に絡みつくその枷は、君の軸を支えるものではない。君を人の世から、引き剥がすための呪いだ」
不滅の利己――その言葉が、義経の胸の奥に冷たく突き刺さる。
部屋の中に、針が落ちても聞こえるほどの、張り詰めた沈黙が流れた。
義経はゆっくりと立ち上がり、傍らの薄緑を手に取った。その所作はどこまでも優雅で、気品に満ちていたが、瞳の奥は光を完全に吸い込む底なしの暗黒に染まっていた。
「……私は、私のやり方で無惨の首を獲ります。誰に理解されずとも、どれほどの血の海を泳ぐことになろうとも。お騒がせいたしました、御館様。これにて御免」
義経は背を向け、藤の花が狂い咲く庭へと歩き出した。
その去り際、雲が割れ、差し込んだ冷たい月光が愛刀『薄緑』の刃を照らし出す。
一ノ谷、壇ノ浦で無数の人間の血を吸いながらも、不気味なほど瑞々しい若葉色を保っていたその刃。しかし今、その美しい緑の地肌に、初めて、不穏などす黒い緑の斑点が、まるで毒が毛細血管を伝って回るように、じわりと、確かに走った。
それは、彼が守るべき「人間の理」と完全に決別したことによる、破滅への前兆。
だが義経は、自らの刃に宿ったその濁りに気づくこともなく、静かに闇へと消え去った。
◇
「ゴフォッ……! ガハッ、ゴホッ……!!」
義経の足音が完全に消えた直後、産屋敷の口から大量の鮮血が、激しい勢いで畳へと吐き出された。
義経が放った人外の威圧感、そして彼が背負う未来の圧倒的な絶望の質量が、御館様の身体を蝕む呪いの病を、急激に、かつ致命的に悪化させたのだ。
「御館様!」「御館様、しっかりしてください!」
天井裏の闇から、そして部屋の影から、気配を消して控えていた複数名の鬼殺の剣士たちが一斉に飛び出し、崩れ落ちる御館様の身体を必死に支える。
「ふぅ……ふぅ……っ。私のことは、いい、気にするな……。それより、九郎を……九郎を今、このまま行かせてはならない……!」
御館様は血に濡れた唇を小刻みに震わせ、己を支える剣士たちの衣類を、骨が白く浮き出るほどの力で強く掴み、懇願した。その声には、平時の穏やかさはなく、明確な焦燥と恐怖が混じっていた。
「九郎の心は、完全に壊れてしまっている……。彼は今、鎌倉へ向かおうとしている。自分を排除しようとし、民を支配して新たな争いの種を蒔く実兄――頼朝殿を、鬼を生まない世創りの最大の『障害』とみなしてしまったんだ。頼朝殿を殺せば、この国は再び終わりのない戦乱に逆戻りし、何万の民が新たな鬼の苗床となる。そして何より、実の兄を殺せば、九郎は完全に人間の理を失い、二度と戻れない一線を越えてしまう……! 頼朝殿の命を守るためではない。九郎を……あの子をこれ以上、鬼の道へ進ませないために、今すぐ止めにいくんだ……! 頼朝殿に届く前に、彼を拘束しておくれ……!」
「ハッ……!」
御館様の悲痛な命を受け、影を纏った精鋭の剣士たちが、藤の回廊を抜けて一斉に夜の闇へと飛び出していった。
◇
夜の帳が降りる、京の郊外の荒野。
冷たい夜風が吹き抜ける中、義経は愛馬を走らせ、一路、鎌倉の地を目指していた。彼の頭脳は、実の兄である源頼朝をいかに効率的に「排除」するかという、冷徹な戦術の計算だけで埋め尽くされていた。
「兄上は優れた政治家だ。しかし、それゆえに人間の欲を肯定し、新たな武士の世という『戦乱の火種』を創り出そうとしている。人間が権力を奪い合い、絶望する世が続く限り、鬼は無限に湧き出る。ならば、武士の世の頂点となる兄上を消す。それが、最も速く無惨を引きずり出す道だ」
かつて黄瀬川の陣で自分を涙ながらに抱きしめてくれた兄の温もりなど、今の義経にとっては、大義の前に切り捨てるべき塵芥に過ぎなかった。
その時、ヒュオッ、と不自然な風が巻き起こり、街道の行く手を遮るように、数条の黒い影が舞い降りた。
月光に照らされたのは、異形の面をつけ、腰に日輪刀を携えた鬼殺の剣士たち。その構え、足腰の据わり方、そして独特の呼吸の音――いずれも、義経がよく知る、産屋敷の精鋭たちであった。
「そこまでだ、九郎!」
先頭に立つ、初老の剣士が鋭い声を放つ。その刀身は、洗練された技の気配を纏っていた。
「御館様のご命である! 鎌倉へ向かうことは断じて許されぬ。頼朝殿への刃を収め、我らと共に引き返されよ! これ以上、過ちを重ねるな!」
義経は静かに馬を止め、手綱を握る手を緩めた。そして、月光の下で、心底哀しそうに、困惑したように首を振った。
「過ち……? あなたがたまで、僕を邪魔するのですか。私はただ、誰も泣かない優しい世を創りたいだけなのです。鬼のいない、子供たちが笑って暮らせる春を、この国に取り戻したいだけなのです。なぜ、それがわからない」
「そのために人を殺し、実の兄まで手に掛けるというのなら、それは鬼の所業だ!」
剣士たちの言葉は、しかし、義経の鼓膜を震わせるだけで、彼の歪んだ精神には一滴も染み込まなかった。
義経の右手が、ゆっくりと、しかし確実な動作で『薄緑』の柄にかかる。
キチ、キチ、と足首の止め紐が肉を締め付ける音が、静まり返った荒野に不気味に響いた。
「……哀しいですね。鬼を滅ぼすという目的を同じくした同志だと思っていたのに。あなた方も、兄上も、公家どもも、みんな同じだ。目の前の小さな感傷に囚われ、巨悪を見ようとしない。僕の理想を拒み、世界を絶望のままに据え置こうとするのなら」
引き抜かれた刃。
そこには、昼間の宴で浴びた人間の返り血が、どす黒い緑の斑点となって、べっとりと、呪いのようにこびりついていた。
かつて同じ志を持った同胞たちへ向けて、最凶の天才剣士は、氷のように冷たい視線を向けた。
「たとえ鬼殺の仲間であろうと、私にとっては……道を塞ぐ『ただの障害』でございます。駆除いたします」




