11 忘れ去られた紫唱曲の独白
――「⋯⋯リア。アリア!」
激しい肩の揺れに、私は現実に引き戻された。 目の前には、五年前のような冷たい目ではなく、必死に自分を呼ぶお兄様の瞳がある。
けれど、私の震えは止まらない。
〈⋯⋯ごめんなさい、お兄様。私⋯⋯また、壊して⋯⋯〉
声にならない震える唇で、私は謝罪を繰り返す。
見捨てられる。また「機械」として見られるか、あるいは「化け物」として気味悪がられる。私はそう確信して、逃げるように俯いた。
お兄様が、何かを悟ったように小さく目を見開くのが分かった。
狂喜に満ちていたはずの彼の瞳から、鋭い光が消える。代わりにそこに宿ったのは、痛ましいものを見るような、深い、深い慈愛の色だった。
お兄様は静かに膝をつき、私の視線と同じ高さまで腰を落とした。
そして、今にも消えてしまいそうな細い肩を抱き寄せ、大きな掌で、彼女の両耳をそっと、包み込むように塞いだ。
「――つ」
私の身体が跳ねる。
けれど、その掌から伝わってくるのは、私を拒絶する冷たさではない。 冬の陽だまりのような、穏やかで、深く透き通った 「銀の残響」 だった。
そして、その時だった。
「『――アリア、落ち着いて。......聞きたくないことは、聞かなくていいんだ』」
「………………っ!?」
身体が、雷に打たれたように跳ねた。
今、何かが起きた。 鼓膜を震わせる物理的な「音」ではない。 脳の奥、魂の最も深い場所に、透き通った「一粒の雫」が落ちたような、そんな鮮明な響き。
(お兄様の⋯⋯声⋯⋯?)
ありえない。私の耳は、あの鑑定式の日から、あらゆる音を拒絶してきたはずなのに。 私は信じられない思いで、自分を包み込む兄を見上げた。
お兄様の唇は、確かに動いている。 けれど、それは単なる言葉の羅列ではなかった。
彼の魔力の波形が、一切の偽りも、虚飾も、計算も排除した「純粋な祈り」となって、私の閉ざされた心の扉を優しく叩いたのだ。
「『君が聞きたくない音は、僕がすべて遮断してあげる。……………だからアリア、僕の音だけを聴いてくれ』」
「……………あ………………ああ⋯⋯」
私の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
生まれて初めて聴いた、「自分を傷つけない音」。
前世で浴びたどんな称賛よりも、今世で浴びたどんな罵倒よりも、深く、温かく、私の存在そのものを肯定する響きだった。
「………きこえる………………。お兄様の、おと………………」
私は、震える唇で数年ぶりに言葉を紡いだ。
自分の喉が震え、そこから生まれる微かな振動さえもが、お兄様の残響と重なり合って心地よく響く。
無音だった私の銀色の繭に、たった一筋、外の世界へと繋がる「光の旋律」が差し込んだ瞬間だった。
お兄様という存在だけが、私の閉ざされた世界を優しく、けれど劇的に塗り替えていく。
「⋯ぉ、に⋯⋯さま⋯⋯っ⋯⋯」
私の喉から漏れたのは、声というにはあまりに掠れた、不規則な振動だった。
その一音が紡がれるのと同時に、私の周囲に淡い紫色の霧がふわりと立ち上った。 それは私の瞳の色と同じ、夜明け前の空のような、どこか物悲しく、けれど吸い込まれるほどに美しい色彩。
私が言葉を絞り出すたびに、その霧は色を濃くし、二人を優しく、外界から切り離すように包み込んでいく。
「……こ、わ……い……。おと、が………………こわい、の……っ」
一音、口にするたびに、喉が焼けるような痛みに襲われる。
視界が涙で歪み、自分の魔力が紫色の霧となって周囲に溢れ出していくのが分かった。それは私の悲鳴が形を成したかのように、頼りなく、今にも消えてしまいそうに揺れている。
私はお兄様の胸元に顔を押し当て、嗚咽を漏らしながら言葉を継いだ。
心臓の鼓動が激しく波打ち、それに合わせて紫の光が、苦しいほどに明滅を繰り返している。
「…………わたしの、……せいで…………みんなが、きずつく……………のが…………っ。なにより……………おそろ、しい、の……」
(――私は、私がどうなってもいい。ただ、私の音が、また誰かの世界を壊してしまうのが、耐えられない)
神童と呼ばれた前世でも、今の人生でも、誰にも届かなかった魂の悲鳴。
私は、自分の中にあるすべてを吐き出すように、彼に縋りついた。
お兄様は、私の耳を塞いでいた手に力を込め、その震えを、消えそうな私の魔力をも、すべて自分の身体へ移し替えるかのように深く、深く抱きしめてくれた。
「『……………大丈夫だ、大丈夫だよ、アリア。もう、いい。……全部、僕が受け止める』」
脳裏に響くお兄様の静かな声。
その瞬間、荒れ狂っていた私の魔力が、凪いだ海のように静かに落ち着きを取り戻していくのが分かった。お兄様の銀色の残響が、私の紫色の絶望を優しく包み込み、溶かしていく。
(……ああ。私は、ここにいてもいいんだ……)
「っ……………あ……う」
すべてを吐き出し、過呼吸気味に肩を揺らす私の耳を、お兄様の温かな掌が再びそっと塞いだ。
すべてを吐き出し、過呼吸気味に肩を揺らす私の耳を、お兄様の温かな掌が再びそっと塞いだ。
「『アリア、聴いてくれ』」
脳裏に直接響く、深く、どこまでも穏やかな銀の残響。
お兄様は私の額に自分の額を寄せ、その震えを鎮めるように、一文字ずつ、魂を削り出すような真心で語りかけてくれた。
「『僕が君の盾になろう』」
その言葉は、私の絶望という名の沈黙を、力強く、けれど優しく切り裂いた。
「『君の音が誰かを傷つけるというなら、僕がその不協和音をすべて肩代わりする。……アリア、この魔法学園は、才能を競い合わせる残酷な場所だ。でも、君はもう一人で戦わなくていい』」
私は、塞がれた耳の奥で、その言葉が熱い塊となって溶けていくのを感じていた。
前世で、私は「完璧」であることを条件に、そこにいることを許された。けれど、この人は「不完全」な私ごと、世界から隠し、守ると言ってくれた。
「……お、に……さま……」
私の手が、お兄様の背中に回った。
お兄様の纏う研究所の白いコートが、私の涙でじんわりと湿っていく。彼の手が耳を塞いでいる限り、世界は静かで、どこまでも優しい。
安心感に包まれ、泥のような深い眠りが私を誘う。意識が遠のいていく境界線で、お兄様の穏やかな唇の動きが、そして、その優しい「振動」が私の魂に直接届いた。
「『……いいよ、アリア。今は、おやすみ』」
(……ああ。お兄様の、おと……)
それは、世界を拒絶し、震えていた私の心を優しく解きほぐす「子守唄」だった。
かつて、この音が自分を捕らえる「罠」になるのではないかと、本能が警告したことがあったかもしれない。けれど、今の私にはそんなことはどうでもよかった。
この深い銀の残響に抱かれ、彼という檻の中で眠れるのなら、それがどんな結末に繋がっていようとも構わない。
(……大好き、お兄様……)
私は彼が奏でる至高の旋律に身を委ね、抗うことなく深い闇の底へと沈んでいった。
――ユリアンは、腕の中で眠りに落ちた小さな妹を、宝物のように抱き上げた。
窓の外、厚い雲の隙間から、一筋の白銀の月光が差し込み、二人の姿を静かに照らし出す。
それは、世界で一番静かな場所で結ばれた、たった二人の秘密の契約だった。
第一楽章 終




