9 沈黙の夜想曲
放課後の図書室。いつものように課題を終えた私に、お兄様は小さな革張りの箱を差し出した。
彼が何かを話しているけれど、私に届くのは、いつも通りの静まり返った無音だけだ。
箱の中から現れたのは、深い銀色の輝きを放つ一本の万年筆だった。
お兄様が愛用しているものと同じ、王立研究所の刻印が入った特注品。それを手に取った瞬間、微かにお兄様と同じ、冷たい薬草と古い紙の匂いが鼻腔をくすぐった。
お兄様は私の前にノートを広げ、流麗な筆致で文字を綴っていく。
[アリア。君がノートに綴る文字は、僕への手紙と同じだ。だから、他の誰のインクも混ざってはいけないよ]
お兄様の長く細い指が、私の指を万年筆ごと包み込む。
そこから、指先を伝ってかすかな魔力の「揺らぎ」が伝わってきた。それは冬の湖の底をなぞるような、冷たくて深い、彼特有の静かな拍動。
[ありがとうございます。……大切にします]
私がノートの隅にそう書くと、お兄様は満足そうに目を細めた。
彼が私の唇の動きを読み、微笑みを深める。その瞬間、私は自分の右手に、見えない銀の糸が巻き付けられたような錯覚を覚えた。
別れ際、お兄様が私の髪に顔を寄せた。耳元に彼の唇が触れる。
何を言っているのかは分からない。けれど、その吐息の熱と、彼から伝わる微かな「震え」が、今の私には何よりも雄弁な、逃げ場のない独占の意志に感じられた。
***
その夜、寮の部屋で一人になった私の手には、まだそのペンの冷たさが残っていた。
(⋯⋯空気が揺れてる⋯)
音が聞こえない私にとって、世界は常に平坦で静かだ。けれど、壁の向こうで魔法が暴発するたびに、肌を刺す不快な魔力の「波立ち」が伝わってくる。
私は縋るように万年筆を握りしめた。
けれど、ペンから漂うお兄様の匂いは、かえって彼が隣にいない孤独を際立たせる。
お兄様がいないと、このノイズだらけの世界に、一人で置き去りにされたような気がして――。
私はたまらなくなり、まだお兄様の残り香が漂っているはずの、あの静かな図書室へと走り出した。
***
窓の外、雲ひとつない夜空には、凍てついた月が独りきりで浮いていた。その青白い光が書架の背をなで、埃の粒子を銀色に染め上げている。
いつもの、誰にも邪魔されない奥まった席。ユリアンとアリアの定位置にもなったそこに腰を下ろした時、机の上に一枚の譜面が残されていることに気づいた。
それは、数式と音符が複雑に絡み合った、書きかけの魔導式だった。
実はほんの数分前まで、この席にはユリアンが座っていた。
王立研究所の天才と謳われる彼でさえ、この「沈静の夜想曲」の構築には手を焼いていたのだ。どれほど緻密に数式を組んでも、納得のいく「調和」には辿り着けない。
「チッ……美しくない」
いつもは完璧なポーカーフェイスを崩さないユリアンが、珍しく苛立ちを露わにしてペンを投げ出した。試行錯誤の末の、どうしようもない不協和音。むしゃくしゃとした感情を冷ますため、彼は譜面を置いたまま、夜気にあたるべく図書室を後にしたのだった。
そんなこととは露知らず、アリアの視線はその譜面に留まる。
(……この音、すごく悲しい)
耳ではない。魂の奥底で、その未完成の数式が「泣いている」ように感じた。
それは荒れ狂う魔力を静めるための夜想曲。けれど、その旋律は途中で歪み、不自然な断絶を繰り返している。
(……ここは、ドではなくシのフラットでなければ、美しくないわ)
アリアは無意識にペンを手に取った。音が聞こえないはずの彼女の指先が、まるで見えない鍵盤を叩くかのように、しなやかに、そして迷いなく動き出す。
前世で、数万回、数億回と繰り返した、あの「神童」の動き。
アリアが譜面を書き換えるたび、彼女のミスティック・バイオレットの瞳が、熱を帯びたように深紫へと染まっていく。同時に、図書室の空気が凛と張り詰めた。
アリアの指先から、彼女の髪色と同じ白銀の光の粒子が零れ落ち、譜面の上で銀色のレースを編むように広がっていく。
「――つ」
最後の一筆を書き終えた瞬間、図書室からすべてのノイズが消えた。風の音も、建物の軋みも。
そこにあるのは、死のような静寂ではなく、何層にも重ねられた「完璧な調和」による、至高の無音。
「……あ」
我に返ったアリアが、自分の仕出かしたことに気づいて顔を青くした。知られてはいけない。自分の中に、まだあの「呪い」が生きていることを。急いで立ち去ろうと背を向けた、その時だった。
図書室の重い扉が開き、一人の青年が戻ってきた。
頭を冷やし終え、再び譜面に向き合おうと戻ってきたユリアンは、一歩足を踏み入れた瞬間に息を呑んだ。
五感を、魂を、圧倒的な「完璧な無音」が支配している。
自分がどうしても生み出せなかった、究極の調和。
ユリアンは眼鏡の奥の瞳を限界まで見開き、アリアの肩越しに、白銀に輝く譜面を凝視した。その瞳には、かつてないほどの驚愕と、そして狂気にも似た歓喜が宿っていた。
「アリア……………今の"音"は、君が⋯⋯奏でたのか?」




