7 ピッコロとチェロ
ピッコロ好きの方にとっては不快に思われるかもしれません。ごめんなさい。
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放課後。私は一人、重い足取りで旧校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。
早く、あの静かな図書室へ逃げ込みたい。そう願って視線を落としていた私の前に、カツ、カツと、わざとらしく鋭いヒールの音が立ちはだかった。
「今日も一言も発さずに、置物のように授業を受けていたのね、アリア」
顔を上げずとも分かった。クラリスお姉様だ。
彼女が取り巻きを引き連れて私の前に立ち塞がると、周囲の空気がトゲトゲとした攻撃的な魔力でピリピリと震えだす。耳は聞こえなくても、その不快な振動が肌を刺して、私はその場から動けなくなってしまった。
「王立研究所の天才であるお兄様の授業に、あなたみたいな"無能"がいるなんて、レゾナンス家の泥を塗るようなものよ。少しは恥というものを知りなさい。」
鼓膜を貫くようにわざと甲高い音を出している、ピッコロの声だった。唇の動きから紡がれる棘のある言葉。周囲の嘲笑。
逃げ場のない廊下で、私はただ嵐が過ぎ去るのを待つように、机の下でそうしていたように指を強く組んで身を縮めた。
(お願い……誰か、この嫌な"音"を止めて……)
その時だった。
私の背後から、ふわりと、あの刺すような魔力振動を一切含まない、チェロの旋律ような穏やかで柔らかな風が吹いた。
「やあ、クラリス。私の可愛い妹に、そんなに熱烈な指導をしてくれているのかい?」
聞き覚えのある、深く静かな響き。
振り返ると、そこには研究所の白いコートを翻したお兄様が立っていた。眼鏡の奥の瞳はいつものように知的な光を湛え、完璧な「優しい兄」の微笑みを浮かべている。
「ユ、ユリアンお兄様……!」
クラリスの顔が一瞬で強張り、取り巻きたちも息を呑んで一歩下がった。
お兄様は優雅な足取りで私の隣まで来ると、さりげなく私の肩を抱き寄せるようにして、クラリスたちの放つ刺々しい魔力から私を庇うように自分の体で遮った。
その瞬間、私を苛んでいた不快な振動が嘘のように消え去る。お兄様の纏う、完璧に調律された静かな魔力が、私を優しく包み込んでくれたのだ。
「……でも困ったな。今からアリアには、私の特別講義の助手を手伝ってもらう約束になっていてね。連れて行ってもいいかな?」
「じょ、助手、ですか……? ですがアリアは魔法も使えない無能で……」
「おや、クラリス。王立研究所の私のやり方に、異を唱えるというのかい?」
お兄様は微笑んだままだった。けれど、その声の底には、クラリスたちを蛇のようにすくませる冷徹な威圧感が潜んでいた。
クラリスは顔を青くし、それ以上言葉を続けることができずに「し、失礼します……っ」と逃げるように去っていった。
嵐が去り、静まり返った廊下。
お兄様はふっと表情を和らげると、私と目線を合わせるように少し屈んで、ノートにサラサラと文字を書いた。
[怖かったね、アリア。もう大丈夫だよ。僕の図書室へ行こう。クラリスの課題、一緒に解いてあげるからね]
その文字を見た瞬間、私の目からじわりと熱いものが込み上げた。
前世でも、今世でも、誰も私の味方をしてくれなかった。完璧でなければ価値がないと切り捨てられる世界で、お兄様だけが、私の盾になってくれたのだ。
(お兄様は……私の、味方なんだ……!)
私は小さく頷き、お兄様の白いコートの袖を、ぎゅっと掴んだ。
その場所だけは、世界で一番静かで、安全なシェルターのように思えた。




