2 不快な振動
放課後になり、私は寮に戻った。
部屋はシンプルで、無駄なものが一切ない。薄い家具で統一されていて、遠くから見れば白い部屋に見えそうだ。
部屋の窓の向こうには、茜色に波打つ雲の海が広がっていた。厚い雲の下に、影を纏った学園が沈んでいる。
私は椅子に座り、鞄から紙を何枚か取り出す。それはクラリスお姉様が私のために、わざと難問ばかりにしている課題だった。
クラリスは多くの生徒から慕われていて、先生からも信頼が厚い、学園に影響力のある人だ。きっと妹の課題を難しくするぐらい簡単にできるのだろう。
課題は提出しないと成績が落とされ、退学になる。私は課題にざっと目を通した。
もし私が、本当に音と関わったことがない、普通の音が聞こえない人だったら、こんな問題解けるはずもなくて、もう退学になっているだろう。
⋯⋯まあ、まず音が聞こえない時点で普通じゃないけどね。
(難しい課題ばかり出して、私に成長の機会をくださるなんて、お優しいこと。)
本当は違うが、私はそう思うことにしている。神童と呼ばれた前世の知識があれば、この課題は簡単すぎるからだ。
とりあえず、量だけは多いのでさっさと終わらせよう。数式という名の譜面を眺めれば、どこにどの記号を置けば調和するかは、考えずとも勝手に手が動く。
部屋には万年筆がカリカリと動く音と、リズムを確かめるように指で机をトントンと叩く音が響いていた。
でも、その音が彼女の耳に届くことはなかった。
***
⋯⋯空気が乱暴に揺れた。
(誰かが魔法を練習しているのかな?寮での大きな魔法使用は禁止なはずだけど⋯。)
いつの間にか窓の外は茜色では無くなっていた。雲の隙間から見えていた空はまだ群青を残した黒だった。
課題はあともう少し、という所まで終わっていた。
最後までやろうともう一度紙に向き合った時、空気が雑に波立ち、肌を逆なでする。それは調律を忘れた楽器が叫んでいるような、泥を投げつけられるような不快感だった。
(気持ち悪い、不協和音だ⋯。)
音が聞こえたわけでは無いが、空気中の魔力を伝った振動からなんとなく嫌な音だということだけは感じていた。私はすぐに布団に包まり、自分自身を抱きしめた。
その後も何度か部屋の魔力が揺れた。なんで振動だけでもこんなに不快になるのにそれを気にせず音を出せるのか、この音を聞いて皆はなんとも思わないのか。私はそれらが不思議で仕方なかった。
三十分ほど経つと、振動が収まってきた。長く息を吐くと無意識に息を詰めていて、気が付かなかった吐き気が胸に広がる。
(あ、これはヤバい。)
無理やり動き、窓を開けて目一杯息を吸う。そこから冷たい風が入り、体にスッと染み込んでいく。数回深呼吸してから、窓を閉めた。
しかし、またあの空気の揺れが来ると思うと不安になってくる。どうすればいいか、と悩んでいると視界に本が映った。
⋯⋯あそこの静寂なら、私を守ってくれるだろう。
数秒それを見た後、私は途中だった課題と万年筆を持って廊下に出た。
***
夜空は漆黒になっていた。厚い雲の帳に遮られ、星の光も届かない世界を、冷たい夜気だけが満たしていた。
学園内には三つの庭と響きの中庭がある。今、歩いている所が三つの庭の内の一つ『氷音の水晶庭』と呼ばれる場所だ。ここは冬でも凍らない不思議な池があり、水面を叩くとクリスタルのような高音が響く庭だ。
私は、この庭があまり得意ではない。水面を叩けば鳴るはずのその音は、私には鋭い氷の破片が肌を滑るような感覚として記憶されている。今は誰もいないため、身を切るような音は鳴っていない。
しかし、さっきの無造作な振動が来るかもしれないと思うと少し怖かった。
ふと、風がふわっと私を撫でる。その風だけは、刺すような魔力の揺らぎを含まない、不思議と柔らかな手触りだった。
……そんな優しさに、かえって涙が零れそうになる。
私が無意識に手を強く握りしめていた事に気が付いた。
(ここも、寮も、私を追い詰める。……お願い、あそこだけは、私を独りにして。完璧な無音で、私を包んで⋯⋯。)
震えながら、手を解いて氷音の水晶庭を早足で抜けていった。




