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10 鏡合わせの絶望

 静寂を裂くように、彼の唇が鋭い魔力の震えと共に言葉を紡いだ。 


 衝撃に指先の力が抜け、握りしめていた銀のペンが手から滑り落ちる。

 床に当たったはずの振動さえ今の私には届かない。ただ、掌に残る冷たい感触がふっと消えたことだけが、自分の動揺を証明していた。



 背後から押し寄せる、心臓を直接掴まれるような鋭い「振動」。私は恐る恐る振り返る。

月明かりの下、一人の青年が立っていた。 学園で、自分を唯一見つめていたユリアンお兄様。


 お兄様の言葉が、私の耳には届かないはずの「声」としてではなく、鋭い「振動」 として心臓を突き刺した。



(……ああ。また、あの目だ)



 月光に照らされたお兄様の瞳。そこにあるのは、知的な兄の面影ではない。


 自分が解けなかった難問を、いとも容易く"正解"へと書き換えた未知の才能――その「稀少な楽器」を手に入れたことへの、狂おしいまでの悦び。


 その爛々と輝くアイスグレーの瞳が、前世、スポットライトの向こう側で私を見ていた大人たちの瞳と重なる。

 彼らが愛したのは、私ではない。私の指先が紡ぐ、一音の狂いもない完璧な音色だけだった。

 指が動かなくなれば、昨日までの称賛はすべて呪いへと変わり、私という人間は「壊れた道具」として打ち捨てられる。


(お兄様も、私を……「それ」として見るの……?)


 今の彼から伝わってくる歓喜の振動は、私を救うためのものではない。私という獲物を逃がさないために張り巡らされた、鋭い銀の糸だ。


 

 せっかく手に入れた、誰もいない、何も聞こえない、この優しい無音の世界。


 それを今、目の前の男が、自らの好奇心と期待という名の暴力で、土足で踏み荒らそうとしている。


(やめて……。見ないで。私に「音」を、期待しないで……!)


 お兄様の歓喜が、私にとっては喉を絞める「死の旋律」となって迫りくる。




 その恐怖が頂点に達した瞬間、私の意識は、あの日、すべてが白く塗り潰された鑑定式の記憶へと引き摺り込まれていった。











――十歳。あの日も、今日のように冷たい月が出ていた。


 レゾナンス家の伝統、魔音の鑑定式。


「さあ、アリア。お前の音を聴かせておくれ」

父の期待に満ちた声。

完璧な和音を響かせて誇らしげな姉、クラリス。

  アリアが震える手で"魔音の水晶"に触れた瞬間、それは起こった。





⋯⋯⋯⋯水晶が音を拒んだ。

 その沈黙は、鋭い刃物となって私の肌を削り、周囲の失望という名の重圧が、逃げ場のない不協和音となって私を押し潰した。






 期待が失望に、失望が軽蔑へと変わっていく、あの刺すような視線。



(⋯⋯あの目、見たことある⋯⋯⋯)



  それが、前の人生――スポットライトの下で指が動かなくなった私に向けられた、あの観客たちの冷ややかな目と重なった。



『期待に応えられないお前に、価値などない』 『神童でなければ、ただの壊れた楽器だ』


 頭の中に、前世で自分を壊したあの曲――冷酷な「木枯らし」の旋律が、凄まじい不協和音となって鳴り響く。

 弾かなければ。完璧に弾かなければ、私は捨てられる。 けれど、指は動かない。心はとうに、磨り減って、悲鳴を上げている。


(.………………やめて。もう、何も聞きたくない!)


 心の中で叫んだ瞬間、アリアの魔力が暴走し、目の前の水晶に鋭い亀裂が走った。 それと同時に、彼女の世界からすべての音が、ぷつりと断ち切られたのだ。

  それは、あふれ出した絶望から魂を守るために、彼女が自ら選んだ、永遠に続く『静寂』という名の、孤独で優しい福音だった。

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