5 見えない指揮者
翌朝、学園の講堂はかつてない熱気に包まれていた。
「王立研究所の若き天才」「レゾナンス家の最高傑作」――そんな仰々しい二つ名を持つユリアンお兄様の初講義を一目見ようと、他学科の生徒までもが壁際に立ち並び、期待に満ちた喧騒がさざ波のように広がっている。
私は、その喧騒から逃げるように最後列の端に座っていた。
音が聞こえない私にとって、人の期待が放つ熱量は、肌を刺す無数の針に等しい。今日もまた、誰の視界にも入らない「透明な石」になろうと、机の下で指を強く組み、嵐が過ぎ去るのを待つように身を硬くしていた。
その時、重厚な扉が開かれる「振動」が床を伝った。
一瞬にして、講堂から音が消える。
「今日から特別講師を務める、ユリアン・レゾナンスだ」
教壇に立ったお兄様は、昨夜の図書室で見せた不穏な気配など微塵も感じさせない、完璧な「聖職者」のような微笑みを浮かべていた。
研究所の白いコートを翻し、眼鏡の奥にある知的な瞳で全体を見渡すその姿は、あまりに眩しく、圧倒的だ。私は思わず息を止めた。昨夜、闇の中で自分を追い詰めたあの「銀の残響」を持つ人物と、目の前の爽やかな講師が同一人物だとは到底信じられなかった。
「……まずは、諸君が信じている魔法音楽の"基礎"を再定義しよう。」
ユリアンお兄様の声が響くたび、教室の空気が凛と張り詰めていく。
私は、彼が一度も自分の方を見ないことに安堵しながらも、その背筋が凍るような威厳に、逃げ場のない包囲網の中にいるような錯覚を覚えていた。
***
授業が始まってから、お兄様は一度も最後列の私に視線を向けなかった。
彼は教壇の上で、流麗な動作で魔導式を黒板に描き、生徒たちに優雅に問いかける。指名されるのは前列の優秀な生徒や、期待に目を輝かせるクラリスばかり。
「……素晴らしい。さすがはレゾナンスの血を引く者だ、クラリス」
クラリスお姉様を褒めるお兄様の声は、心底感心したように響いている。私は机の下で、震える指先をぎゅっと握りしめた。
(お兄様は……昨夜のことなんて、もう忘れてしまったの?)
そうであってほしいという願いと、そんなはずはないという確信が、私の胸の中でせめぎ合う。自分だけがこの熱狂の輪から切り離され、透明な壁の向こうに置かれているような疎外感。
しかし、それがユリアンの策略であることに、アリアはまだ気づいていなかった。
「では⋯最後に、私から一曲。魔法音楽の"調和"がいかに精神に作用するか、体感してもらおう」
ユリアンお兄様が愛用の指揮棒を振る。
お兄様が奏でる旋律は、一見すると完璧だった。
講堂を埋め尽くす生徒たちは、その天上の調べに心酔し、クラリスさえもがその美しさに感嘆の息を漏らしている。
しかし、最後列で身を潜める私にとって、それは「耐え難い不快感」以外の何物でもなかった。
(……違う。そこは、そうじゃないわ、お兄様)
私の感性は、ユリアンがわざと仕込んだ「一箇所だけ致命的にズレた音階」を正確に拾い上げていた。
それは理論上のミスではない。音楽的に、美学的に、あまりにも醜い「歪み」。
音が聞こえないはずの落ちこぼれ令嬢には、スルーできるはずのノイズ。けれど、かつて「神童」と呼ばれた私の魂は、その一点の曇りをどうしても許せなかった。
(やめて……その音を、繋げないで……!)
お兄様は一度も私を見ない。ただ、淡々と「間違った」指揮を続ける。
私の指先が、机の下でピクリと跳ねた。
気づけば、私の手は無意識に、虚空で正解の運指をなぞっていた。
前世で数万回と繰り返した、完璧な調和を導くための指の動き。音が止まるのを、不協和音が解消されるのを求めて、私の「本能」が勝手に身体を支配していく。
その瞬間、教壇に立つお兄様が、ふっと薄く笑った気がした。お兄様の口角が吊り上がったのを見て、私は捕まったのだと直感した。
彼はこちらを見ていない。けれど、その指先の動きが、まるで私の指の動きを見透かしているかのように、鋭く、攻撃的な速度へと変わっていく。
(……やめて、引きずられないで、私……っ)
止めたいのに、止まらない。
お兄様の振るうタクトが描く「歪み」を直したくて、私の指先はさらに激しく、優雅に、正解の旋律を空中に描き出してしまう。
周囲の生徒が偽りの音に酔いしれる中、最後列の暗がりで、音が聞こえないはずの私が、音に導かれるように指を躍らせている。
それは、お兄様という指揮者に、私の魂の音を暴かれ、引き摺り出されているような――逃げ場のない残酷な共演だった。




