第二話・金色の野、血塗れの若葉
鞍馬山に吹き荒れた夜風が、瑞々しい薄緑色の刃を祝福してから、瞬く間に二年が過ぎた。
十三歳だった牛若丸は、平泉の奥州藤原氏のもとへと身を寄せ、その庇護下で「源九郎義経」という新たな名を与えられていた。
しかし、名が変わろうとも、彼の本質は何も変わっていなかった。いや、むしろ研ぎ澄まされ、常軌を逸した領域へと加速していた。
「……いない。ここにも、あの男の気配はない」
十五歳になった義経は、月明かりすら届かぬ平泉の鬱蒼とした竹林に立ち、夜風に鼻腔を震わせていた。
手にするのは、あの夜から彼の半身となった刀――薄緑。
彼がこの数年間、夜な夜な闇に紛れて行ってきたのは、単なる剣の修行ではない。京の都、そしてこの奥州の地に跋扈する「人を喰らう異形」の駆除であった。すでに数十体もの鬼を屠ってきた。だが、彼の焦燥は薄れるどころか、泥のように足元から這い上がり、その心をじわじわと侵食していた。
「いくら雑魚を間引いたところで、埒が明かない。あの『鬼舞辻』という始祖の首を落とさねば、この連鎖は永久に終わらないのだ……」
その時、背後の闇がにわかに爆ぜた。
竹林の影から、血の匂いを撒き散らす醜悪な異形が、鋭い爪を剥き出しにして飛びかかってくる。
「何余所見している、ガキがァ!」
不意を突いたつもりの鬼。だが、義経は振り返りさえしない。
深く履き込んだ草履。その足首を、肉に食い込むほどガチガチに縛り付けた「止め紐」が、ぬかるんだ土を冷徹に、完璧に捉えていた。一ミリの軸のブレすらも許さない、人外の体幹。
カァッ、と、大きく吸い込まれた息が、義経の肺腑を爆発的に膨張させ、全身の脈を跳ね上げる。
「邪魔だ。消えろ――『風ノ技・壱、塵旋風・削ぎ』」
地を蹴る音すら置き去りにした、凄まじい烈風の旋回。
すれ違いざまの一閃。鬼は、自分がいつ斬られたのかすら理解していなかった。交錯した次の瞬間には、巨大な首が宙を舞う。
「が、は……っ! お前、何者だ……!」
灰になりかける口で、鬼は呪詛を吐き散らした。
「俺を、俺たちをいくら斬っても無駄だァ! 今の日の本を見ろ! 京の都にゃあ、平家の奴らが毎日毎日、死体の山を作ってくれる! 絶望した人間どもが、俺たちの『あのお方』の血を求めて列をなしてるさ! 平家万歳、乱世万歳だ! 鬼は、無限に湧き出るぞォ!!」
鬼は、狂った笑い声を残して夜風に消えた。
圧倒的なまでの蹂躙。しかし、義経の表情には勝利の歓喜も、人を守ったという安堵の光もない。ただ、凍りつくような虚無の瞳が、灰の消え去った虚空を見つめている。
少年の中で、純粋すぎるがゆえの歪んだ思考の歯車が、カチリと不吉な音を立てて噛み合っていった。
「……そうか。平家がこの国を支配し、民を苦しめ、絶望を振り撒いている。だから人間が絶望し、鬼へと堕ちる『苗床』ができるのだ。元凶を絶つには、まず苗床ごと叩き潰さねばならない」
義経の瞳に、ぞっとするような昏い光が宿る。
「平家を打ち滅ぼし、この世から絶望を根絶やしにする。僕の手で、新しい、誰も泣かない優しい世を創る。そのためなら……僕は、何だってする」
「鬼の根絶」という純粋な目的は、いつしか「平家の殲滅」という手段の肯定へとすり替わった。彼にとって源平合戦とは、単なる天下平定の戦ではない。「無惨を引きずり出すための前哨戦」であり、「人間の形をした障害物の駆除」に過ぎなくなったのだ。
その歪んだ正義を胸に、義経は兄・源頼朝の挙兵を知るや否や、奥州を飛び出して駿河国・黄瀬川の陣へと馳せ参じた。
「九郎か! よくぞ来てくれた、我が弟よ!」
涙を流して我が子のように抱きしめる頼朝。しかし、歓喜の声を上げる兄の背中で、義経はただ静かに微笑んでいた。
政治の天才であり、人間の「業」や「欲」を誰よりも理解しコントロールしてきた頼朝は、弟の目を見た瞬間、背筋に走る強烈な悪寒を覚えた。
(……なんだ、この目は)
こいつには欲がない。権力への執着も、名誉への渇望も、生への執着すらもない。ただ濁りのない「透明な狂気」だけで動いている。これは、人間(武士)の目ではない。人の形をした、異形(化け物)の目だ。
頼朝の心に、消えない悍ましい違和感が植え付けられた瞬間だった。
◇
寿永三年、二月。一ノ谷の戦い。
平家が強固な陣を敷く一ノ谷の背後には、およそ馬など降りられるはずもない、切り立った断崖絶壁――『鉄拐山』がそびえ立っていた。
「九郎殿、正気か! この崖を降りるなど、ただの自決にござる!」
老練なる武将、畠山重忠が驚愕に声を荒げる。
しかし、義経の耳に人間の常識など届かない。
緊縛された足首が、馬上での彼の重心を完璧に固定していた。世界がどれほど傾こうとも、彼の軸は絶対にブレない。
「降りるのではない。風になるのだ。これしきの壁、僕の歩みを止める盾にはならん」
義経は深く、冷たい夜の空気を吸い込んだ。細胞の一つ一つが過剰な酸素で脈動し、鋼のように引き締まる。全身の力を、ただ一つの技へと全て集中させる。
「――『風ノ技・伍、木枯らし颪』!!」
ドォッ!!!
轟音と共に、義経の愛馬が崖へ向かって跳躍した。
それは坂落としなどという生易しいものではなかった。垂直に近い滑空。義経の放つ突風の如き全集中の圧力が、馬の蹄と断崖の衝突を強引に緩和し、重力を置き去りにした速度のまま、一瞬にして平家の本陣へと着地した。
「な、なんだあの男は……! 天から降ってきたぞ!?」
「化け物だ! 狂人が攻めてきたぞ!!」
大パニックに陥る平家の兵たち。
そこへ、義経が薄緑の刀を引っ提げて突撃した。彼の動きはあまりにも美しく、そして残酷だった。敵が人間であろうと、彼は躊躇なく「風ノ技」を叩き込む。
「平家は皆、悉く根切りにしろ。一人も残すな」
返り血を浴びながら、事務的に、効率的に人間の首を撥ねていく義経。その姿は、戦を戦う「武士」ではない。害虫を機械的に駆除する「怪異」そのものだった。
勝利に沸くはずの坂東武者たちは、一呼吸も乱さずに死体の山に立つ義経の姿に、歓喜を通り越して、背筋が凍るような恐怖を抱き始めていた。
◇
戦火の合間、京の都。義経の荒んだ心を唯一繋ぎ止める存在がいた。
京の白拍子――静。
彼女は、義経の傷だらけの、そして草履の止め紐で真っ赤に腫れ上がり、血の滲んだ足首を、愛おしそうに白い布で拭った。
「義経様……貴方様の目は、いつも遠くの闇を睨みつけていらっしゃる。もう、これ以上お身体を痛めつけないでくださいませ……」
静は、義経が戦功を挙げるたびに、その心から「人間」が消え去り、人ならざる怪異へと変貌していく恐怖に怯えていた。涙を流す彼女の頭を、義経は優しく撫でる。だが、その口から漏れた言葉は、どこまでも歪んでいた。
「静。僕は化け物になってもいいんだ。お前や、これから生まれる子供たちの世代に、鬼のいない本当の春をあげるためなら、僕はどれだけの血を流しても構わない」
すべては優しい世界のため。だから、目の前の障害(人間)をいくら殺しても構わない。
破滅へ向かう純粋な暴走を、静の深い愛すらも止めることはできなかった。
◇
元暦二年、三月。長門国壇ノ浦。
激しい潮流が渦巻く海上での、源平最終決戦。
船戦に長けた平家の矢の雨に、源氏の軍勢は苦戦を強いられていた。
だが、義経の執念は、海の上ですら嵐を巻き起こす。
「――『風ノ技・参、晴嵐風樹』!!」
義経の放つ強烈な風の圧力が、向かい風を追い風へと強引に変えた。船を操る平家の水手たちが、突如として変わった風向きに翻弄される。義経は冷酷に言い放った。
「水手を狙え。船を止めろ」
「なっ……!?」
周囲の源氏の武士たちが一瞬、驚愕に目を見張った。当時の戦の作法において、非戦闘員であり航行の要である水手を殺すことは絶対の禁忌。だが、義経にとって平家は「無惨へたどり着くための障害」でしかない。人間の道理など、とっくに捨て去っていた。
一艘、二艘、三艘――。
義経の身体は、激しく揺れる船の上を、重力を無視して跳び移っていく。のちに『八艘飛び』と称えられる、人外の跳躍。
「う、動くな! 来るな、化け物め!」
平家の総大将が恐怖に顔を歪める。だが、その首は、薄緑色の美しい軌跡を描いた一閃によって、すでに海へと叩き落とされていた。
平家、滅亡。
海は人間の血で真っ赤に染まり、源氏の勝鬨が響き渡る。
しかし、義経は一人、血塗られた船の甲板で、狂ったように薄緑の刀を強く握り締めていた。
「……いない。ここにも、いない」
どれだけ平家を滅ぼしても、どれだけ人間の首を撥ねても。
あの、世界を夜の絶望に突き落としている元凶――鬼舞辻無惨の首には、指一本届かない。平家はただ、義経に怯えていただけの、ただの「人間」に過ぎなかったのだ。
「平家を滅ぼせば、鬼の根絶に近付くと思ったのに……! なぜだ! どこにいる、無惨ッ!!」
天を仰ぎ、叫ぶ義経。
その背後から、彼を迎えに来た源氏の兵たちが、ガタガタと身体を震わせて後退りした。
「九郎判官殿は……本当に人間なのか?」
「あの八艘飛び、あの逆落とし。奴こそ、鬼そのものではないか」
人々のために戦ったはずの天才は、その圧倒的な強さと残残虐性ゆえに、周囲の人間から怪物として恐れられ、疎まれていく。
そして鎌倉の頼朝のもとには、恐怖に満ちた密告が届き始めていた。
『源九郎義経、その武功は人にあらず。いつ牙を剥くか分からぬ、危険な怪異にござる』と。
これほど大量の人間の血を吸いながらも、愛刀『薄緑』は赤く染まることすらなく、不気味なほど瑞々しい若葉の色を保っていた。
まるで、「お前が斬ったものは最初から人間ではない」と、刀そのものが義経の狂気を肯定し、嘲笑っているかのように。
それを握る義経の心は、無惨への焦燥と、周囲からの孤立という底なしの闇へ、完全に堕ちていこうとしていた。




