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旦那への苛立ち。

月曜日の朝。週末の疲れが鉛のように残り、足取りが重い。

職場に着くと、中川優太がすでにデスクで資料の整理をしていた。私を見るなり、彼は少し驚いたような顔をして、すぐに柔らかな笑顔に変わった。


「如月さん、おはようございます。……なんだか顔色が優れませんね。週末、何かあったんですか?」

その何気ない問いかけに、思わず胸が締め付けられた。家では、私がどんなに青白い顔で夕食を作っていても、アキラは一言もそんなことを尋ねてくれない。


「……少し寝不足なだけ。大丈夫よ」

強がる私に、優太は「これ、飲んでください」と、淹れたての温かいコーヒーを差し出した。彼の指先が私の手に触れる。なんてことのない、一瞬の接触。なのに、アキラと最後に手を取り合ったのはいつだったか思い出せない私には、その微かな温もりが心地よく心に侵入してくる。

職場での優太との会話は、唯一私が「一人の人間」として扱われている時間だった。彼にとって私は「如月さん」であり、母でも妻でもない。その事実が、凍りついた私の心を少しずつ溶かしていた。





しかし、その安らぎは、家という名の戦場に戻れば瞬時に霧散する。

ある日の夕方。私はアキラに、娘の学校で使う副教材を仕事帰りに買ってきてほしいと、LINEで頼んでいた。仕事場の近くに大きな書店がある彼は、帰宅ルートで簡単に寄れるからだ。しかし、帰宅したアキラの手には何もなかった。

「……お願いしてた教材、どうなった?」

リビングでスマホをいじっていたアキラは、面倒くさそうに顔を上げた。

「ああ、忘れてた。仕事が忙しくて、それどころじゃなかったんだよ」

「でも、明日までにどうしても必要なの。朝一番に持たせなきゃいけないから」

「そんなの、今からネットで頼めばいいだろ。俺をパシリにするなよ」

結局、私は疲れ切った体で、すでに夕飯の準備を終えた後、遅くまで開いている駅前の店舗まで車を走らせた。

私が教材を抱えて帰宅すると、アキラは変わらずリビングでゲームをしていた。私の疲労困憊の様子など、彼には一切目に入っていない。私はこの時、この人のために犠牲を払うことに、心底疲れ果てている自分に気づいた。

そしてその夜。

夕食の片付けを終えた私は、娘のピアノの練習に付き合っていた。来月の発表会のために、同じ小節を何度も繰り返す。

「そこ、指がもつれてるよ。もう一回」

娘が泣きそうな顔で鍵盤を叩く。横で見ている私も、先ほどの教材の件の苛立ちと、一日の家事の疲れで神経がすり減っていた。

リビングのソファでは、アキラがバラエティ番組を見ながら、ケラケラと笑い声を上げている。

「ねえ、アキラ。少しでいいから交代してくれない? 私、もう頭が痛くて……」

私が懇願するように言うと、アキラはテレビから目を離さず、冷たく言い放った。

「俺は仕事で疲れてんだよ。ピアノの練習くらい、お前が見ろよ。お前がやらせたくて習わせてるんだろ? 月謝は出してやってるんだから、指導くらい責任持ってやれよ」

その言葉に、胸の奥で何かが静かに、しかし決定的に壊れた。

お金を出せば、あとの苦労はすべて私のもの。それが彼の「家庭」の定義なのだ。

「責任……。お金を払えば、父親としての責任は果たしたことになるの? 私が毎日、どれだけ時間を割いて、この子の面倒を見ているか、一度でも考えたことある?」

私が震える声でそう言うと、アキラはついにスマホを置いて、呆れたような表情で私を見た。

「ヒステリックになるな。俺だって、家でくらい静かに過ごしたいんだ。稼いでくるのがどれだけ大変か、お前には分からないだろうな」

「稼いでくるのが大変なのは分かってる。でも、この家の維持は、私一人でやってるんじゃないでしょ」

「俺が稼いで食わせてるんだ。それが嫌なら、お前がもっと稼いでくればいいだろ」

アキラは立ち上がり、寝室へ向かった。バタン、と容赦なくドアが閉まる。




残されたリビングで、娘が怯えた顔で私を見ている。



私はその場にへたり込んだ。




アキラという壁は、あまりにも厚く、冷たい。

私の苦しみは、この家では誰にも届かない。

頭の中で、日中職場で優太がくれたコーヒーの温もりが、走馬灯のように蘇る。

もし優太だったら、こんな風に私を突き放したりしない。

この時、私の心の中で、アキラという夫への愛は完全に終わりを告げ、別の場所へ向かうための扉が、静かに開いた音がした。

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