8 甘い静寂と蒼い静寂
クラリスたちから逃れるようにして辿り着いた図書室は、世界から切り離されたように静まり返っていた。
お兄様は私をいつもの席に座らせると、自分も対面に腰を下ろし、クラリスに押し付けられていた分厚い課題の束を手繰り寄せた。
[……なるほど、これは意地悪だ。高学年で習う魔導の応用式がいくつも混ざっているね]
お兄様はノートにそう書くと、困ったように眉を下げて笑った。
[でも大丈夫。僕が分かりやすく翻訳してあげるからね。アリア、万年筆を持って]
お兄様に促され、私は自分の万年筆を握った。
お兄様は私のノートの余白に、サラサラと美しい数式を書いていく。それは複雑なはずなのに、私にとっては、綺麗に調律された五線譜を眺めているかのようにスッと頭に入ってきた。
[ここに、この記号を置いてごらん]
お兄様の指示通りに私が万年筆の先を動かすと、彼は満足そうに目を細めた。そして、私の丸っこい文字の隣に、流れるような文字を書き加える。
[正解。アリアは物覚えが良いね。……ねえ、アリア。僕の隣は、少しは落ち着くかい?]
その文字を読み、私は小さく胸が温かくなるのを感じた。
お兄様の横は、何も怖い事も苦しい事もない。ただ、静かなペンの音だけが響くこの空間が、私には何より愛おしかった。
私はノートを受け取り、迷いなく文字を紡いだ。
[はい。お兄様の隣は、とても静かで……大好きです]
書き終えてから、「大好き」という言葉が少し恥ずかしくなり、私は顔を赤くして俯いた。
お兄様は私の書いた文字をじっと見つめると、耐えきれないといったように小さく吹き出した。そして、私の頭をくしゃくしゃと撫で回す。
[僕もだよ、アリア。また明日も、ここで一緒に勉強しようね]
お兄様の温かな手のひらの感触に、私は静かに微笑んだ。前世でも今世でも味わえなかった「家族の温もり」が、ここには確かにあった。
***
それからの一週間、放課後の図書室は私たち二人だけの「特別な教室」になった。
相変わらず世界は騒がしく、周囲の生徒たちが放つ魔力のノイズが肌をチクチクと刺す。今日も図書室に行こうと俯きがちに歩いていたが、校舎へ続く長い回廊に差し掛かった、その時。
不意に、周囲を埋め尽くしていた不快な空気の振動が、凪いだ海に飲み込まれるように一瞬で消え去った。
(え……?)
私は驚いて顔を上げた。
正面から、一人の生徒が歩いてくる。氷のように冷徹な美貌の青年。その隙のない佇まいは、制服よりも銀の縁取りがなされた黒い軍服を纏い、剣を佩いている姿の方が相応しいように思えた。
彼が近づくにつれ、私の視界は、見たこともないほど深く、透き通った「蒼い残響」に満たされていった。
お兄様の音が「温かな銀の盾」なら、この人の音は「底の見えない静謐な深海」。あまりに巨大で、圧倒的なその「静寂」に、私は立ち止まり、呼吸を忘れて彼を見つめた。
すれ違いざま。
その人――エリオット・ノクターンが、わずかに足を止める。
彼は周囲の女子生徒たちの、騒がしく波立つ魔力を疎むように眉をひそめていたが、私の横を通った瞬間、その鋭い視線が私の瞳と真っ向からぶつかった。
「………………」
彼の瞳が、驚きにわずかだけ揺れる。
まるでお互いの内側にある「同じ静寂」を、鏡越しに覗き込んでしまったかのような、不思議な沈黙が流れた。
私の耳に、言葉は届かない。
けれど、彼と視線が合った瞬間、私の胸の奥に一音だけ、ピアノの低音を叩いたような、重厚で美しい「残響」が直接響いた気がした。
(……きれいな、おと)
彼は何も言わず、すぐに視線を外して歩き去っていった。
後に残ったのは、彼が通った道にだけ漂う、冷たくて優しい蒼い余韻。
(……え? 音? 気のせい、だよね……)
私は、まだ耳の奥に残る重厚な一音を振り払うように頭を振り、急いで図書室へ歩き出した。お兄様が用意してくれたあの静かな時間を、誰にも邪魔されたくなかったから。
***
「少し遅かったね、アリア」
図書室の扉を開けた瞬間、お兄様が顔を上げた。
そのアイスグレーの瞳が、一瞬だけ鋭く私の髪先をなぞった気がした。獲物の匂いを辿るようなその視線に、私は背筋が粟立つのを感じたけれど、お兄様はすぐにいつもの穏やかな微笑みに戻った。
お兄様はいつも優しく課題を教えてくれ、私の拙い筆談の言葉を一つも漏らさず拾い上げてくれる。
「……アリア、今日はここまでにしようか」
夕暮れ時。お兄様の唇が動き、深く静かな「振動」が直接私の心臓を叩いた。
私が頷いて荷物をまとめようとした時、お兄様がふいに立ち上がり、私の背後に回った。
「…………っ」
ふわりと、お兄様の纏う紙と冷たい薬草の匂いが鼻腔をくすぐる。
お兄様は私の肩越しに長い腕を伸ばし、机の上に置いたままだった私のノートを、そっと指先でなぞった。
[アリア。僕のいないところでは、決して他の誰にも、君の「文字」を見せてはいけないよ]
ノートに書き足されたその文字は、いつもの穏やかな筆致ではなく、どこか冷たく、鋭い意志を孕んでいるように見えた。
驚いて身を固くした私の肩を、お兄様の大きな手が、逃がさないようにグッと強く固定する。
「……君のその美しい静けさは、僕だけが知っていればいい」
声は聞こえない。けれど、耳元に寄せられた彼の唇の動きは、私の脳裏に直接呪いのように焼き付いた。
眼鏡の奥の瞳は、いつもの「優しい兄」のものではない。大切な獲物を自分だけの檻に閉じ込めようとする、飢えた肉食獣のそれによく似ていた。
「じゃあ、また明日。アリア」
私が呆然と立ち尽くしていると、お兄様はいつもの柔らかな微笑みに戻り、私の頭を優しく撫でて図書室を去っていった。
(……いやいや、お兄様だよ!?)
トクトクと、私の胸の奥で、自分でも理由の分からない高鳴りが響いていた。




