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嗚呼、そんな約束をした日が今は懐かしい。
溢れる臣下たちの報告を前に、くらりと目を回しそうになる。
「海の女神を祭る教会の修繕は順調です。ステンドグラスや彫刻の修理にも人員を割けます」
「調査資料を観光客に分かりやすくまとめた資料も作成し、近隣遺跡の案内広告の作成も進んでおります」
「宿屋に特別手当を支給し、十分な宿泊施設の確保も完了しました」
「クラーケンの墨料理が、珍味として各国からの注目を集めています」
「高級食材として、クラーケンが餌とする熱帯魚の一部が高い注目を集めており、相乗効果も見込めるようで……」
「陛下、いかがいたしましょうか」
一年が過ぎた。去年とは比べ物にならない程、我が国パヌゼウは観光客であふれていた。それに伴い、執務室には常に、観光資源の最新情報や進捗を報告する臣下たちが押し寄せている。細かな決定権は各部門の長に一任しているとはいえ、最重要案件に数を絞ったとしても、確認しなければならない案件が私のキャパぎりぎりになるほど、作業量はぐっと増えていた。
その多くが、アドリアのおかげである。彼はクラーケン事業を皮切りに、鳴かず飛ばずだった観光資源に次々と目をつけていった。といっても、既存の事業は臣下たちの自尊心を傷つけないよう、最低限の支援や助言のみに抑え、新たな事業を次々と立ち上げていった。自分が握っていた仕事に手を出され、他国の王子のわがままかと最初は訝しんでいた臣下たちも、いまではすっかりアドリアを信用している。誰も彼もが、昔の観光大国としての栄華を取り戻しつつある現状の立役者は、間違いなくアドリアであると認めているのだ。
ようやく報告を終えた臣下たちがすべて去り、アドリアだけがぽつんと残った。そんな彼を前に、私は執務室のソファで眉を下げ、困り果てていた。
「陛下。今回の報告は以上になります」
「ああ。素晴らしいな……」
「でしょう?」
「……」
「……」
黙りこくったアドリアと私は沈黙の中見つめあった。彼の目が、強く私に訴えかける。私が恐る恐る彼の頭のてっぺんへと手を伸ばすと、彼は首を垂れ、つむじを私へと見せた。そのまま、指通りの良いさらさらの髪を労わるように梳いて撫でると、じゃれるようにすりすりとさらに近寄った。
まるで愛らしい子犬のようだ。だがその実態は私より図体の大きい男である。
(どうしてこうなった……)
――はじめは、クラーケン事業が国の一大事業として確立したときだろうか。約束を守って欲しいとアドリアに願われた。
『約束?』
『褒めてくださると、約束してくださいましたよね』
私に訴えかける彼の瞳は、まるで海の底のようにどこか暗さを帯びていた。きらめく宝石ではなく、暗い焔のように揺らめいていたのを強く覚えている。そこで私は、彼が実体のある褒美ではなく、私からの褒め言葉を「本当に」欲しがっていることを初めて悟った。
どうしてそんなものを欲しがるのか。戸惑いながらも口にしたのである。
『ええと……素晴らしい。我が夫として、誇らしいことこの上ない』
『陛下……!』
そこから、彼の熱はさらに高まった。ぐんぐんと国益の為に働き、一定の成果が出れば私からの褒め言葉を求めた。最初は言葉だけだった。ところが、それ以上のものを、あの仄暗い目でじっとりと求め始めた。このように頭を撫でたり、そっと肩を揉んだり、膝枕をしたり。
本当に実物はいらないのだろうかと疑問に思い、一度宝石を与えようとしたことがある。ところが物を差し出せば、瞳からすっと光が失せていった。虚無の表情に驚き、慌てて手を握り締めてあげたことは記憶に新しい。一度学んだことは忘れない。私は、私自身が与えられる「褒め」を、日々彼に差し与えているのである。
満足したのか、頭を上げたアドリアは、私の鼻に自らの鼻を合わせる気かと驚愕するほど間近な距離で、その目で私を射抜いた。
「陛下」
「なん、だ」
「貴方は私に愛人を作っても良いと仰いましたが、陛下自身は第二夫君を迎えるおつもりはありますか?」
突然の質問だったが、彼の言葉の裏にあるものまで考えることなく、私は慎重になりつつも素直な言葉を口にする。
「いや、今のところはないよ。養える金銭的な余裕もないし」
「……もし、私のように良い金蔓があれば、やぶさかではないと?」
ぞわりとした。背筋に悪寒が走り、室内の気温がぐっと下がった錯覚に襲われる。だが、ここでひるむような女ではないのだ。
「ううん、よほどのことがなければ考えてはいないな。すべての事業が失敗し、莫大な借金を抱えれば考えるかもしれんが、そうならないように努めるつもりだ。そもそも、そんなに甲斐性もないしな」
アドリアはようやく私から離れた。瞳には夜明けの柔らかい光が戻り、ふわりと柔らかく微笑んでいる。一年経って、ようやくパヌゼウの男らしく薄っすらと小麦色に焼けた肌が眩しい。だが、彼が南風を纏う国の男らしくなっても、どこか夏の気配よりも冬の積雪を連想してしまう。どれだけ私の隣に立とうとも、私と距離を縮めようとも、芯から体を冷やすような、凍てつく吹雪の匂いが鼻の奥に突き刺さるのである。
そんな彼は目尻に皺をよせ、精一杯の満面の笑みを浮かべた。そして私の肩に頬を寄せ、甘えるように身を寄せる。大型犬か、はたまた一歩間違えれば骨まで砕ききる猛獣か。
「では、貴方が、私以外誰も迎え入れる必要のないように、金を儲けて儲けて、いっぱい潤してみせますからね」
「……」
困った。どうして、こうなったんだ?
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