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3 チェロの音との再会

 逃げるように辿り着いたのは、旧校舎の奥にある深夜の図書室だった。埃っぽい空気と、古い紙の匂い。

ここには、私を追い詰める「音楽」の喧騒はない。


 私は椅子に座り、課題を再開する。いっそこの課題が終わらないでほしい、と思ってしまった。誰も邪魔することのないこの場所にずっと居れる理由ができるからだ。




***




 不意に肩を叩かれ、振り返るとアイスグレーの瞳と目が合った。

 彼はディープアッシュブルーの髪色に研究所の白いコートを纏い、知的な雰囲気で私を見つめていた。眼鏡の奥の瞳は常に何かを分析しているようだった。

 この髪色に瞳の色、もしかして⋯

〈ユリアン、お兄様?〉


私がそう口を動かすと、彼は柔らかな微笑みを浮かべ、口を開く。


「アリア、久しぶり。」

「……っ」


 彼の声が届くことはないが、唇の動きからなんて言っているのかわかった。数年ぶりに触れたその静かなチェロのような低音の振動は、記憶よりもずっと深かった。



 私には兄が二人、姉が一人いる。姉は今日の昼に会ったクラリス・レゾナンスだ。

 そして、目の前にいるのは次男のユリアン・レゾナンス。私が十歳の頃、ユリアンお兄様は学園を飛び級で卒業し、王立研究所へ招かれて一度屋敷を離れた。五年前に見た時よりも背が高くなり、少年から青年らしい大人びた雰囲気を纏っている。


 私は使わない紙を机に置き、その紙に[ユリアンお兄様、お久しぶりです]と書いた。それを見たユリアンお兄様は私の文字の隣にポケットから取り出した万年筆を走らせる。


[久しぶり、アリア。音は変わらず聞こえない?]

[⋯はい。お兄様はなぜ学園に?]


私の丸い字の隣に、お兄様の万年筆が迷いなく滑る。図書室に二つ、違うリズムのペンの音が響く。


[特別講師として呼ばれたんだ。アリアのクラスも担当しているよ]


 その文字を見て、私は少しだけ肩の力を抜いた。数年ぶりのお兄様は、優しく、自分を気遣ってくれている――そう信じたかった。


[それは凄いですね。お兄様の授業を聞くのが楽しみです]


私がそう書き終えるのを待たず、お兄様が次の行を埋める。


[楽しみ、か。……アリア、さっきの課題の続き、少し見せてもらえるかな?]


 心臓が、わずかに跳ねた。

「はい」と短く書き、解きかけの課題の紙を差し出す。お兄様は眼鏡を指先で押し上げ、食い入るようにその紙を眺めた。



お兄様のペンが、特定の数式を鋭く囲む。


[……アリア。これは「音としての美しさ」を優先した配置だね。どうしてこれを選んだの?]


 一瞬、私の手が止まった。


[偶然です、お兄様。なんとなく、こちらの方が「収まりが良い」気がしただけで……]


 震える手でそう書き加えると、お兄様は筆談用の紙ではなく、私の方をちらっと見る。でもすぐに視線を紙に戻して、文字を書き加えた。


[へぇ、凄いね。とても綺麗だ。]


 その言葉を見て私はまだ何も気付かれてない事に安心する。


[ありがとうございます。]


 私が書き終えるのを待っていたお兄様の万年筆が、次の行を埋めようとして——不自然に止まった。

何か、核心に触れるような鋭い一文を書き加えようとしたのかもしれない。けれど、お兄様はわずかに目を細めると、思い直したように小さく首を振った。


[……課題の邪魔をして悪かったね。そろそろ行くよ]



「まだ、怖がらせるべきじゃないな」とでも言いたげな、含みのある沈黙。私は一瞬だけお兄様の万年筆の動きに違和感を覚えたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべたので、気のせいだと思い込むことにした。



 お兄様は最後にそう書くと、手を振った。手を振り返す私に満足げに表情を緩めた。

そして、お兄様は踵を返し、音もなく闇に溶けるように図書室を去っていく。




(……あれ?)



 お兄様の背中が扉の向こうに消えた瞬間、ふっと、肌を刺すような冷たい風が吹き抜けた気がした。


 「優しい兄」が去った後の廊下に残ったのは、温かな残り香ではなく、凍てつくような、研ぎ澄まされた魔力の残響。

 理由のわからない寒気に身を震わせたが、私はすぐに首を振った。きっと、夜の旧校舎が少し冷え込んできただけだ。




 私は再び、孤独で静かな執筆の世界へと没頭していった。

 


 静まり返った図書室に、たった一つの、安堵と共に再開した孤独で静かな執筆の音だけが万年筆の音だけが響き出す。



  


 私の書く一文字一文字を、お兄様が闇の中から、逃さぬようにじっと見つめていることなど、今の私には知る由もなかった。

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