表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/7

妊娠

あれから三ヶ月が過ぎた。

職場のトイレで一人、私は検査薬を握りしめ、震えていた。陽性の判定。それは、私の人生を根本から覆す事実だった。

誰の子か、などという問いは無意味だった。アキラとの営みは、ここ半年で数えるほどしかない。この命は、間違いなく優太のものだ。

激しい動悸を抑え、私は深く息を吐いた。

この事実を優太に告げるべきか? いいえ、そんな選択肢はない。彼はまだ若く、夢もある。私のような「家庭のある女」と、将来を背負うことはできないはずだ。

何より、もし彼に告げれば、この今の平穏な生活──パート先でのささやかな楽しみや、アキラの稼ぎによる経済的な安定──がすべて崩れ去る。

私はこの子を、アキラの子供として産む。そう決めた。

それが、私に残された唯一の生存戦略だった。

その夜、私はいつも以上に丁寧に夕食を作った。

ハンバーグの焦げ目、サラダの瑞々しさ。私が「家庭」という聖域を完璧に守り続けているという証拠を並べる。

リビングでは、アキラが相変わらずゲームに興じている。39歳にもなって、仕事の疲れをゲームで癒やすのが唯一の娯楽。私の妊娠など、彼には想像の埒外にある。

食事中、私は努めて平静を装い、彼に話しかけた。

「……ねえ、アキラ。最近、週末はゆっくり過ごしてるけど、たまには二人で夜、ゆっくり話さない?」

アキラはフォークを止めて、訝しげに私を見た。

「話す? お前、急にどうしたんだよ。何かあったのか」

「ううん。ただ、最近家事ばかりで……少しだけ、夫婦の時間が欲しいなって」

私の言葉に、アキラは鼻で笑った。

「お前も奇特だな。そんな余裕あるのか?」

私は、唇を噛み締めた。


この妊娠を「夫との子」として認めさせるには、タイミングが必要だ。確実なアリバイ作り。冷え切った夫婦関係に、強制的に嘘を流し込む作業は、精神を削る劇薬だった。


私はクローゼットの奥から、普段は決して着ることのない下着を取り出した。レースがふんだんにあしらわれた、肌を透かすような深い黒のガーター付きランジェリー。結婚以来、一度も彼に見せたことのない、淫らな勝負下着だ。


優太との関係で研ぎ澄まされた女としての本能が、この時ばかりは「武器」へと変わる。


私はそれを身につけ、上からバスローブを羽織った。

鏡に映る私は、清廉潔白な妻の皮を被った、一匹の捕食者だった。


娘が寝た事を確認し、旦那の元へ向かう。そして、無言のまま彼の肩から腕を回し、そっとバスローブの紐を解いた。


「……何だよ、急に」


驚くアキラの耳元で、私は甘く、しかし湿り気を帯びた吐息を漏らす。


「……たまには、夫婦らしくしたいなって思って」


私は彼の膝に跨り、その唇に指を這わせた。アキラの目が、獲物を捕らえたように鈍く光る。私は自分の中に殺意に近い嫌悪を抱きながら、顔には妖艶な笑みを貼り付けた。

演技だ。これは、私の未来を守るための高難度な演技。


私はバスローブを脱ぎ捨てた。

アキラの瞳が、私の肌を這う。

「お前、こんなの持ってたのか……」

「内緒。あなたのためだけに、用意したの」

私はあえてゆっくりと、彼の視線を挑発するように身をくねらせた。

ベッドに倒れ込み、アキラが覆いかぶさってくる。その体温が私の肌に触れる瞬間、生理的な拒絶反応が喉元までせり上がってきた。

私は必死に、優太の顔を脳内で消し去った。今、この瞬間に必要なのは、アキラという男を心底満足させ、私という女に執着させることだけだ。

私はアキラの首に腕を回し、まるで彼を深く愛しているかのように、耳元で愛の言葉を囁いた。

「……ねえ、もっと。私の全部、見て」

私は、自分を完全に「置物」へと切り替えた。

心はどこか遠くで冷たく笑っている。身体だけが、アキラの欲求を満たすために熱を上げ、嘘の吐息を漏らす。

激しい快楽のフリをして、私は彼の熱を全て受け入れた。

彼が最後に見せた、獣のような顔。私はそれを見つめながら、勝利の確信を抱いていた。

これでいい。これで、この子はアキラの子供として育つ。

行為が終わり、アキラが満足げに背を向けて眠りにつくと、私はシーツを握りしめた。

指先は冷え切っている。

キッチンへ水を飲みに行くと、鏡の中に「妻」の顔をした化け物がいた。

吐き気。それはつわりのせいか、それともこの背徳に対する罰か。

私はシンクに手を突き、誰にも聞こえない声で笑った。

この歪んだ日常こそが、私が選んだ唯一の道。優太の命を宿し、アキラの金で守られる。

私は、この偽りの家庭という檻の中で、一生かけてこの嘘を突き通す覚悟だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ